岩手県紫波郡紫波町赤沢。赤沢薬師堂(七仏薬師)。※紹介している鳥居及び社号標は白山神社のものになりますが、当日の時間の都合上、白山神社には行くことができなかったため紹介いたしません。
社号標(昭和10年11月30日、除隊記念)

鳥居。

鳥居額束神額(岩手県知事中村直謹書、平成2年4月吉日奉納者中島)

標柱。正面に「紫波町指定文化財赤沢石卒都婆群」、左右に「赤沢薬師堂」・「白山館遺跡」。


赤沢は権現山西部、北上川水系赤沢川流域に位置。赤沢川流域に縄文中・後期の遺跡が多く分布しており、また、字的場からは土師器、字行人平からは方頭大刀1口が出土。
中世は戦国武士赤沢氏の本拠地。斯波郡のうち。天正16年に南部信直の斯波郡攻略があり、長岡城合戦に馳せ参じた人々のなかに赤沢の名がありました。赤沢氏は後に南部氏に仕えます。赤沢の白山堂(寂静山蓮華寺跡)の傍には鎌倉末期の板碑があり、開発の古さを示しています。嘉暦4年・元徳3年の2基には「道成敬白」の文字が見えており、この他に嘉暦2年などの板碑3基があります。赤沢の旧小学校裏の崖下には正和元年の磨崖碑があります。これらのうち嘉暦4年の板碑は平泉藤原氏の祖、藤原経清の母の墓碑と伝えられています。法広山正音寺は室町中期の文正年間の創建と伝えます。曹洞宗黒石正法寺の末寺。開山大応玄徹和尚は陸奥国司北畠顕家の孫。正法寺2世月泉和尚の門弟、斯波詮教の法名を正音院とするのは当寺にかかわるものと推定。赤沢館は赤沢川流域を見下ろし、上流の金鉱山へ通じる道のおさえともなる要害の地。丘陵の地形に沿って馬蹄形に配置された複郭からなり、300m×250m、比高92m。北田館(畑の沢館)・加賀館・田村館(字清水袋)・的場館・久保館等とも近いです。
江戸期の赤沢村は紫波郡のうち。盛岡藩領。長岡通に属します。村高は正保郷村帳315石余(田249石余・畑65石余)、貞享高辻帳370石余、邦内郷村志682石余(うち給地400石)、天保郷帳682石余、天保8年の御蔵給所惣高書上帳702石余(御蔵高282石余・給所高419石余)、安政高辻帳547石余、旧高旧領793石余。邦内郷村志では家数135(集落別では杉町15・漆山5・荒屋敷5・坂ノ上13・繋村5・岡田15・木戸脇5・漆沢5・二合16が見えます)、馬218。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数119、集落別内訳は本村30・杉町7・漆山8・荒屋敷3・坂ノ上11・行人平4・繋3・岡田16・漆沢9・仁郷8・牛ケ馬場8・天田5・矢柄1・三子平6。寛永18年の検地目録によりますと当村は御蔵高576石余で給地は見えません。幕末期の給人とその高は、藤枝鉄五郎466石余・糠塚理右衛門24石余・下田直見18石余・楢山蔵之進1石余・藤枝鉄之助30石余。当村の年貢率は延宝年間の平均で1割8分余、嘉永2年は不作でしたが5割5分余。この他に御役屋郷役銭として、天保15年には100石当たり銭8貫405文、嘉永4年には同じく8貫770文、更に天保15年には別段御入用銭として100石につき25貫文、嘉永2年には御才覚金として同じく34貫文を課されていたことが知られます。地内には繋金山・元沢金山があり、繋金山は寛永15年に開かれ、50日間の採掘に対して80両と50両、2ヶ月の採掘について20両の運上金を各々課した3件の採掘が認可されています。当村と大巻村・星山村の3ヶ村にまたがる黒石山周辺は、古くから各村の入会地でしたが、村境が不明確であるために紛争が絶えず、文政7年藩が入会地の境界を裁定、文久3年には検地の実施とともに村境を裁定し、入会地についても吟味されました。これによって星山村の黒石山頂から大星堤に至る沢の東側は当村と星山村、西側は星山村と大巻村、当村の黒石山南側は大巻村、また、星山村と大巻村は村境を越えて大巻村の大巻山まで続くように入会地が複雑に定められ、同年星山村と大巻村では負傷者を出す紛争となっています。地内にある白山社は寛永5年の家老証文で別当手作り地28石余から上納する年貢米のうち毎年15駄が給されるようになりました。安永10年には白山社の杉7本が190貫文で売られ、帆柱などとして他領に移出されています。その別当は紫野村の慈徳院で、嘉永7年には慈徳院が白山社境内の見守山を「案堵銭」34貫文で孫次郎という者に永代譲渡しています。他に白山権現堂・阿弥陀堂・薬師堂などの堂社があります。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同10年の村の幅員は東西約1里27町・南北約30町、税地は田79町余・畑138町余・宅地27町余・荒地2町余・鍬下16町余など計265町余、戸数127・人口830(男435・女395)、牛16、馬243、赤沢学校の生徒数75(すべて男子)、職業別戸数は農業124・商業1、物産は馬・鶏・鵞・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・黍・柿・麻布・煙草・薪。学校は船久保村、紫野村も含めた学区で、明治6年字駒場に校舎を新築して赤沢小学校を開校、同20年赤沢尋常小学校と改称(紫波町史2)。同22年赤沢村の大字となります。昭和30年からは紫波町の大字。明治22年の面積1,223町余、戸数125・人口843。明治24年判官堂に赤沢巡査駐在所設置(昭和43年廃止)。昭和7年字坂ノ上に赤沢郵便局設置。昭和12年の調査によりますと田106.1町・畑128.1町・宅地25.3町・山林1,137.1町・原野41.5町。同39年字駒場に赤沢児童館設置。同45年東部山中の字女牛に白竜石灰化工・奥羽開発を誘致。同55年字駒場に赤沢公民館が設置されたほか、紫波町農協赤沢支所、赤沢果樹協同組合・同ブドウ選果場などがあります。水田耕作のほか丘陵地に造成されたブドウ園の経営も盛んな農業地域。

