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岩手県上閉伊郡大槌町吉里々々第27地割。三日月公園付近。
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蓬莱島(ひょっこりひょうたん島)が目の前に見える場所です。
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3.5
石段。
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参道。
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鳥居(平成13年旧5月28日、岡谷喜良・喜左衛門・喜惣治建立)
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吉里吉里(きりきり)は吉里々々とも書き、船越湾の南に面する吉里吉里半島の基部に位置、西側に鯨山・小鯨山があります。吉里吉里半島の崎山弁天遺跡は海岸の水際で、北向きの台地にあり、縄文前・中・後・晩期の土器片・土偶・石槍・石斧・石鏃など打製・磨製の石器が出土。吉里吉里海岸は白砂青松に富み、踏む砂のキリキリと鳴り響く音が地名の起こりともいわれています。また、地形からみて北東部に突出して海に面しているため、限々(ぎりぎり)とか切々(きりきり)とかいわれたことに因むともいわれています。
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江戸期の吉里吉里村は閉伊郡のうち。盛岡藩領。寛永9年から大槌通に属します。村高は正保郷村帳117石余(田63石余・畑54石余)、貞享高辻帳147石余、邦内郷村志・天保郷帳ともに259石余、天保8年は259石余、うち蔵入高234石余・給所高24石余、安政高辻帳208石余、旧高旧領258石余。仮名付帳によりますと当村の枝村に赤浜村・浪板村が見えます。邦内郷村志では家数162、馬108。本枝村付並位付によりますと位付は下の上、家数176、集落別内訳は本村91・波板36・赤浜49。享和3年の南部太膳大夫領内陸奥国閉伊郡東海岸村々里数併人数家数漁船覚では家数91・人数497、船(500~600石積)は3~4艘、漁船は与板船8・小天当船10・五大力船2、枝村は赤浜村(家数49・人数265)・波板村(家数36・人数194)。村の主産物は海産物であり元禄年間から俵物として重視され海上積出しが行われました。廻船問屋前川善兵衛が代々藩の御用商人として活躍。前川家は寛保元年には代々帯刀を許可され、宝暦3年幕府より藩が下命された日光山の修理費用のうち5,000両と米3万俵を負担。また釜石十分一取立方(他領に積出しの際の納税取立役)に下命されて、藩へ2,000両を上納しています。更に宝暦5年の大飢饉の際には、村中83軒の304人に対し、1人につき稗1升ずつを与えたり、朝夕の2度にわたり2ヶ月間粥をふるまいました。前川家は元禄3年以来、江戸や常陸那珂湊で交易を行っており、その主なものは鰯油・干鯣・干・干鱈・鮭塩引・干蛸・鰹節・塩鰹・串貝・布海苔などで、他に木材(檜・杉)も運送。漁業関係では田鎖家もこの地方で活躍した家で、田鎖丹蔵は文化3年、釜石平田において鮪建網の装置を試用して漁獲高をあげ、以後天保10年までに下閉伊郡宮古浦・三戸郡八戸鮫浦・北郡田名部に漁場を開きました。丹蔵はその功により、藩主から苗字帯刀を許可され、更に扶助米3駄(1駄は8斗)を与えられました。神社としては天照御祖神社と倉本稲荷があり、倉本稲荷は倉本沢に社地をもち、甲州から移住した倉本家の氏神ですが、天保14年の倉本稲荷棟札に大同2年建立と記されています。寺院としては曹洞宗虎竜山吉祥寺があり、享保元年に豪商前川氏3代目にあたる善兵衛助友が独力で現在地に移転。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年南閉伊郡に所属。同年の村の幅員は東西25町・南北1里6町、税地は田22町余・畑132町余・宅地9町余・荒地6町余など計169町余、戸数231・人口1,244(男619・女625)、職業別戸数は農業173・雑業50、物産は牛・馬・鮭・鯣・サガ・米・大豆・楢子・蘿蔔・濁酒など。明治8年私塾廃止の通達により有志が学校設立運動を展開し、同10年請願書を県令島惟精に提出。同12年枝村の赤浜の八幡神社にあった小学校を本村の吉里吉里に移し、村社天照御祖神社内に設置。同20年吉里吉里簡易小学校と改称。同22年大槌町の大字となります。
