岩手県下閉伊郡普代村第25地割卯子酉。
普代は北東流して太平洋に注ぐ普代川と同川支流茂市川流域に位置。北緯40°線が中心部を横断し、普代川流域に集落が集まります。太田名部・力持・白井は海岸部に位置する漁業集落、西部の標高200m程の山間地には茂市・芦渡・芦生・萩牛・鳥居などの山村集落が散在。地名の由来はアイヌ語のウダ(泥地)・ウタ(低湿地)に関連するとも推定され、青森県野辺地辺りでは、ウタは海辺の岸を意味しており同様の用法と考えられます。卯子酉山の頂上に鵜鳥神社があり、古い由緒を伝えています。室町期のふたいは閉伊郡北方のうち。永正五年馬焼印図(古今要覧稿)に、「ふたい印筒別紙に見る此印に両かたにつの有せつ」とあります。室町期に当地の牧から京進された馬には筒印が付されていたことが知られています。また、野田の玉川三上館に居住する三上氏は「ご譜代さま」と呼ばれました。三上氏は閉伊源氏の分流と推定。近江源氏佐々木氏の後裔と伝えます。普代堀ノ内の普代城は三上元綱の居館と伝え、三上館ともいいます。遺構は不明。鳥居の鵜鳥神社(大明神)は源義経が蝦夷地に落ちのびる途中に立ち寄って一七夜祈念した所と伝えます。曹洞宗凱翁山妙相寺は室町中期の嘉吉元年の創建。開基は南部藩士桜庭光英の室、慈巌妙相大禅定尼、開山は千徳善勝寺2世巌翁周巌といいます(下閉伊郡志より)。
江戸期の普代村は閉伊郡のうち。盛岡藩領。野田通に属します。村高は正保郷村帳157石余(畑のみ)、貞享高辻帳197石余、邦内郷村志179石余(うち給地126石余)、天保郷帳252石余、安政高辻帳202石余、旧高旧領100石余。仮名付帳によりますと枝村に黒崎・太田名部・力持・白井・堀内・萩牛の諸村があります。邦内郷村志によりますと家数185、集落別内訳は黒崎22・白井11・太田名部22・力持5・落合4・萩牛9・茂市48など、馬7。本枝村付並位付によりますと位付は下の上、家数66、集落別内訳は本村34・黒崎23・茂市36・机5・太田名部20・力持6・白井11・鳥居2・落合6など。曹洞宗凱翁山妙相寺が黒崎から普代に移転。また、堤に月読命を祀る北股神社があります。享保2年藩により萩牛に割沢鉄山が開かれ、鉄山で使用する炭の生産が行われました。太田名部では製塩が行われ、この塩は小本街道を岩泉経由で盛岡城下に運ばれました。宝暦5年・天明3年・天保7年には大凶作と飢饉に見舞われており、弘化4年・嘉永6年には大規模な百姓一揆に参加。安政年間の三閉伊路程記によりますと、この地を通る街道は海辺道と呼ばれ、田野畑村まで3里5町30間、野田村まで3里30町と記されており、当村に駅が置かれました。明治元年松代藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。江戸末期~明治初年に萩牛村を合併したと思われ、更に同9年堀内・黒崎の2ヵ村を合併。同年鳥居に郵便局が開設。同10年普代小学校、同11年芦渡小学校、同17年茂市小学校が開校。明治11年の村の幅員は東西約2里11町余・南北約2里11町余、税地は田2畝余・畑282町余・宅地24町余・社地1畝余・荒地26町余・鍬下1町余の計338町余、戸数276(うち農業273)・人口1,694(男815・女879)、牛842、馬542、漁船66、物産は牛・馬・鮭・鱈・鯣・鮪・蚫・昆布・稗・炭、5等郵便局が中村にあります。また、長根山には鉄鉱が2ヵ所あります。同12年北閉伊郡に属します。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
はじめ北閉伊郡、明治30年からは下閉伊郡に所属。大字は編成せず。戸数・人口は明治22年290・1,884、同34年311・1,905。明治28年普代小学校に4分教場が置かれています。同34年鳥居・茂市・芦渡の分教場が合併して鳥茂渡小学校となり児童数34・教員2、普代小学校の児童数は同34年47、大正5年182、昭和17年249。黒崎分教場は昭和16年独立し同17年の児童数63。太平洋に臨む東部沿岸地区では度々津波の被害があり、明治29年の三陸大津波では最大浸水高太田名部22.18m・普代18.12m・堀内12.93mで、普代村総人口2,038のうち死者1,010、流失家屋258の大惨事でした。また、昭和8年の三陸大津波では最大浸水高太田名部16.68m・普代13.35m・堀内10.60mを記録し、死者・行方不明者は太田名部100人・普代34人の被害を受けています。浜街道(国道45号)の駅の1つであった普代は沿岸郡村の陸上交通の主軸をなしていましたが難所が多かったといいます。大正9年定期航路が開設され、石油発動機船により宮古・田老・島越と結ばれました。同13年の職業別戸数は農業156・漁業164・商業38・工業4・雑業25、物産概略では米90石・麦730石・大豆975石・小豆29石・粟157石・稗2,497石・馬鈴薯1万6,250貫・大根1万8,240貫、家畜頭数牛323・馬56・鶏345、また水産物では鰤16万5,000貫・鮪2万5,000貫・鮭2万5,000貫・鱒1万2,000貫・鮑1万4,000貫、春繭1,038貫・夏秋繭315貫、林産物では用材2,883石・薪2万3,535棚・木炭16万貫。世帯数・人口は大正9年381・2,525、昭和10年553・3,158、同25年650・3,903。昭和2年堀内に沿岸漁業の発展に寄与する冷凍工場を設立。同5年国鉄八戸線が久慈まで開通、同12年久慈~普代間にバスが開通。同13年の当村の生産力は農産8万5,699円、畜産1万1,402円、林産(主として木炭・木材)29万7,774円、工産1万6,874円。同16年黒崎に村内初の電灯がともりました。日清戦争の戦死者は白井で1、日露戦争では茂市1・萩牛1、太平洋戦争で普代25・黒崎10・太田名部17・白井6・力持3・堀内16・鳥居7・茂市9・萩牛3。昭和22年普代中学校開校。農地改革による昭和22年・同24年の比較は、農家戸数479から455へ、うち自作農220から352、小作農162から17、耕地は水田自作地3.3町から4.5町、畑自作地170.7町から287.9町、小作地108.9町から29.2町へと変化。昭和22年に黒崎漁協が普代灯台を設置、後に国に移管して同41年陸中黒崎灯台となります。昭和30年に黒崎海岸が陸中海岸国立公園に指定され、同32年黒崎まで国鉄バスが開通。同35年三陸フェーン大火による山林焼失面積2,000町、黒崎小学校も焼失。同39年村営国民宿舎「くろさき荘」が完成。沢川に同45年堀内大橋、同49年大沢橋梁架設。昭和47年国道45号の全面的改良工事完成。同50年国鉄久慈線が開通、普代駅・堀内駅が設置されて久慈との結びつきが強くなります。同54年鳥居地区に自然休養村「緑の村」開設。三陸鉄道北リアス線普代~田老間は同59年開業。
鵜鳥神社らしい鳥居。


