岩手県大船渡市赤崎町鳥沢。鳥沢の大船渡湾に突き出した尾崎岬に鎮座。一之鳥居前にはかつて駐車場があったそうですが、東北大震災による地盤沈下によって沈んだそうです。
赤崎は大船渡湾の東側に位置。大股山の山麓が西に傾斜し大船渡湾にせまっており、平野地が少なく集落は海岸に沿って点在。北に今出山から流れる今出川があります。地内には遺跡が多く、縄文前期の清水貝塚、縄文中期大貝塚の蛸の浦貝塚、縄文後期~晩期の大洞貝塚等があります。大洞貝塚は東北縄文後・晩期の編年的研究において基準になる遺跡。新沼美作の居城であった赤崎城跡、城主未詳の森館跡があります。大船渡湾奥東岸の赤崎保育所敷地付近一帯が赤崎城跡。保育所のある東西200m・南北150m、標高10mの台地が本丸跡。大船渡湾東岸、蛸ノ浦集落の漁協出張所裏山が森館跡。東西100m・南北150m、標高30mの小山全体が館跡。また、山口熊野堂には正応元年・同6年・永仁2年・元徳3年・建武元年など、紀年のあるものをはじめ多くの中世板碑が残されています。江戸期の赤崎村は気仙郡のうち。仙台藩領。村高は寛永検地57貫余(田30貫余・畑27貫余)、元禄郷帳524石余、天保郷帳・旧高旧領ともに704石余。封内風土記によりますと家数253、神社は神明宮・熊野神社・諏訪神社・牛頭天王社・尾崎大明神、他に弁財天堂が見えます。明治元年松本藩取締、以後江刺県、一関県、水沢県、磐井県、宮城県を経て、同9年岩手県所属。同13年の村の幅員は東西約1里13町・南北約2里2町、税地は田60町余・畑236町余・宅地17町余・製塩場4反余・塩田2町余の計316町余、戸数348・人数2,541(男1,313・女1,228)、牛9、馬431、舟204(商船2・漁船202)、小学校の生徒数は男子のみで赤崎学校107・蛸浦学校73、職業別戸数は農業137・工業25・商業58・雑業126。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
明治22年の面積2,303町余、戸数372・人口2,918。以後人口は大正5年2,964、昭和5年3,821、同15年4,656、同27年5,769と推移。明治25年の戸数386で過半数は漁業に従事、湾口の長崎・合足は漁業を主とし、赤崎以北は柴海苔・塩釜小漁を主とし農業を兼ねます。網は鰯網11把・鮭網8把、受繰網は22把ありましたが鮭不漁のためすでになく、盛川鮭留は1町2ヶ村の共同稼業で当村が主担。捕貝・採藻の地域は綾里境から向岸の大船渡まで、捕貝はアサリを主とし鮑は僅少。製塩は江戸期から継続して行われており、明治14年塩田2町4反・生産高960石、同35年塩田2町4反・生産高500石、同40年塩田1町5反・生産高91石。明治29年三陸大津波の被害を受けながらも再開しましたが、製塩に大量の燃料が必要であり、年々伐採地が遠くなるとともに次第に普及してくる養殖海苔業者との篊伐採問題もおき、更に明治38年の塩専売制度の実施により同43年廃止されるに至りました。大船渡湾内ではイルカは当村に限って捕獲でき、大正5年166頭・同6年750頭・同7年300頭・同8年300頭を捕獲した記録があります。大正6年の戸数455・人口3,319、田60町余・畑253町余・宅地24町余・山林1,873町余・原野41町余、学校は赤崎尋常高等小学校・蛸浦尋常小学校の2校、社寺4、職業別戸数は農業335・漁業7・商業14・工業1・自由業9・その他4、家畜家禽数馬258・牛28・豚32・鶏232、漁船は2間未満270隻、3間以上5間以内201隻、5間以上で発動機を有するもの1、同有しないもの2、各集落別戸数中井28・沢田36・佐野34・宿55・生形52・山口45・永浜54・清水21・上蛸浦31・下蛸浦39・長崎46・合足14。三陸大津波の被害は、明治29年死者474・重傷者36・軽傷者69、流失家屋158・全壊4・半壊23で波高は合足で18mを記録、昭和8年死者66・行方不明者15、家屋流失84・全壊19・半壊39・床上浸水51・床下浸水18で波高は合足で15.2mを記録。明治45年4月火災が発生しており長崎集落47戸のうち37戸、94棟が焼失。第二次大戦後の農地改革による開放予定面積は9町2反で、昭和27年買収済面積10町4反余・売渡済面積10町3反余。同27年大船渡市赤崎町となります。昭和32年岩手開発鉄道盛~小野田セメント(赤崎)間が開通。同45年国鉄盛線盛~綾里間が開通し陸前赤崎駅が設置されましたが、同線は同59年三陸鉄道に移管され南リアス線となりました。昭和35年チリ地震津波の被害は死者2、家屋全壊27・流失56・半壊52・床上浸水127・床下浸水17、建物・土木施設・産業施設などの被害総額は11億4,358万4,000円。石灰岩が当地方一帯に分布しており、明治末期頃から採掘されて船積みされていましたが、昭和11年小野田セメントの経営になり、以後設備の充実をはかり優良なセメントを専用タンカーで各地へ輸送、地方産業開発の一翼を担いました。
こちらは尾崎神社参道脇の忠魂碑前の鳥居。

