
岩手県宮古市宮町2丁目。宮古閉伊郡総鎮守横山八幡宮。宮古地名発祥の地。
社号標「横山八幡宮」(昭和22年3月15日)

大鳥居齋殿道路改修費寄進者芳名碑。

参道。
石灯籠二対。
参道途中左手に宮古市立第一中学校があります。

石灯籠一対。
二之鳥居手前。

御手洗(水舎)。

立派な手水石。
大手水石というようです。
大手水石…『文化5年(1809年)藤原の古舘卯右衛門が神恩感謝のため願主になり、宮古周辺各村に呼びかけ黒田の山奥から3年がかりで約のべ1万人もの人力をかけて運んできたものです。その後明治39年その子孫古舘熊之助外氏子総代により加工調刻が完成奉納されました。寸法は長さ約4m、厚さ約2.3m、高さ約3mです。この工事に協力した村々は次のとおりです。八木沢村、磯鶏村、髙浜村、金浜村、津軽石村、長沢村、花輪村、松山村、田鎖村、根市村、千徳村、近内村、小山田村、山口村、崎鍬ヶ崎村、鍬ヶ崎村、宮古村の十七ヶ村です。』

二之鳥居と狛犬一対(昭和12丁丑年丁丑8月15日、宮古町齊藤渟助寄進※ちょっと見辛かったので間違ってるかも)
宮古は三陸海岸の中部、閉伊川河口部に位置しており東は宮古湾に臨みます。地名の由来は閉伊の政治・経済の中心地(地名の語源)、豪族の住地(広辞苑)、都物移入地(日本地名物語)等に因むとする説、港の転訛(地名辞書)等諸説あり、また、宮古市宮町鎮座の八幡宮に因む「宮処(みやこ)」とも考えられています。地元に残る伝承では、ミヤコの地名は平安中期の寛弘年間、神歌を詠じて阿波鳴戸の激浪を鎮める功績をたてた横山八幡宮の神官が朝廷から賜ったものと伝えており(横山八幡宮記/下閉伊郡志)、その時の神歌を刻んだ石碑が境内にあります。江戸期には宮古湊・宮子浦などとも見えますが、「宮古と云ふは元和年中の頃より」(東奥古伝)で、古くは奥州湊(横山八幡宮記)・閉伊湊(豊間根家文書)などと称されていました。霊亀元年10月29日須賀君古麻比留が昆布献上のため朝廷に請い、郡家を建て、公民となることを許され、閉村を開いたのは当地域付近でのことと推定。中世には根城館に拠った閉伊氏の治下にありました。江戸期以降の宮古村は閉伊郡のうち。盛岡藩領。宮古通に属します。村高は正保郷村帳166石余(田154石余・畑12石余)、貞享高辻帳207石余、邦内郷村志147石余(うち給地6石余)、天保郷帳454石余、安政高辻帳364石余、旧高旧領363石余。天保8年の御蔵給所惣高書上帳では村高148石余のうち蔵入地124石余・御免地高19石余・給地3石余。仮名付帳では枝村に藤原・黒田・鍬ケ崎・大沢・秀島・大附・古里の諸村があります。邦内郷村志によりますと家数159(うち藤原41)。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数164、集落別内訳は本町24・下町24・田町32・向町18・藤原62・久館4。また下町には代官所仮屋があります。元治代官所調では家数は宮古村306・小沢20・藤原91・久館14の計431。また鏡岩御台場があります。当地には宮古代官所が置かれ、慶長16年代官小本助兵衛正吉を配したのが始まりで、天和2年には宮古通の村数21・石高3,000石余を支配。享保20年領内代官所区域を33通に整理し25ヶ所に代官所を設置しましたが、以来宮古代官所として明治維新に至ります。元和元年27代藩主利直は、慶長年間の津波被害地の巡視で当村に20日間滞在、町復興計画の起点として本町を設定し町割を差図しました。寛政9年代官小本助兵衛はこれに加えて新町・田町・横町・御水主町を町割し、後に御水主町は向町と改称。元禄御町屋舗表口改表では家数198(御仮屋下16・本町39・横町40・荒町53・御水主町31・田町19)、他に風呂屋1。津波(海嘯)の常襲する海岸地帯で、しばしば人畜・家屋・船・田畑に大惨害をあたえ、特に慶長16年の大津波では「宮古村の海辺通りは一軒もなく無残波にとられ人死多く御坐候、僅かに黒田村の山辺に数戸が残る」(宮古由来記)のみで約200軒が流失。また、冬の西風が強いために乾燥して火災が頻発しており、天明4年213軒、文化10年159軒、文政元年210軒、元治元年431軒が焼失。安政2年消防いろは組が創設されています。神社としては横山八幡宮・熊野神社・黒森神社・華森神社・稲荷神社・八幡宮・黒崎神社・大杉(あんば)神社・愛宕神社・琴平神社・駒形神社・金盛神社、寺院としては曹洞宗瑞源山善勝寺(千徳)・如意山慈眼寺(山口)・九峰山心公院・挿鍬山梅翁寺・常安寺別院(鍬ケ崎)・明白山久昌寺(田代)・洞沢山華巌院(花原市)・神峰山江山寺(金浜)・宮古山常安寺(沢田)・竜谷山瑞雲寺、日蓮宗寂光山本照寺(愛宕)、真宗大谷派光岸山善林寺(光岸地)・慈雲山永光寺(田代)、真言宗智山派玉王山長根寺が見えます。明治元年松代藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。明治4年黒田村を合併。明治2年戊辰戦争宮古海戦が鍬ケ崎港で展開され、官・幕府軍の攻防に村人は肝を冷やしました。同6年宮古小学校が常安寺を仮校舎に開校。同7年の米相場は1石に付き上6円84銭・中5円84銭・下5円62銭。同8年閉伊川に新晴橋(土橋)架橋。同12年宮古港移出入高29万円で、同15年には鍬ケ崎町との山道を切通し港の利用が高まりました。同16年鏡岩旧台場跡に内務省地理局宮古測候所を開設。