
青森県八戸市尻内町大仏8。大仏神社(神明宮)です。大仏地区では他に水ヶ森神社(大仏7、大仏生活館西側)や大仏薬師堂(大仏6、個人所有地内、古くから知られた歴史ある堂であり、村内外から目を患った人々が参詣に訪れ、境内の池の水で目を洗って治癒したと伝わり、堂内には「目」と「蛸」の絵馬が奉納されています)があります。

矢沢から大仏に向かう道が大仏入口で三叉路になっている場所に置かれてる庚申塔(天保3辰10月6日、102cm×44cm×37cm)。

大仏神社は大仏地区の南端の高台に位置。南側の水田からと、道路沿いからの参道があります。

表参道鳥居。

大仏は馬淵川支流浅水川の右岸に位置。中世にこの地を治めていた大仏修理守(おさらぎしゅりのかみ)からきたものと考えられ、「矢沢」はかつては「八沢」と書かれていました。中世の戦いにおいて矢が降り注いだことから矢沢と呼ばれるようになったといいます。大仏地内に大仏館跡があり別名尻内館と称します。建武元年4月南部師行にあてた多田貞綱書状(遠野南部文書/岩手県中世文書上)によりますと、工藤左衛門次郎が上尻内を領していることから工藤氏が居館していたともみられます。師行入部以前に大仏氏が居館したという伝承や白米城の伝説も残しています。永禄10年に当地を支配していた櫛引氏が根城を攻撃したため、4年後の元亀2年に報復を受け、以後根城南部氏領になるとともに尻内館には中館宮内少輔政直が配されたといいます。江戸期の大仏村は三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。長苗代通に属します。村高は「正保郷村帳」253石余(田231石余、畑22石余)、「貞享高辻帳」253石余、「元禄10年高帳」711石余(田590石余・畑121石余)で、内訳は大仏587石余(田479石余・畑108石余)、七崎123石余(田110石余・畑13石余)、「天保郷帳」504石余、「旧高旧領」281石余。「雑書」慶安3年3月28日条には「櫛引之内大仏之蓬町去廿六日之昼火出仕、御町家数十弐軒御仮屋并御弁当屋共ニ焼候由」とあり、盛岡藩領時代に御仮屋や弁当屋などのある町を形成していたことが伺えます。当村独自の用水としては地内南部の矢崎堤が知られていますが、用水の多くは盛岡藩領七崎村の丹波横手水門を取口としています。「八戸藩史料」によりますと、領内制札立場の1つとなっており、寛文12年に切支丹禁制・捨馬禁止の制札が掲げられたといいます。また、宝暦12年には猪56頭が捕獲されています。天保8年の凶作のために当村の困窮農家3軒に対し、稗1日1人あたり5号などが支給されています。明治4年八戸県、弘前県を経て、青森県に所属。明治初年の戸数、村況は「南に山を擁し北は卑湿の地なり…壮者は北地(北海道)に出傭して産を補ふ」とあります国誌)。また、当村の支村矢沢は「花崎村廃して民居なきにより、今矢沢を花崎の支村となし花崎の旧名を復す」とあり、この頃は花崎村の支村となっています。なお、この時の矢沢の戸数は42。明治12年の「共武政表」によりますと、戸数21・人口154(男82・女72)、牛5、馬36、物産は米・麦・雑穀・麻糸。また字矢沢は戸数46・人口369(男187・女182)、牛4・馬79、人力車6、物産は米・麦・雑穀・蔬菜・麻糸・鳥類。同22年上長苗代村の大字となります。明治24年の戸数81・人口568、学校1、水車場1、船1。昭和30年に八戸市編入に伴い八戸市尻内町の一部となります。
【大仏遺跡】…大仏遺跡は大仏地区北側に位置する丘陵端部にあります。平成9年から11年、13年に、東北縦貫自動車道八戸線の建設と浅水川の河川改修事業に伴って実施された八戸市教育委員会の発掘調査により10世紀後半から15世紀前半まで連続して営まれていたことがわかりました。10世紀後半から11世紀代を中心とする平安時代には、竪穴住居跡13棟、竪穴建物跡2棟、竪穴遺構2基をはじめ、土師器や須恵器、鉄製品、製鉄関係の遺物が見つかっています。中でも中国製の白磁皿は10世紀後半から11世紀前半のものと推定。中世は12世紀後半から15世紀前半と推定され、掘立柱建物跡65棟、竪穴建物跡44棟、土坑墓1基、井戸跡5基をはじめ、中国や国内の陶磁器、石臼や砥石、石鍋などの石製品が見つかっています。中でも、見つかった掘立柱建物跡の最大のものは、四間×山間に庇が付き、3回ほど建て替えられています。また、石鍋は長崎県西彼杵半島で13世紀に作られたものと考えられており、鎌倉経由で持ち込まれたものと注目されています。発掘調査された地点は沼舘愛三の『南部諸城の研究』の「尻内館」として紹介されている帯郭・ホリ・外郭として地点の縁辺部。

【大仏館遺跡】…大仏遺跡の南側の段丘上に位置。小字名が大仏館。平成11年から12年に農地整地に伴い八戸市教育委員会が、平成15年に八戸遺跡調査会が発掘調査を行っています。調査の結果、10世紀前半から中頃を中心として営まれ、竪穴住居跡12棟、竪穴建物跡2棟、竪穴遺構6棟のほか、土坑51基、堀跡1条、溝跡15条などが見つかっています。建物では、土師器や須恵器のほか、鉄製品や製鉄関係の遺物、砥石などが見つかっています。比較的短期間に営まれた遺跡で、時代的には大仏遺跡に先立つ時期。
【矢沢・大仏神楽】…記録は残っていないものの、岩手県一戸町中山の神楽を師匠として伝えられた「中山手」の系統に属します。櫛引の一日市にある朝日神社の別当が大仏の師匠。おがみ神社の法霊神楽と同系統とみられます。かつては大仏神楽と矢沢神楽は別のものでしたが、今日では矢沢・大仏神楽として伝承されています。演目は権現舞、山の神、鳥舞、翁舞、三番叟、荒神舞、番樂、剣舞、盆舞、三宝荒神。櫛引八幡宮、尻内町の白山神社、一日市の朝日神社の祭りで演じられています。


社殿が見えてきました。
ロープにつかまりながら上ります。

御神木。

到着。

参道を振り返るの図。
段丘上に鎮座しているのがわかります。

かつての手水鉢か石灯籠ですかね。崩壊しています。

表参道は結構勾配がきついのですが、道路沿いの裏参道から来ると楽です。下記が裏参道。
社殿真裏に到着します。
境内は様々な行事ができるよう広場になっているほか、能舞台も設けられています。
社殿真裏の御神木。
社殿正面に向かいます。
社殿正面。
社殿はかなり古いものです。
狛犬一対。台座に発起人・社主・寄附者・村一同の名が彫られています(発起人:松本豊吉、昭和16年旧8月1日建之)
拝殿向拝。

地元ではオボシナサマと呼ばれています。

拝殿内。

社殿内の奉納額(昭和18年旧3月16日武運長久祈願)には「神明宮」と記されていることから大仏神社は神明宮であることがわかります。御祭神は天照大御神。
何かが崩壊し、その台座に大黒天が差し込まれていました。

大黒天の裏には春日大明神・稲荷大明神とあったので、かつては摂末社の小祠があったのかも知れません。























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