岩手県陸前高田市気仙町砂盛。
高田松原津波復興祈念公園内。
希望のかけ橋とベルトコンベアの基礎。
希望のかけ橋とベルトコンベアの基礎(Dream Bridge(Kibou-no-Kakehashi)and the foundation of the conveyor belt)…希望のかけ橋『東日本大震災津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市では、高さ10m以上に及ぶ市街地のかさ上げ盛土工事が行われました。その工事で土砂を運搬した巨大ベルトコンベアとそのためのつり橋希望のかけ橋の基礎部分が、ここに残されています。気仙川をはさんで、高台の宅地造成のために掘削した土砂を、市街地のかさ上げ盛土用に運んだベルトコンベアは、幅1.8m、全長3km。2014年(平成26年)3月末から2015年(平成27年)9月までの稼働期間中に運んだ土砂は500万㎥。これはかさ上げ盛土に必要な1,200万㎥の約4割にあたり、10tトラックなら9年ほどかかる運搬作業を1年半に短縮しました。市内の小学生に公募し決定した愛称は希望のかけ橋。「まちの復興と未来へのかけ橋に」との願いが込められました。』・復興遺構として後世に伝える『2015年(平成27年)9月まで稼働し、被災した市街地のかさ上げ盛土工事の工期短縮に大きな成果をあげた希望のかけ橋とベルトコンベアは、2016年(平成28年)から解体が進む中で保存の声が上がり、気仙川をはさんだ基礎部分の保存が決定しました。ベルトコンベアと橋の設置に当たっては、土砂のスピーディーな運搬はもちろん、サケやアユが遡上する気仙川の環境にも配慮し、河川内に支柱を建てる必要のないつり橋構造が採用されました。復興への道のりは長く険しいものです。希望のかけ橋は、長期にわたるこうした復興過程を後世に伝える場所として、その新たな役割を果たしています。』

気仙川にかかる希望のかけ橋。
遠くに見える建物は気仙中学校。
孤松巌上碑(平成26年、船村徹揮毫)

「いっぽんの松」歌碑(千昌夫)※歌詞省略

「いっぽんの松」歌碑より…『岩の上にぽつりと一本残った松。しっかり根を張って波に流されようが何が起ころうが一生懸命頑張って行こうという意 題字揮毫 作曲家船村徹』

案内板より…『東日本大震災津波で約7万本といわれる松が消失した名勝「高田松原」。その中で、津波に流されずに耐え抜いた松は「奇跡の一本松」と呼ばれ、震災で深く傷ついた人びとの心の支えとなり、復興のシンボルとして全国に知れ渡りました。震災の翌年には枯死状態となりましたが、保存を願う国内外からの温かい支援によりモニュメントとして保存され、震災の記憶を伝え続けています。』・『Takatamatsubara,is a place of scenic beauty where the Great East Japan Earthquake and Tsunami is said to have destroyed approximately 70,000 pine trees.Among these,one pine tree that endured and was not swept away by the tsunami.This tree,known as"Miracle Pine",became an emotional support for the people who were deeply affected by the earthquake disaster,and came to be known throughout Japan as a symbol of reconstruction.The year after the earthquake disaster,this pine tree withered and died,but it has been preserved as a monument through heartfelt support from people within and outside of Japan who wished for its preservation,and continues to convey memories of the earthquake disaster.』
樹齢173年、高さ27.5mの奇跡の一本松は2012年5月に枯死が確認されるも、復興のシンボルとして後世に受け継ぐために保存整備が行われ、現在はモニュメントとして昔と同じ場所に立っています。
案内板「奇跡の一本松」より…『平成23年3月11日に発生した東日本大震災津波は、東日本各地に未曾有の被害をもたらしました。陸前高田市においても多くの方が犠牲となり、市街地は壊滅し、市の象徴であった高田松原も失ってしまいました。そんな中、唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」でした。震災直後から、陸前高田市民だけでなく全世界の人々に親しまれてきた「奇跡の一本松」、その後、海水による傷みによって枯死してしまいましたが、陸前高田市では、この一本松を鎮魂・希望・復興の象徴として保存することといたしました。この保存事業は、日本全国、そして世界からの数多くのご支援によって実現したものです。みなさんの想いがこめられた「奇跡の一本松」は、これからもずっと、わたしたちを見守りつづけます。平成25年3月陸前高田市』・『The tsunami from the Great East Japan Earthquake that struck eastern Japan on March 11th,2011 left extensive damage in its wake.Many in Rikuzentakata lost their lives,and our city was left in ruins.We also lost the symbol of our town,the 70,000 pine trees in Takata Matsubara.What remained in all this destruction was the tree of hope,the"Miracle Pine". The "Miracle Pine" was loved by those left behind in Rikuzentakata as well as many from around the world.Damaged by seawater,unfortunately it died.The City of Rikuzentakata decided to preserve this lone pine tree as a symbol to honor the souls of the deceased,and of hope and recovery.The preservation of this tree has been made possible by support from many throughout Japan and around the world.This"Miracle Pine"which captured the hearts of so many will continue to watch over us. City of Rikuzentakata,March 2013』