木造七仏薬師如来立像(岩手県指定有形文化財)…『中央仏と左右それぞれ三体の仏像を総称して、木造七仏薬師如来立像と呼ばれています。七体とも平安時代後期の作で、中央仏を造った後に、これを模して他の六体が造られたものと言われています。中央仏は近世(江戸時代)、他の六体は近代(明治時代)に金が塗られています。このように、七仏薬師として七体全部がほぼ完全に保存されているのは、全国にも少ないと言われています。紫波町教育委員会』
赤沢地区の音高山南麓の福宝薬師堂にある木造七仏薬師如来立像は、平安末期12世紀、奥州藤原氏の時代の作と推定されます。七仏薬師如来立像が今も地域の人々の信仰を集め、祀られているお堂です。12月8日がご祭日となっており、薬師講の方々によって毎年お祭りが続けられています。周辺に鎌倉時代末期の石卒塔婆群10基が散在しており、正和元年(1312)、嘉暦2年(1327)、同4年、元徳3年(1331)の紀年銘があります。 前九年の合戦(1051~1062)の時、一族の遠山師重は経清の母とともに赤沢へ落ち延び、母はここで亡くなったといわれており、経清の母の供養碑があります。なお、「藤原経清の母の墓」については別記事にしております。
木造七仏薬師如来立像(岩手県指定有形文化財(彫刻)昭和56年12月4日指定、有150)…『本郡像制作の詳しい経緯は詳らかではありませんが、平安時代(12世紀)の作とみられ、安置されている薬師堂は奥州藤原氏の時代に当地に栄えた蓮花寺(蓮華寺)の寺域内にあったと考えられています。七仏薬師信仰は、中世以来とりわけ天台宗で盛んに信仰されましたが7体全て現存する例は少なく大変貴重な文化財です。経年劣化や虫損、東日本大震災による損傷を修復するため、平成28年から令和2年まで公益財団法人住友財団の助成を受け、修理事業が実施されました。近世から近代にかけて施された漆箔や彩色は除去し、後世に補われた足首先、台座の一部は取り除き、制作当初の平安時代の姿にならって新しく補われました。これまで像は全てカツラ材で造られたと考えられてきましたが、修理事業に伴う樹種同定の結果、中尊と脇尊2体はホオノキ材であることが判明しました。』紫波町教育委員会