明治11年の村の幅員は東西約30町・南北約33町、税地は田44町余・畑59町余・宅地17町余・社地1反余・寺域7反余・荒地5町余の計128町余、戸数804・人口3,551(男1,654・女1,897)、牛7、馬48、舟105(漁船92・商船13)、人力車1、宮古小学校の生徒数177(男119・女58)、職業別戸数は農業284・工業79・商業266・雑業166、物産は馬・鶏・アヒル・鮭・鰻・鮪・鰯・鯣・赤魚・鱈・鯛・鰹・魚粕・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・蕎麦・黍・清酒・濁酒・酢・醤油。また下町に宮古警察署、本町に4等郵便局が設置されています。同12年東閉伊郡に属します。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。はじめ東閉伊郡、明治30年からは下閉伊郡に所属。明治22年の戸数1,081・人口5,192、人口は同25年5,287、同28年5,870、同32年の戸数1,014・人口5,657(男2,808・女2,849)。明治24年郡立簡易水産学校が発足、同33年組織を改めて県立水産学校(現宮古水産高校)となります。昭和15年国立宮古海員養成所(学校)開校。明治25年戸数971のうち漁家100未満、水産物は鰹節・鯣・塩鮭・乾鮑・鰮粕・昆布などで古くから漁業が盛んでした。漁労・漁場開拓、漁具・漁法改良などに尽くした人々も多く、明治25年鮭・鰯漁の移入網を改良し巾着網を考案したのが大越作右衛門で、分銅を使って巾着の口を絞るように網を絞りあげ、従来の3~5倍の捕獲をしました。また、同40年代には山根三十郎が手漕・帆船の限界を知り、鰹漁船に当時最新の電気着火石油発動機を導入して年間2,000尾代から一躍1万2,000尾の水揚に成功。同29年6月15日夕刻三陸大津波来襲、宮古町100余戸、鍬ケ崎町259戸流失。同41年電話架設、宮古・鍬ケ崎両町加入者40口。大正元年の戸数1,385・人口7,291(男3,697・女3,594)、同5年の給与は町長43円・助役23円・収入役22円・書記14円。同6年電灯が灯ります。同9年の世帯数1,620・人口9,193(男4,648・女4,545)。同13年大字なしの鍬ケ崎町を編入し、宮古・鍬ケ崎の2大字を編成。大正15年の世帯数・人口は3,005・1万6,063(男8,208・女7,855)、行政区は宮古23区・鍬ケ崎8区としました。昭和8年三陸大津波来襲。同9年山田線宮古~盛岡間106km開通、約4時間で盛岡と結びました。同年宮古駅・千徳駅、翌10年磯鶏駅・津軽石駅開設。同12年宮古港出崎埠頭(3,000t岸壁、臨港線)完工、同14年ラサ工業(銅製錬・硫酸・過燐酸石灰製造)、大同製銅(合金鉄・カーバイド製造、現日本電工)、岩手窯業(耐火煉瓦製造)などが進出操業。同15年の世帯数4,497・人口2万3,189。同16年宮古市の一部となり町制時の2大字は同市の大字に継承。宮古市は宮古町・山口村・磯鶏村・千徳村が合併して成立。合併各町村の大字を継承した13大字を編成。昭和16年の世帯数6,140・人口3万2,801。同22・23年のカスリーン・アイオン両台風により閉伊川が氾濫し国鉄山田線が寸断不通となり、同23年部分開通しますが同24年GHQの指令によって山田線は一時営業を中止、全線復旧開通したのは同29年でした。大正12年開校の町立宮古実科高等女学校と昭和18年開校の県立宮古中学校を前身に同24年県立宮古高校が創立。また大正8年創立した宮古町立補習学校は県立宮古高校との統合を経て昭和38年県立宮古商業高校として分離独立。更に同46年県沿岸精神薄弱児施設はまゆり学園が開設され、同48年県立宮古工業高校が開校。昭和29年鍬ケ崎が宮古港開港場に指定。同33年鮭人工孵化場前庭に鮭の里ならではの鮭霊塔造立。昭和30年崎山・津軽石・重茂・花輪の4ヶ村を合併、合併各村の11大字を加えて同40年には宮古・鍬ケ崎・山口の各一部から47町、更に同43~50年にかけて17町が起立。昭和32年出崎埠頭の1万t岸壁が完工。同35年国鉄山田線にジーゼル車を導入し同36年花原市駅が開設。同43年神林木材専用港完成。同年津軽石漁協と宮古漁協が合併、県内一の規模となりました。同43年津軽石川下流で県道重茂半島線の稲荷橋(長さ162m・幅6m)が架橋。PC橋単純下桁で県内の代表的橋梁。同47年国鉄宮古線(宮古~田老)開通、崎山に一の渡駅、田代に佐羽根駅が設置。同59年には三陸鉄道北リアス線開通。昭和50年の世帯数1万6,992・人口6万1,912(男2万9,980・女3万1,932)。
伝説義経北行コース「横山八幡宮」…『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年)4月、平泉の高館において31歳で自刃したとされているが、この史実に対し、「平泉で自害したのは実は家臣で、義経は北へ逃げ延びたのではないか」という説が、今も根強く残っている。その伝説の一つに、"平泉を脱出した義経主従が北へ向う途中、この横山八幡宮に参籠し、大般若心経百巻を奉納した。下臣の鈴木三郎重家は、老齢のためこの地に残り、宮守となり、近内に住み鈴木姓の祖となった"と伝えられている。この横山八幡宮は、寛弘年間、阿波の鳴門の天変地異を鎮めた禰宜がその功により帝より都と異字同訓の宮古の名を賜ったといわれる地名発祥のお宮でもある。宮古地区広域商工観光振興協議会』

