岩手県久慈市大川目町第13地割。
大川目は黒森山の東南、久慈川中流域に位置。標高24m。地名の由来は弘仁期の宇漢米(うかめ)公の宇漢米より大川目になったと伝えます。北部の新町の高台には中世に久慈周辺を掌握していた久慈氏の居館跡があり新町館(久慈館とも)跡と称しています。同館には鎌倉初期に南部三郎光行三男の三郎朝清が居住しましたが、後に七戸城に移ってからは久慈氏が居住し、文禄元年久慈修理の代に廃館になったと伝えます。江戸期の大川目村は九戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。寛文5年から久慈通長内名主組に属します。村高は正保郷村帳419石余(田237石余・畑181石余)、貞享高辻帳519石余(田327石余・畑191石余)、元禄10年郷村御内所高帳1,053石余、天保郷帳868石余、旧高旧領1,096石余。神社仏閣は時宗遍照山慈光寺・曹洞宗長床庵・山口八幡宮・神明宮があります。慈光寺は清浄光寺(藤沢市)、長床庵は長福寺(久慈市)のそれぞれ末寺でした。長床庵は享保17年の開山、山口八幡宮は天暦10年の創建、神明宮は元文元年の勧請。天正年間当地は市場町として栄え久慈之内三日町とも称されていました。延宝5年に三日町は50軒残らず全焼し、元文2年には47軒が焼失し、明和8年には68軒が焼失する大火がありました。享保20年には岩井沢の鉛山証文が取り交わされました。明和3年三日町の惣次郎は領内の鉄問屋を一手に引き受けることを願い出て、1ヶ年100両の礼金を上納することとなりました。天保5年に三日町付近から百姓が騒動を起こしています。明治4年八戸県、以後弘前県、青森県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年南九戸郡に属します。明治4年上大川目村、同5年上大川目村・下大川目村などと見え、上・下2ヶ村に分かれて扱われることが多くなりました。同6年大川目小学校、同10年大久保小学校(山口小学校の前身)、同11年馬内小学校(根井小学校の前身)がそれぞれ開設。明治12年の村の幅員は東西2里11町・南北1里10町、税地は田121町余・畑451町余・宅地68町余など668町余、戸数655・人口3,536(男1,822・女1,714)、牛502・馬722、舟5、石炭鉱3・琥珀鉱1・金鉱1・銀鉱1・砂鉄鉱2、神社4(大神宮・火産霊神社・巽山神社・神明宮)、寺2(長福寺・長床庵)、字中小路の公立小学大川目学校の生徒数18(男子のみ)、字八日町の公立小学久慈学校の生徒数76(男子62・女子14)、他に字谷地には第21大区1番扱所、字八日町には私立碩隆病院が見えます。職業別戸数は農業489・工業56・商業91・雑業11・僧侶4・神官4、物産は牛・馬・鮭・米・稗・大豆・小豆・粟・清酒・濁酒・柿・麻糸、地味は全村黒色土で南・中・東部は上・中位、他は下位。明治17年三日町を中心とした地域は上大川目村、八日町を中心とした地域は下大川目村として2ヶ村に分村。
明治22年以降、はじめはじめ南九戸郡、明治30年からは九戸郡所属。上大川目村と繋村の一部(馬内・滝)が合併して成立。上大川目・繋の2大字を編成。役場を三日町に置きました。日清戦争による死者2・日露戦争による死者8。大正12年の戸数390・人口2,608、田54町余・畑322町余・山林2,307町余・原野1,092町余、職業別戸数は農業298・商業17・工業62・交通業3・自由業10、物産は米111石・麦5,601石・小豆84石・大豆3,249石・粟92石・稗3,686石・蕎麦112石・大根4万6,750貫・馬鈴薯5,940貫・果樹2,565円・繭5,258貫・酒類650石・真綿15貫・木製品1,200円・麺類1,440円・下駄足駄1,800円・薪1,200棚・炭47万9,520貫(11万9,600俵)、家畜頭数牛10・馬187・豚65・鶏650・家兎50・山羊3。