青森県平川市松館浅井。松館は津軽平野南部、岩木川支流の平川と引座川により形成された氾濫原上の平川右岸に位置。引座川は地内北端で平川に合流。地名の由来は不詳ですが、中世この地にあった大光寺城の支館である松館に関係するものと考えられています。
以下の記事にて情報を求めた結果、丁寧かつ詳細な情報を頂きまして、無事に見つけることができました。
下のモノクロ写真について(頂いた情報より)…1枚目:『伊勢神宮の式年遷宮と出雲大社の大きな行事が同時に行われた年に立て替えました。(陸奥新報にも鎮守様の立替とかで載ったと思います)』・2枚目:『外装にトタンを貼り付ける前の写真です。』
松館神明宮前付近から見た館山神明宮の鎮守の森。
この道の先です。
江戸期以降の松館村は津軽郡平賀庄のうち。弘前藩領。村高は貞享郷村帳604石余、貞享4年検地水帳284石余、うち田235石余・畑屋敷48石余(屋敷2石余)、寛保高辻帳604石余、天保郷帳304石余、旧高旧領345石余。天和4年書上帳では家数17。貞享4年検地水帳によりますと小字に「浅井・前田・井之上・川原田・稲村・里見・松元」があり、反別は田25町余・畑屋敷11町余(うち屋敷3反余・郷蔵屋敷16歩)、他に村抱え田畑地11町余、池床4ヶ所2町余、漆木107本、沼1ヶ所4畝余、川原地3ヶ所3町余、永荒畑1反余があります。また、田は上田~下々田まで、畑は上畑~下々畑まで設定されていました。元禄3年には大光寺組に属し村位は中。村位は宝暦9年郷村位付帳でも中。東方の館山村へ向かう道がありますが、西方は平川に突き当たります。国誌によりますと「四方田地にして其の土は中之中、畑は麻と荏に宜し、余産なし」と記されています。今井仁兵衛記によりますと文政9年の家数18、うち百姓7・高無11、人数82、馬8。天保10年大光寺組村留牒(大光寺史)には家数32、うち百姓7・高無6・日雇取4、人数168。明治4年弘前県を経て青森県に所属。同11年南津軽郡に属します。明治初年の戸数21。明治4年大光寺組村々田畑高反別並村貯籾組貯籾夫喰米戸数人別馬数共取調帳では、反別は田27町余・畑屋敷3町余、戸数18・人口121、馬19。同12年の共武政表によりますと戸数20・人口165(男83・女82)、馬12、物産は米・糯米。産土神は地内には無く、館山村の神明宮を共同で祀っていました。しかし明治20年に対立が生じて分離独立し浅井に神明宮を創建。明治22年、はじめ大光寺村、昭和18年大光寺町、同30年からは平賀町の大字となります。明治24年の戸数28・人口177、厩5。明治末期からリンゴも栽培されましたがごく少数であり昔ながらの稲作地帯。昭和37年に平川土地改良区の農業構造改善パイロット事業地域として水田区画整理を実施。大正4年の戸数30・人口219、世帯数・人口は昭和27年38・279、同30年38・301、同40年40・231、同50年45・244。
御祭神は天照皇太神。
神明宮は舘山松舘松崎三村の御産土神様(共同氏子)として崇敬されてきた社でしたが、以下の理由にて明治20年以降、館山のすぐ隣りに松館神明宮という名称で独立して存在する社となっています。よって歴史的な由緒等については一部館山神明宮と被りますのでそちらも参照ください。
明治20年に松館部落民と館山部落民が感情問題から離反し、松館部落が神社の独立を宣言し、当時の松館部落の大農対馬善助が宅地南側の屋敷苗代を埋め立てて22坪(字浅井七十六番三号地)を部落に寄付して建立(無格社)しました。萱葺の社殿(6坪)は御神体がないまま約45年ほど経過しましたが、昭和年間に須々田誠一郎村長時代に役場に設置されていた御祭神を貰い受けて奉遷。
灯籠一対(平成25年6月30日建立、寄進者一同)
※コメント情報…『松館神明宮は明治44年建立、昔の燈籠にありました。また、建っている場所は江戸自体以前に豪族の跡地だったとのこと。部落を囲むように水路があり、その中心にあることからも、そうなのかなぁと思われます』
大光寺史より…『当社は、館山神明宮より二百㍍ほど離れた部落入口にあり、道路から用水路沿いに作られた狭い畦道のような参道を百㍍ほど進むと田地と境内界の入口に朱塗の鳥居一基が建ち、およそ四間に六間ほどの境内地にかえでの大木が一本と、明治二十年六月十六日、対馬善助奉献の石灯籠一対と間口二間半、奥行二間のトタン板葺切妻屋根の社殿が南面して、ひっそりと建てられている。一見、部落内を通る道路から見ても、他の神社境内と違い樹林ではないので気がつきにくいところである。』
杉館の八幡宮と同じ「挙村敬神」の扁額があり、揮毫も杉館と同じく岩倉具徳氏。他に白馬に乗った武人の奉納絵、正面左にオシラ様も祀られているそうです。
おまけ。平川市碇ヶ関の三笠食堂。
自然薯餃子&酸辣湯麺。
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