『【被災前の「奇跡の一本松】東日本大震災津波被災前、「奇跡の一本松」の東側に広がっていた「高田松原」の約7万本の松林は、江戸時代の防風・防潮林としての植林がその始まりでした。その後、津波多発地帯であった三陸沿岸には、1896年(明治29年)の明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)の昭和三陸地震津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波など何度も大津波が襲来、沿岸住民に多大な被害を及ぼすとともに多くのマツも枯死するなどの被害を受けてきました。しかし「奇跡の一本松」はその度に津波被害を乗り越え、生き残ってきました。「奇跡の一本松」は、アカマツとクロマツの交雑種(アイグロマツ)で、高さは約27.5m、幹の直径約90cm、東日本大震災津波発災時の樹齢は173年でしたが、「高田松原」内の周囲の老齢のマツに比べてもとりわけ大ぶりなマツの木でした。【被災状況】2011年(平成23年)3月11日、大地震とともに発生した巨大津波は、5.5mの防潮堤(当時)をその倍以上の高さで乗り越え、松林をなぎ倒しながら陸前高田市の市街地を襲いました。過去の度重なる津波には耐えてきた松林でしたが、ほとんどのマツは流失しました。その中で、津波を耐え抜き、倒れずに最後まで残ったのがこの「奇跡の一本松」でした。【保存活動-奇跡の一本松プロジェクト-】枯死が確認された一本松をモニュメントとして保存することを目指した本プロジェクトは、国内外の多くの方々から寄せられた募金を原資として、2012年(平成24年)9月にスタートしました。屋外でこのような保存の例はありませんでした。そこで、幹部分は、特殊な防虫防腐処理を行い、自立させるための芯棒を入れ、その素材には、航空宇宙技術などさまざまな先端技術が使われました。2013年(平成25年)6月に完成しました。』

被災前の「奇跡の一本松」。「陸前高田ユースホステル」近くに立ち、高田松原を形成する他のマツよりも一段と大ぶりな樹体だったことがわかります。
保存活動「設置の様子」
構造図。
松坂新右衛門定宣翁顕彰碑。津波で流されたものの、松林再生の苗木植栽が始まった平成29年に、復旧工事現場において発見され再設置。

碑文(岩手県知事千田正書)…『ここ旧称今泉松原はその始め享保年中気仙町お倉松坂家第四代の祖松坂新右衛門定宣翁によって植栽されたものである。当時此の地は一本も無く海風は絶えず砂じんを耕地に吹き入れそのため田圃は埋没荒廃し収穫皆無のこと再々に及んだ。翁は此のことを深く憂い之が対策は防風林の造成にあるのみと多額の私財を投じて苗木を求め人夫を雇い自ら身を挺して赤松数千を植えつけ更に幾多の悪条件を克服しつつ補植をつづけ管理をよくし以て今日の美林の基をつくりあげた。それより歳月を経ること二百五十余年我々は今松原を郷土の名勝として他に誇り安んじて農耕に従事して豊穣を喜ぶ是皆翁の深慮の賜と言うべきである。気仙川の清流は滔々として千載に語り太平洋の碧浪は白沙を打って讃歌を奏で翁の功業を常しえに称えようとしている我等気仙町民亦是を子孫に伝えてその功績を謝し永く後世の亀鑑とせんと此の閑地に石文を建て以て頌徳の微意を表する次第である。昭和四十七年仲春 河野下枝撰 佐藤氷峰書』

防潮堤の上より(海側)。
気仙川水門。
被災したマツの根株。
被災したマツの根株…『巨大津波に襲われた名勝高田松原。江戸時代から植林を重ね、地域の人々に親しまれてきた約7万本の松林は、津波に飲み込まれ、そのほとんどが流失しました。津波の去った後には、地面の砂が洗われて浮き上がったたくさんのマツの根株が残されていました。朽ちてはいますが、目の前のものがその一部です。被災3年目の2014年(平成26年)からは、防潮堤の海側、全長約2km、8haの敷地に、マツの植生基盤となるよう平均約4mの盛土が行われ、約4万本のマツを植林して新たな高田松原を再生する取り組みが行われています。また、防潮堤の陸側へのマツの植林計画も進んでいます。』

被災し根があらわになった松林。
遠くに見える建物はタピック45。

以上、奇跡の一本松でした。
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