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明治29年の津波後、大槌町会は吉里吉里海岸の潮除堤防復旧費を可決し工事に着手。昭和8年3月の津波では流失105戸・倒壊23戸・死者15名。同10年吉里吉里巡査駐在所設置、管轄区域は吉里吉里と浪板の2地区。同13年国鉄山田線吉里吉里駅を設置。同31年吉里吉里小学校浪板分校開校。同35年のチリ地震津波後、第2種漁港昇格運動が起こり、同38年昇格が決定し、国庫補助による港湾修築が進められました。また、第三次漁港整備計画以後、埋立て・護岸・防波堤の整備がなされました。昭和36年国鉄山田線浪板駅開業。地内の一部が同39年吉里吉里1~4丁目、同40年赤浜1~2丁目となります。同41年吉里吉里公民館設立。同44年国道45号の吉里吉里~大槌間が開通。同46年吉里吉里半島の先端部に筋山経由で赤浜に至る観光道路リアスシーニックラインが開通し、太平洋と内陸の北上山地を眺望できます。同52年漁業構造改善関連整備事業の一環として漁村環境改善総合センター完成。同56年、井上ひさし著「吉里吉里人」がベストセラーとなり、当地でも「吉里吉里国独立宣言」を行い、観光に一役果たしています。昭和55年の世帯数763・人口3,166。
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大乘妙典千部(持経行者岩間氏・大道良安居士)
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鳥居。
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何かはわからず。
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石殿。
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石灯籠一対。
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こちらも何かはわからず。堂宇前にあるので不動尊と関係するものとは思いますが。
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由緒等についてはわかりませんでしたが、ネットで調べると盛岡藩を支えた大槌の御用商人前川善兵衛ゆかりの三神社(厨川稲荷神社・前川稲荷大明神・三日月神社)のうちの一社とのこと。『前川善兵衛ゆかりの三神社』という書籍があるので、そちらを読めば色々とわかるかと思います。
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前川善兵衛(Wikipediaより一部抜粋)…前川善兵衛は、江戸時代、吉里吉里を根拠地にした商人、網元である。長く盛岡藩の御用商人を勤めた。屋号は東屋孫八、通称は吉里吉里善兵衛(きりきりぜんべえ)。戦国時代、後北条氏に仕えた清水富英は、相模国前川邑(現:小田原市前川)に領地を与えられていた。しかし、小田原征伐で後北条氏が没落すると、富英は奥州・気仙浦に逃れた。子の富久の代に吉里吉里に移住し、旧領から前川と改姓した。富久の子の富永から、代々善兵衛と名乗り、廻船問屋、網元、酒・味噌醸造と商売を広げ、盛岡藩の御用商人として栄えた。盛岡藩に多額の融資を行う一方、十分の一税を免除される特権を受けていた。しかし、1753年(宝暦3年)、4代善兵衛富昌の時、盛岡藩が江戸幕府に日光東照宮修復のお手伝い普請を命じられると、藩は領内の豪商に費用を供出させ、前川家も7500両の出費を余儀なくされた。さらに、宝暦の飢饉では蔵を開いてのべ3万2千人に雑穀を振る舞ったが、追い打ちを掛けるように盛岡藩に献金を要求された。こうしたことが度重なり、前川家の家運も傾き始めた。6代善兵衛富長は、測量に訪れた伊能忠敬を接待した記録が残るが、船を難破で失うなど本業は苦境が続いた。以降も前川家は存続するが、豪商としての活動は見られなくなり、漁業に専念するようになっていった。1950年、前川家所蔵の古文書(『前川善兵衛家文書』)が、水産庁によって買い取られた。内容は草創期の1630年(寛永7年)から1917年(大正6年)まで約4700点に及び、水産庁によって江戸時代の漁業・水産物流通の実態を伝える貴重な史料群と評価されている。
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扁額「月天子」南山老人書
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不動明王立像(明和6年、仏師安岡良運)
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魚鱗供養(令和4年5月吉日・岡谷喜一、岡谷喜惣治建立)
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