額束の表にも裏にも神額。表「鵜鳥神社(令和5年旧4月8日熊谷儀七奉納)」・裏「普代村青の国(小屋敷亮二郎奉納)」


鵜鳥神社は下閉伊郡普代村卯子酉の卯子酉山にある神社。御祭神は鵜草萱葺不合命・玉依姫命・海神命。創建年代は未詳ですが社伝では延暦23年卯子酉山薬師寺として建立したとも、大同2年卯子酉大明神として開山したとも伝えます。また、源義経北行伝説があり、美麗なる鵜鳥が沼より高山に飛ぶのを見て、その頂で義経が霊威を得たといいます。起源は定かではありませんが、鎌倉・南北朝期以後は山伏修験者の霊場として栄え、また、江戸期から明治期にかけては多くの宿坊を持ち、漁の神・縁結びの神として庶民の信仰を集めたといいます。
明治初年の神仏分離・修験道廃止により鵜鳥神社と改称。例祭は旧暦4月8日。かつては「カケヨ(掛け魚)」を持って山に登る漁師の行列が続き、春の風物詩であったといい、現在でも近郷近在からの参拝者で賑わいます。鵜鳥権現(獅子頭)を奉じて「カミス(旦那場)」を巡行する鵜鳥神楽があり、現在でも正月明けの1~2か月、北は久慈市の久喜・小袖、南は釜石市の白浜・室浜の範囲を1年おきに「北まわり」「南まわり」と称して巡行。


