『玉崎駒形神社(奥州市)』からの続きです。山之神掛(棧)樋収蔵棟。
掛樋。
奉納山之神掛樋収蔵棟…『山之神の掛樋は熊野田橋のそばで人首川に注ぐ小川を渡る千刈田堰に架設してあった。それは玉里字矢ノ目沢地内米沢五日月堂に聳えていた樹齢およそ二百年程の姥杉で、明治中期に製作されたものと云う。爾耒八十有余年昭和四十六年の秋、災害復旧工事に伴いコンクリート溝と更新されるまで千刈田蓬田と朝日野の一部略二十ヘクタールに亙る水田を潤し農民の生産活動に寄与したのである。今、無用になったとはいえ先人辛苦の賜を単なる廃棄物とするは忍びない。郷土の文化史的資料にとの及川駿一郎・髙橋清孝両氏の提唱で産土の社玉崎駒形神社に納められて在った。時を経、雨雪等による損耗は避け難く、茲に有志相図り先人の偉業を讃え郷土発展の祈願をこめて、末永き保存を思い浄財を募り収蔵棟を建立奉納に及んだものである。昭和59年9月神社秋季例祭の日、有志一同』
鐘楼。
こちらは堂宇になるのかな。
向拝。
玉崎斎戒殿…で、いいのかな。
そういえば前回記事、一番最初の案内板の地図に建物の名称が書いてあるのですが微妙に見えなかったんですよね。
手水舎。
石碑。近くで見ておりません。
鳥居(誠心工業株式会社寄贈)
こちらは…
玉崎御神馬(昭和19年旧9月吉日)とありました。
御神馬。
宝物殿。
宝物殿は要予約。社宝の一つして伝える源氏の槍(平泉を去った義経主従が5日間参籠し、武運長久と道中の安全を祈願し、その際に奉納したとされます)、5年に1度の例大祭で渡御される神輿、茶臼鎧、獅子頭、丹内尊像、市指定有形文化財の木造十一面観音立像、巡礼結願納札(永禄2年)などがあるようです。
参道石段。
参道石段脇の巨木。
丸い池に囲まれた社。
石橋を叩かず渡ります。
弁天宮かと思ったのですが…
石碑を見ると…「金花山大神宮」でいいのかな。紀年銘は安政3年。
参道石段に戻ります。
先ほどの境内社。
到着。
参道を振り返るの図。
手水石一対。
狛犬一対。
石灯籠一対。
社殿。
延暦21年(802)(※延暦20年もしくは22年とも)、坂上田村麻呂が人首丸討伐の折、馬が進まなくなったので祈願をしたところ進んだとされ、帰途、従者泉磨を神社に奉仕させたのが創建の由来とされます。承和年間(834~847)僧真恵が玉崎観音を勧請し玉泉寺を建立。嘉祥3年(850)圓仁(慈覚大師)が十一面観音を安置したとされます。
御祭神は保食之神、武角身神、豊玉姫神。例祭日3月17日、9月17日。9月17日の例祭では地元玉里地区の和田神楽が奉納されます。
神社庁より…『往古は自然の祠であったと伝えられる。延暦20年(801)坂上田村麻呂が人首(現在の米里)大森山の賊徒征伐の折に祈願し、御神託を得たと伝えられる。降って天長2年(825)将軍は、従者をして祠を改築せしめた。現在の前社である。』
牛馬の疫病を救ったことからその守護神ともされ、拝殿内には多くの絵馬が掛けられています。弘化5年3月奉納の算額もあるようです。
江刺三十三番次丸玉崎。御詠歌。
境内社。
中央には馬が彫られた小さな碑がありましたが…
他にも色々安置されていました。
何より狛犬の存在感が凄いです。宇宙人みたい。
狭い社殿内に安置されているため詳細はわかりません。
神楽殿。
あんなところに境内社が…
勾配がきつくて正面からは登れません。脇から行きます。
こちらの碑は読み取りにくかったのでちゃんと見てません。中央に大僧都の名。玉泉寺に関わるものでしょう。
境内社。
石殿が一基。愛宕神社のようです。
天保6年3月17日屋根替、明治32年屋根替、平成12年9月吉日愛宕堂覆堂新築の棟札がありました。
天保の棟札には「別當玉泉院永弘」その他組頭、明治の棟札には祭主、氏子惣代等、平成の棟札には「施工誠心工業」などと見えます。
境内社から見た本殿。
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