手水石。

石灯籠一対。

忠魂碑・殉國之士。

隣には魚介藻の碑(創立二十周年・昭和58年9月・赤崎漁協婦人部)

尾崎神社参道。ちなみに当記事は遥拝殿までの紹介であり本殿の紹介をしません。
参道石段。東日本大震災では上から6段目まで津波が押し寄せたそうです。

手水舎。

旧村社。御祭神は倉稲魂命(主祭神)・建速須佐男神・海津見神(※その他配神:照摩神・琴平神)。寛永2年の火災で宝物・古記録などを焼失しており、由緒・沿革は詳らかではないものの、社伝によりますと延暦2年の創立と伝え、延喜式神名帳に見える理訓許段(りくこた)神社が当社。理訓許段神社は仁寿2年従五位下。また、養和元年藤原秀衡が200石を社領として与え、その後天正年間に至るまで葛西氏もこれにならったといいます。江戸期は気仙総鎮守として伊達氏の崇敬が篤く、代々の藩主気仙巡視には参拝があったといいます。元禄11年の気仙郡古記には尾崎明神宮とあり、宝暦11年の気仙風土草では尾崎照摩明神。明治5年郷社に列せられ、同7年村社に改められました。例祭は旧暦9月19日で大漁を祈願する満艦飾の漁船の尾崎もうでで賑わいます。農業神と海上守護神として信仰されています。

石灯籠一対(社殿造営紀念、昭和32年1月元旦建之)


狛犬一対(昭和39年、佐々木彦治)
社殿(昭和39年)。
神社庁より…『【御祭神】稲倉魂神、建速須佐男神、照摩神、琴平神、海住神【例祭日】旧3月16日【由緒】人皇第五十代桓武天皇の御代、延暦二年(783)創立。神名帳に曰く、気仙郡三座、理訓許段神社・登奈孝志神社・衣太手神社、五十五代文徳帝が仁寿二年(852)八月辛丑陸奥国衣多家神理訓許段神並に授従五位下。人皇百七代後水尾天皇の御代、寛永二年(1625)類焼に罹り古文書・宝物悉く焼失。養和元年(1181)鎮守府将軍藤原秀衡が二百石を社領とす。その後天正(1573)の変に至るまで葛西氏これを附すという。当社は元気仙総鎮守にして旧藩祖先正宗公より以降代々巡国の時社参あり、別て尊崇他に比なし。』
また、当社には1200年以上前より伝わるアイヌの祭具「イナウ」が秘法として存在し、理訓許段(りくこた)はアイヌ語で高い所にある集落という意味になるとのこと。リクコタン神はこの地方における夷族の神であり、イナウはその神への供えとしてのこされたもの等、アイヌと関わる説が多くあり、2012年には東北大震災犠牲者供養でイナウが御開帳され、北海道弟子屈町の屈斜路湖畔を拠点にアイヌ民族の伝統文化の継承や創作に取り組んでいるアイヌ詞曲舞踊団モシリが、イナウの無事と震災犠牲者の供養を兼ねた儀式を営んでいます。
拝殿向拝。

御神歌。

拝殿向拝神額。

従五位長炗書。
尾崎神社由緒。

昭和31年3月献之。
大善院蛸浦観音(※別当山伏大善院)
尾崎神社境内です。

手水石。

狛犬一対・石灯籠一対。
向拝・鰐口


奥州三十三観音第28番札所。

堂宇内。

御本尊千手観世音菩薩。
こちらは…

故陸軍砲兵上等兵勲八等功七級森喜市郎碑(明治38年3月6日於清国盛京省戦死)

周囲には石仏(安政等)や馬頭観世音(昭和24年)などがありました。




神明堂(祭具納所)

本殿は後方の山の上に鎮座。一般的な地図にも尾崎岬に「尾崎神社」が2社別々に記されており、海沿いの社が遥拝殿で山側の社が本殿です。

いつもなら迷わず向かうところですが、この日はちょっとのっぴきならなぬ急ぎの用事があったため、時間の都合上断念致しました。

こちらの建物は…

わからず。

色々祀られていました。

見下ろした尾崎神社。




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