緑の村施設案内図。

歌碑…『【一の姪 普代 大上フサ「丸髷のあでやかなりし若き日をおもふとすれど錯誤の如し」小田観螢】【二の姪 沼袋 菊地タミエ「わが母を世に今もなほ見るごとき笑顔よ髪は霜おきそめぬ」小田観螢】【三の姪 普代 大上イサ「床敷きて我が長旅をねぎらへるよき人妻を幸ははんとす」小田観螢】【四の姪 田代 熊谷テル「我が言ふをまじろぎもせず聴く頬に涙ながれておもふらんこと」小田観螢】』


普代音頭碑「グラス傾けサケ鍋かこみ しのぶ義経ものがたり 都会ぐらしで忘れたものを 冬の炉端で想い出す」(奉納鵜鳥神社、平成10年11月吉日、熊谷建設株式会社熊谷勝支・大山石材店代表大山政弘奉納)

卯子酉大明神本社(平成2年旧4月8日、奉納:熊谷建設株式会社社長熊谷勝支、石工:喜久松五代目 瀬浪石材店瀬浪秀啓)

鵜鳥神社境内案内図。現在地から本殿/お岬様まで約800m。順路:遥拝殿・神楽殿→神道橋→うがい場→お縒り場→お薬師様→夫婦杉→鵜鳥神社奥宮(本殿)→お岬様

鵜鳥神社境内案内図より…『【お岬様】奥宮の後方にある小径を100m程足をのばすと、この山の突端にお岬様という石の祠があり、眼下に太平洋が展望されます。【鵜鳥神社奥宮(本殿)】参道の130余箇の切石による石段は嘉永3年(1850年)に作られたもので、頂上に供養塔があり、当時の寄進額が刻まれている。往時の人力による構造として貴重である。百姓一揆指導者の名前が多数ある。【夫婦杉】樹齢800年から1000年とも云われ、縁結びの神として信仰厚く、また大木の如く家門は立ち栄えてほしいと祈願が絶えない。一説には、義経七日七夜のお籠りの際、記念として植樹したものと云われる。【お薬師様】杉の根元から湧き出る清水を貯める中央の凹んだ置石があり、この水で目を洗うと眼病が治ると伝えられています。【お縒(よ)り場】占い場です。紙縒を作り池に投じ沈めば願い事が叶い、水面に浮いては願い事叶わずといわれます。』

鵜鳥神社参拝記念碑(内閣総理大臣鈴木善幸・厚労大臣野原正勝)大山石材店奉納

鳥居(平成27年11月吉日、奉納鳥居柱修築、熊谷建設株式会社会長熊谷勝支)
狛犬一対(昭和50年3月18日・旧4月8日、番地石材工業株式会社施工、総工事費一金五拾萬円也)


山乃神。

厠。

神社庁より…『【御祭神】鵜草葦不合尊、玉依姫、海神ノ命【例祭日】旧4月8日【由緒】平安の初めの延暦23年(804)卯子酉山薬師寺として建立されたのが始まりとも、又、大同2年(807)4月8日、卯子酉大明神として開眼されたのが起源とも言われている。建久元年(1190)の義経伝説にまつわる鵜鳥神社御縁記には、鎌倉南北朝時代には鵜鳥神社は何らかの形で存在と推定。』
鳥居。
鳥居額束神額(昭和13年4月8日、大上文平・大上喜一郎奉納)

手水舎。

手水石(明治百年記念)


