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岩手県上閉伊郡大槌町末広町1。
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大槌町文化交流センターおしゃっちの隣、御社地公園内。
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江戸時代に創建された東梅社(御社地)は東日本大震災の津波により破壊されましたが、町民有志によって、また太宰府天満宮のご配慮を賜って天満宮の勧請を許され施工されました。
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三陸御社地天満宮。
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社殿向かって左に天神梅、右に太宰大貮。
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飛梅…『明和6年(1769年)3月、豪商前川善兵衛に同行して九州長崎に赴いた武助(仏眼祖睛)は大宰府天満宮を訪れ大きなお礼に函書を賜り、翌年この御社地に菅原道真公を祀る天神様(東梅社)を開きました。地域の人々から広く、そして長く信仰されて来ましたが平成23年3月11日の東日本大震災で流出してしまいました。これを再建しようと有志が立ち上がり、太宰府天満宮第三十九代宮司、西高辻󠄀信良最高顧問と親交の深かった山田町船越の西舘勲氏(荒神社名誉宮司・元岩手県神社庁長)のお力添えにより、平成31年3月に西舘勲氏を先達として有志一同が大宰府に赴き正式に分霊・勧請を受けました。その際に門外不出とされている梅の木を太宰府天満宮からの「飛梅」として、特別のお計らいで拝受する事になり令和3年11月20日三陸御社地天満宮のお社の竣工祭にご参列された西高辻󠄀信良最高顧問が直接植樹されました。神社に向かって右に白梅、左に紅梅が植えられております。菅原道真公は京都を離れるとき次の歌を詠まれております。「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」』
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社殿。
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撫で牛。
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大槌町HP「三陸御社地天満宮」より一部抜粋…『三陸海岸の天神さま。太宰府天満宮から分霊を授かった直系の天満宮。昔から、大槌町の賑わいの中心だった御社地(おしゃち)は、明和7年(1770年)菊池祖睛(きくちそせい)が開いたと言われています。偉いお坊さんで、学者でもあった祖睛は、菅原道真を心から尊敬しており、太宰府より分霊した天満宮を大槌に持ち帰って「東梅社(とうばいしゃ)」を建立し、祀りました。神仏の道を説き、町民に学問を教え、詩人歌人を招き歌会を開いたりと、御社地は大槌町の文化発祥の地とされています。また、町民の憩いの場でもあった御社地はお祭りや相撲大会、紙芝居、牛や馬のせり市も行われていました。学問の神様と言われる天満宮には合格祈願に来る学生も多かったそうです。東日本大震災の津波によって、天満宮ごと流失してしまいましたが、震災後、住民を中心とした「奉賛会」が寄附を集め再建されました。2022年11月20日、太宰府天満宮よりあらためて分霊いただき、東北唯一の太宰府天満宮直系の天満宮となりました。【菊池祖睛(きくちそせい)】仏教家(1724年生~1806年没)江戸時代頃の中頃に全国を修行行脚し、郷民強化のために一生を捧げました。明和元年(1764)、当地を購入し、池や築山、そして自らの庵「柳下窓」を建て、仏道精進の霊場として「東梅社」を開いた。その敷地内に太宰府の天神社の分霊を祀る天満宮を建立しました。【太宰府天満宮の梅】国天然記念物の「飛梅」のある太宰府天満宮より苗木を譲り受けて植樹された。合格祈願に訪れた学生参拝者の合格結果が発表される3月には紅白の花を開花させ、「サクラサク」ならぬ「ウメノハナサク」で合格を祝う。左:天神梅、右:太宰大貮』
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拝殿神額「天満宮」(太宰府天満宮第三十九代宮司西高辻󠄀信良謹書)
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社殿内。
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社務所の方に丁寧に案内・説明して頂きました。
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「人に生きる道あり 天に時あり地に気あり材に美あり身に心あり 御社地天満宮 平成23年3月東日本大震災の大津波に流失した 信仰者とともに御社地天満宮復興を協議し力を尽くす 会長倉本栄一」
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揮毫太宰府天満宮第39代宮司西高辻󠄀信良氏…人々の心の復興は、まさに緒についたばかりと言えるでしょう。心の拠り所、それは人それぞれ思いはあり、その一つの希望として、御社地天満宮の再興を望む声が月日を経るにつれ高まってきました。そうした声に押され、町民有志が奉賛会を組織し、天満宮再興に、元岩手県神社庁長である山田町荒神社名誉宮司、西舘勲氏のご理解とご協力を得て、太宰府天満宮第39代宮司、西高辻󠄀信良氏の特段のご配慮を賜り、天満宮の勧請が許されました。令和3年10月30日に鎮座祭を執り行い、11月20日、西高辻󠄀宮司のご臨席を仰ぎ、三陸御社地天満宮竣工式と御神木の記念植樹、祝賀式典を執り行いました。天神さまとして知られる菅原道真公は「学問・至誠・厄除けの神様」として、私たち日本人の日々の営みの中で身近に感じられてきました。このたびの天満宮勧請により、皆様の日々の暮らしにとって身近な天満宮としてお参りいただければ幸いです。