昭和5年の世帯数445・人口2,365、田61町余・畑320町余。同14年の世帯数500・人口2,987。第二次大戦による死者80。同22年大川目中学校、同29年滝中学校開設。同29年の世帯数635・人口3,832、同年久慈市の一部となり村制時の2大字は同市大川目町となります。
社号標。
石灯籠一対(昭和44年旧8月15日)
八幡丸。
参道・石灯籠一対(平成14年9月吉日)
参道。
狛犬一対(昭和31年8月15日)
手水舎(皇紀2670年記念、宮司山口満就任50周年記念、天皇陛下御在位20周年記念)
神楽殿。
神楽殿の手前に土俵。
旧暦8月15日の例大祭に奉納相撲が行われるそうです。
末社。
手水石2基。
鳥居。
鳩がとまっていました。
参道。
狛犬一対(平成14年9月、枇杷辰蔵)
参道左手に車祓い所・社務所。
山口八幡宮の一字一石塔…「大乗妙典一字一石 漸寫部数都卅七之其一 八幡大菩薩奉納於宝場 宗碩居士謹修之 摂待壽太右衛門福賢 享保三戊戌秋日」
久慈市指定史跡「山口八幡宮の一字一石塔」…『【解説】一字一石塔は経塚の一種である。経塚は、お経を永く後世に守り伝えるため、経文を書いて土中に埋めて塚を築いたもので平安時代からみられる。一字一石塔は経文を一文字ずつ小石に書いて土中に埋め、その上に石塔を建てたもので、室町時代以降から全国に広がり、江戸時代に盛行したが、お経を守るという本来の目的から、菩提を弔う追善供養・祈願・堂塔の地鎮などに変わっていった。久慈市内には百八十基ほどの信仰に関わる石碑が残されているが、この一字一石塔は年号が刻まれているものとしては、市内で三番目に古く貴重である。建立したのは中世に久慈地方を領知した久慈氏の系脈を継ぐ接待久慈氏の一族で、八戸藩に仕えた接待宗碩(せったいそうせき)である。宗碩は旧南部藩領の名所旧跡に多くの一字一石塔を建てている。※接待久慈氏:八戸藩が創設された時、初代藩主南部直房に仕え、後に大川目の大半を治めた。【年代】江戸時代、享保3年(1718)秋日【計測値】高さ125センチ【指定】平成5年4月28日』久慈市教育委員会
平成の大造営事業記念碑等(奉祝皇孫敬宮愛子内親王殿下御誕生、平成14年3月1日着工・平成16年秋完了)
大宮大瀧大神。
境内社。
灯籠一対。
石灯籠一対。
社殿。
御祭神は應神天皇。
例祭日旧8月15日。
由緒…『人皇62代村上天皇の御代、弥平太義高なる者が来たりて山口に農耕す。天暦10年(956)頻りに雨降り五穀不稔で農民大いに困る。弥平太が毎夜水浴して晴天を祈る。6月15日の暁に神託あり、応神天皇を祀るべしと。乃ち村民と相談しその宅地内清浄の地を選び一小社を建て、木札に応神天皇と奉記し、これをその社に納め祈祷怠らず。爾来8月15日に至るの間、風雨その宜しきを得、村内次第に豊になり。これより毎年その日を祭日と定め、豊作の初物を供して崇敬す。その後弥平太老死するに際し遺言として傳家の兜を収める。これが兜八幡の所以なり。信仰ますます多し。旧南部藩士摂待半九郎この地を領する及び、その結構を広大にして大川目地域の氏神と定む。明治4年(1871)3月八戸藩の令により近傍の諸社を当社に合祀せられる。』
拝殿向拝蟇股・木鼻等
拝殿向拝神額(岩手県知事増田寛也)
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