赤沢薬師堂。
岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター開館記念号より一部抜粋…奥州藤原氏の中心拠点は「平泉」ですが、近年これに次ぐ拠点「比爪」の存在が注目されています。比爪は宗教的な面においても重要な拠点でした。奥州藤原氏の理念は、平泉に留まらず、比爪の地においても花開いています。比爪の中心域は岩手県紫波町南日詰付近ですが、そこから北上川を渡った東岸に所在する赤沢薬師堂の七体の薬師如来像「七仏薬師」は奥州藤原氏が求めた宗教的理念を象徴する遺産です。七仏薬師は薬師如来又はその化身である七如来を一括して祀る形です。そのいわれは、『薬師経』に、薬師如来を七体造り礼拝する旨が説かれています。赤沢薬師堂に安置される七仏薬師立像は約四尺の中尊と約三尺の脇仏六尊からなっています。いずれも12世紀の制作で、平安時代にさかのぼる当初からの揃いの七仏薬師は全国でも稀有です。赤沢薬師堂の前身は「寂静山蓮花寺」という寺院でした。蓮花寺の寺号は、修験道の祭り「蓮花会」に由来し、山岳信仰との関わりが示されます。このことは早池峰山(1,917m)との位置関係からも理解されます。早池峰山の古名は「東峰」といい、蓮花寺の視点からの名称であると考えられます。奥州藤原氏の時代、蓮花寺を起点とした早池峰山信仰が存在していたのです。また、蓮花寺には七仏薬師が祀られており薬師信仰を中心とする寺院です。『薬師経』には、「東方に十恒河沙という距離に浄瑠璃世界という仏土がある。その教主は薬師瑠璃光如来で、瑠璃光を以て衆生の病苦を救う」と説かれます。蓮花寺の東にそびえる早池峰山を薬師如来のいる東方浄瑠璃世界に見立てる世界観が想定されます。東方へ十恒河沙の彼方にあるとされる薬師如来の浄土「浄瑠璃世界」、この仏国土を日本そして世界の極東に位置する早池峰山に重ね、その登拝口にあたる蓮花寺を建立し、七仏薬師を祀ったのは奥州藤原氏に他なりません。奥州藤原氏は早池峰山に東方浄瑠璃世界を観たのです。

鰐口。

堂宇内。
木造七仏薬師如来立像7体(岩手県指定有形文化財(彫刻))…『所在地:紫波町赤沢字田中、薬師堂。所有者:紫波町、石亀全孝。平安時代後期、桂材-木造、漆箔、漆塗。像高:中尊128.1cm、脇仏(1)84.4cm(2)88.3cm(3)88.4cm(4)88.2cm(5)88.3cm(6)84.0cm。「七仏薬師経」による七仏薬師像。平安期の七仏薬師像7体がほぼ完存している例は全国的にも少なく貴重です。各像とも、螺髪刻出、白毫をつけ、耳朶環状、三道彫出、衲衣を通肩にまとい、左手に薬壷をのせ右手は施無畏の形とし、両足をそろえて立つ。中尊は一材から彫成、頭、体部に内刳り、蓋板をあて両肩外側部、手先、足先を矧付ける。表面の漆箔、漆塗、両手先、足先、持物、光背、台座は後補(ただし、中尊台座の反花、丸框のみ当初のものを残す。)』

木造七仏薬師如来立像。
石碑群。

詳細までは見ていません。「白山」「古峯山」「法華一部…?」などと彫られています。








弔魂碑(昭和31年8月15日護國同志会赤澤分会遺族会一同建之)。

報國忠魂碑。



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