参集殿。


古神札納め処。

古神札納め処の裏に天照大御神の碑と稲荷社。


横にも大黒天等が祀られている社がありました。

その横に記念碑…『金刀比羅神社並びに参道等の諸施設は、長い歳月を経て損傷甚だしく、御神霊に対し礼を失するばかりでなく自己防止上からも放置出来ない状態となり、先人諸賢が折角赤誠を捧げて寄進した文化遺産も破損して悔いを後世に残す怖れさえ生じ、憂慮に堪えない処である。よって茲に氏子総代と相計り天皇陛下御在位五十年記念事業として、整備計画を立て広く浄財を募り、茲に別記の通り工事を施行完成した。横山八幡宮宮司花坂(以下省略)』

社務所。

参道。
男坂。
道中の天照大御神の碑と石壇再興寄附芳名者碑。



横山八幡宮境内案内図は薄くて絵はよく見えず。文は『御由緒の概略について 一、御祭神 品陀和気命 一、御創建 天武帝の白鳳年間 一、神歌「山畠につくりあらしのえのこ草 あわのなるとはだれかいふらむ」「我が国に 年経し宮の古ければ 御幣の串の 立つところなし」』とありました。

郷社八幡宮。

参道は男坂と女坂に分かれています。
私は往路男坂、復路女坂を使用しましたが、逆の方が参拝しやすそう。

長くなりましたので…

『横山八幡宮 (宮古市)~其之弐』へ続く…



















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