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社殿横に地蔵尊。
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昭和八年三月三日大海嘯記念碑…『地震ノ時:午前二時三十分 津浪襲来:午前三時 津浪ノ髙:十五尺 一、地震があったら津浪の用心せよ 一、津浪が來たら髙い所へ逃げよ 一、危險地帯に住居をするな 被害状況…流失倒潰戸数:大槌町六百二十二戸 溺死者数:同上六十一名 耕地浸水:六十七町歩余 其他漁船漁具農具家具多数流失 』
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津波記念碑(明治42年建立)…『(大槌町観光交流協会HPより)…~明治の大津波の被害の様子、住民の悲痛な声が記されている「明治二九年六月一五日の夜、来襲した大津波は、大槌町民六〇〇人以上をたちまち海底に奪い去り、人家五六〇戸余りもともに海の藻くずと化した。現場のそのありさまは目も背けたくなるほどで、例えて表すことさえもできない、ああ。」<建立当時の倉田町長句>一声は千々の谺や吐血鳥 声がかれるまで避難を何度も叫び続けたことを伝える』
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社務所兼おみやげ処。
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狛虎一対。
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白蛇龍神。
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御社地公園へ。大槌町観光交流協会HP「御社地公園 御社地[町指定史跡]」より…『隣接するおしゃっち(大槌町文化交流センター)と併せ、大槌町民憩いの中心地。~御社地とは~ 大槌町の仏教家・菊池祖睛(1729年~1806年)が仏道精進の場として開いた東梅社(とうばいしゃ)の跡地を指して「御社地(おしゃち)」と呼んでいます。明治期に入り、祖睛の後裔(こうえい)が当地を町に売却した後に、「お社の地」という意味で「御社地」と呼ばれるようになり、大槌町では、昭和63年(1988年)11月30日に町の重要な史跡として指定しました。震災後、復興計画に基づき、現在の「御社地公園」に整備されました。現在は、大槌文化交流センター(おしゃっち)と併せ、町民の憩いの場所となっています。』・現地案内板「史跡御社地」より…『「御社地」は、江戸時代中頃の仏教者菊池祖睛が開いた仏道精進の霊場「東梅社」の跡です。往時地域内には池や築山があり、参道を進めば師が深く信仰し、自ら九州太宰府を訪れて勧請してきた天神様が祀られていました。また師は、柳下窓と名付けて庵を営み、そこでは学僧として写経し、歌を詠み、多面的な活動の中で郷民の教化に力を尽くしました。特に天明七年(1787)に書写した「正法眼蔵」は、後年曹洞宗大本山總持寺に納められ、現在は同寺の宝物殿で什宝として管理されています。御社地に現存する「妙法蓮華経」の大石碑は、文化三年(1806)七十八歳の秋に結跏趺坐したまま断食往生した祖睛師を葬ったところで、今日までその場所を移動していません。昭和六十三年十一月三十日大槌町指定文化財に指定。平成二年三月大槌町教育委員会』
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史跡御社地…『大槌の仏教家・菊池祖睛(1729-1806)は、明和元年(1764)に当地を求め、池や築山、そして庵「観旭楼(かんきょくろう)を建て、仏教精進の霊場として「東梅社」を開きました。明治期になって東梅社跡は「御社地」と呼ばれるようになり、昭和63年(1988)11月30日には大槌町が史跡として指定しました。平成23年(2011)の東日本大震災津波によって石宮や経蔵等は流失し、3基の石造物だけが残りました。石棺は祖睛が座禅往生した入定地で、その上に「妙法蓮華経」石碑が建立され、入定地を保護していました。拝石の下には祖睛が諸国霊山の土砂を埋納し、石の上で拝めば、霊地・霊山を巡礼したことになると信仰されたようです。』
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史跡指定当時(昭和63年頃)の御社地。
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震災直後の拝石と石宮基礎。
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震災直後の入定地(石棺)
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御社地公園
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妙法蓮華経。
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大槌町観光交流協会HP「妙法蓮華経」より…『78歳で座禅往生でなくなった菊池祖睛は碑の下で眠っているとされています。(石棺有り)※碑は東日本大震災津波により倒伏移動していますが、その地下遺構の石棺は、残存しています。』
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