三戸郡三戸町蛇沼本村。
旧蛇沼小の南西、蛇沼やまびこ会館及び三戸町消防団第15分団の西方。
薬師堂大銀杏。
推定樹齢三百年、幹周5.67メートル、樹高25メートル。
カラクリ人形の里(荒田バッタリ村)のからくり水車小屋内にあった貼紙「巨木あれこれ~三戸町蛇沼薬師堂の銀杏に看板」より…『三戸町の蛇沼地区に薬師堂がある。その参道に一本の銀杏の巨木が聳えている。このたび大銀杏の横に立派な看板が設置された。昨今巨木は伐採されるニュースが多い中での快挙だ。人間社会中心の世の中なのでしかたないことかも知れないが、人間様に害があるかも知れない、または邪魔というだけで簡単に伐採されることが多いようだ。某市内の小学校の校庭の桜並木が伐採されるようだ。少子化の波により、学校も廃校となったり少人数になったので、手入れや落ち葉の掃除が大変だというのが理由らしい。まったくさみしいこの頃である。その中にあって、三戸町の蛇沼の人々は巨木を文化財として敬い、地域の宝として保護し、守っていこうという心意気に頭が下がる思いだった。看板は、ケヤキの木で造られていて、屋根は銅板だ。この地区には若者が少なくなり高齢者だけが目立つようになり、暗い話題が多くなったという。そこで地域が誇れるもの、元気になれるものとして、看板設置を思いついた。幹周や樹高、樹齢など「東北巨木研究会」に依頼し調査した。町の教育委員会にも相談し文章なども考え、同地区出身の筆の達人にお願いし書いてもらった。この大銀杏は「薬師堂の大銀杏」と命名され、今後も蛇沼の人々の安寧を願い、薬師堂のある丘からここに住む人々を見守っていくに違いない。看板設置に向けて住民の話し合い協力で完成した。この様子は地元の新聞にも取り上げられた。きっと孫たちに自慢するであろう皆さんの顔が目に浮かぶようであった。推定樹齢300年という長い歴史があり、孫たちの孫の時代になってもこの大銀杏と看板設置は語りつがれていくだろう。』
看板…『推定樹齢三百年、幹周5.67メートル、樹高25メートル。銀杏は人々の健康に深く関わって来ました。この大銀杏は薬師堂と共に村民の安寧を願い見守り続けて来た御神木です。調査測定:東北巨木調査研究会副会長・事務局長山本光一、三戸町教育委員会野田尚志、デーリー東北新聞社三戸支局長松本正人、薬師堂祭典部一同。寄付:松本憲四郎。銅板寄付:道尻誠助。発起人:奥利義美、境政信。岩間書。平成27年3月』
蛇沼は猿辺川の支流小猿辺川流域の山間地に位置。蛇沼館は蛇沼集落の南方約60m、小猿辺川とその支流の合流点に西から東へ突き出た尾根の先端を利用したもの。北方は比高約20mの断崖で小猿辺川に臨み、南方は道路が館のすそを西から東へ通じ、その南側を小川が東流して小猿辺川に合流。広さは東西約200m・南北約50m。南部光行が鎌倉初期に入部した時、田子の豪士相米弥左衛門とともに光行を歓迎し協力した蛇沼惣左衛門の館跡といいます。館跡には蛇沼氏の墓地もあります。萩鶴場遺跡からは縄文後期・晩期の土器片が出土。町通史収録の三戸の伝説と民話によりますと『昔、沼のほとりに大蛇が横たわって道行く人を困らせていた。この地に住む豪族千葉左衛門政義が袴田方面へ出かける途中、沼のほとりを通ると、村人たちの噂どおり行手に大きな蛇が道をふさいでいる。政義は「去れ、去れ」と声高く叫んだが、蛇は動かばこし。腹を立てた政義は刀を抜いて蛇の頭めがけて切りつけた。不思議にも切られた首は地に落ちないで宙を飛び、二キロも離れた森の中に落ちたという。この森を蛇森と呼び、沼は蛇沼と言った。いま、蛇沼は地名として残っている。』と紹介されています。
江戸期以降の蛇沼村は三戸郡のうち。盛岡藩領。三戸通に属します。村高は邦内郷村志230石余(うち給地204石余)、旧高旧領206石余。なお、正保郷村帳・貞享高辻帳・天保郷帳・天保8年御蔵給所書上帳・安政高辻帳には村名が見えず、仮名付帳には貝森村の枝村として記されています。邦内郷村志では家数90、集落別内訳は蛇沼村19・飯田村4・葛子15・下川原10・荒田8・専足4・清左久保6・大平9・中山3・上中山3・下横沢3・上横沢5・山井沢1、馬数198。本枝村付並位付によりますと位付は下の中、家数91、集落別内訳は本村21・下河原12・葛子比良17・新井田4・大平6・中山4・荒田7・清三久保7・千俵山3・横沢7・滝沢3。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県所属。明治初年の家数は本村16・新井田6・米内2・太平11・葛子平21・中山3・下川原17・清左久保12・荒田10・千俵山5・横沢12、耕地は畑勝ち。明治12年の共武政表によりますと戸数は本村26・葛子平23・下川原21、人口は本村131(男67・女64)・葛子平109(男57・女52)・下川原103(男53・女50)。学校は本村1、牛は本村6・下川原2、馬は本村44・葛子平13・下川原28、物産はともに米・麦・雑穀・麻糸・蔬菜。明治9年蛇沼小学発足し、同12年の教員数1、生徒数14、うち男12・女2。同22年猿辺村の大字となります。昭和30年からは三戸町の大字。明治24年の戸数120・人口696、学校1、水車7。山間の農村ですが、葉煙草・米作などを主とし、高級メロンの栽培も行われているそうです。明治9年発足した蛇沼小学は昭和22年猿辺中学校蛇沼分校を併設。同25年分校廃止、本校へ移転。
薬師堂側から見た大銀杏。
石灯籠一対(文久3癸亥年7月)。
明治三十七八年戦役従軍紀念。
青面金剛と…
三猿。
参道石段。
手水石。
狛犬一対
台座…『大正十一年旧七月十九日 猿辺村大字蛇沼字本村 納主 三瀧宮』
社殿。
2月に地域の伝統芸能である蛇沼大黒舞が奉納されます。七福神の大黒天に扮した者が家々を回って門戸に立ち、新年嘉祝の詞を唄い舞うもの。明治から大正時代に起源を持ち、かつては五戸や新郷まで回っていたこともありますが、大東亜戦争の影響により長らく休止したことにより、次第に伝承者が減り、一時は消滅の危機に陥ったそうですが、蛇沼小学校開校100周年(昭和52年)を記念して地元有志と蛇沼小学校の教員たちによって再開。同年7月4日に蛇沼子ども大黒舞保存会が設立されて以降、地区の門付けは子どもたちの手によって支えられてきました。平成15年には活動拠点であった蛇沼小学校が閉校し、三戸小学校へ継承されましたが、少子化や人口減少の影響によって平成24年2月をもって再び休止。しかしながら門付けが休止した後も三戸小学校での伝承活動が続けられてきたことが実を結び、蛇沼子ども会育成会として再開を果たします。
斗栱・蟇股・木鼻。
斗栱・海老虹梁・手鋏。
拝殿向拝神額。
こちらは高い所にあってちょっと部分的に読み辛かったです。トタン屋根のものかと思います。昭和11年6月28日落成。
拝殿内。
棟札らしきものがたくさん見えますが未確認。由緒等についても調べておりません。
他にも参道がありました。
車も通れるようになっているのかな
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