屋号がたくさん彫られています。

国指定第475号鵜鳥神楽・重要無形民俗文化財記念碑・平成27年3月2日

裏面:鵜鳥宮司六代目熊谷一文・奉納者鵜鳥神社総代小屋敷亮二郎・平成29年4月8日建

うねどり様…『およそ千年の歴史をもつ普代村の鵜鳥神社は、藩政時代までは卯子酉大明神あるいは卯子酉神社と呼ばれておりました。明治維新の際の諸事情により神社とゆかりのある鵜鳥の文字を用い鵜鳥神社と称され今日に及んでおりますが、古来うねどり様の通称のもとに漁の神、縁結びの神、安産の神として沿岸部はもとより内陸部に至るまで広く尊崇されております。交通不便の時代に分霊神社(分社)として勧請されその土地の神となって祀られている神社は、現在判明しているところだけで十社、参拝記念碑・拝礼塔は三十七基を数え、県下十八市町村にわたっております。平成14年8月現在、分霊神社(分社)十一社、参拝記念碑・拝礼塔は四十八基確認されております。鵜鳥神社社務所』

手水舎裏手。

遥拝殿へ。


石灯籠一対(昭和57年旧4月8日建立)


遥拝殿。
鵜鳥大神(向家、西暦1950年、平和安民)

Wikipedia「鵜鳥神社」より一部抜粋…『鵜鳥神社(うのとりじんじゃ、うねどりじんじゃ)は、岩手県下閉伊郡普代村に存在する神社。藩政時代には卯子酉神社と呼ばれていた。分霊神社も遠野市の卯子酉様等11社以上存在する。【主祭神】鵜葺草葺不合命、玉依昆売命、海神【創建】大同2年(807年)【別名】卯子酉神社【例祭】旧暦4月8日【主な神事】鵜鳥神楽【由緒】義経北行伝説のコースの一つとされる。伝説では、史実にて義経主従が落命したとされる平泉(1189年、衣川の戦い)から密かに脱出し、翌年に辿り着いたこの地で「七日七夜にわたって、海上安全、武運長久、諸願成就を祈り、社殿を建立し、祭典を執行するよう命じた」と伝えられている。【歴史】開山は大同2年(807年)とされる。奥宮とも呼ばれる本殿は寛政4年(1792年)と明治35年(1902年)に2度火災に遭い、神殿は明治45年(1912年)に、拝殿は昭和8年(1933年)に新築された。【境内】山門に近い側に遥拝殿と神楽殿が、遥拝殿を潜り参道を約30分進むと卯子酉山の山頂の一つに奥宮(本殿)が存在する。【夫婦杉】参道途中には夫婦杉がある。樹齢は推定約400年、樹高45mの大木。地面から4〜5mのところで主幹が二つに分かれて、それぞれ天にそびえている。1984年(昭和59年)10月1日、村から天然記念物に指定された。【鵜鳥神楽】毎年旧暦の4月8日に行われる例大祭で披露される鵜鳥神楽は鎌倉時代から続く山伏神楽の1種。2015年3月2日に重要無形民俗文化財に指定されている。岩手県内では他に早池峰神楽、黒森神楽等が指定されている。』




遥拝殿内。
古札所。

子康神神殿。



石灯籠一対。

小祠。金毘羅?

神楽殿。

旧暦4月8日(5月中旬)の鵜鳥神社例大祭では海上安全、商売繁盛、縁結びの神様として、遠方からも数多くの氏子・漁業関係者が参集。神楽殿では古式ゆかしき鵜鳥神楽が奉納されます。鎌倉時代に始った山伏神楽の形を受け継ぐ鵜鳥神楽は神楽殿を会場として「松迎」「山の神」「恵比寿舞」などの演目が午前11時頃から約2時間かけて披露されます。「山の神」の演舞が済むまではお酒を飲めないという習わしがあり、お神酒の振る舞いの後に中入りとなります。

鳥獣供養塔(平成4年2月吉日建立、題字長尾房大書、石工瀬浪石材店)

北緯四十度(昭和59年旧4月8日)

伝説義経北行コース「鵜鳥神社」…『悲劇の名将と世にうたわれた源九朗判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は"義経はその一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た"という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説の一つに"平泉を脱出した義経主従は、その途中、この地で七日七夜にわたって海上安全、武運長久、諸願成就を祈り、藤九朗盛長に命じ社殿を建立し、祭典を執行するよう命じたという"と伝えられている。義経はこの地で金色の鵜鳥が子を抱いているのを見たとも伝えられているという。岩手県観光連盟』

遥拝殿・子康神神殿。
長くなりましたので…
『鵜鳥神社奥宮(卯子酉山)』へ続く…




コメント