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岩手県胆沢郡金ケ崎町西根鶴ケ岡。曹洞宗亀鶴山法雲寺。
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西根は北上川に注ぐ胆沢川支流黒沢川流域に位置。宿内川が扇状台地上を東流し北上川に合流。地名の由来については城西根村の城を削って西根としたとの記録がありますが、西の山(奥羽山脈)の山麓に位置するので「西の根」から西根になったとの説もあります。胆沢川の北岸、字原添下の高台は前九年の役で有名な安倍頼時の三男宗任(鳥海三郎)の居城であった鳥海柵の有力な擬定地とされています。
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3.5
中世の西根は戦国武士新渡戸氏の本拠地。新渡戸氏が住んだ西根城の在所。江刺郡のうち。北上川西岸の丘陵地帯。川東の江刺郡中心部から見れば西根ということになります。宿内川・黒沢川の流域一帯を占め、西方は駒ケ岳(栗駒山)にまで至ります。針山・坂水・平沢・六原・長志田・荒巻・細田・駒籠・辻脇・宿内・荒谷・湯沢を総称して西根十二郷といいます。また、針山・坂水・長志田・平沢・細田・辻脇・宿内・濁沢・荒巻のことを西根九郷ともいい、葛西清重が源頼朝から与えられた所領の1つといいます。「新渡戸家譜」によりますと、戦国初期の永正年間頃の人、良胤が西根城主の始祖と伝えます。良胤の孫、摂津守頼長は永禄8年に伊沢伊勢守(柏山明吉)に攻められて自害。自害の場所は西根城または相去城ともいいます。頼長はまた軍功により郡主江刺氏から「相去之西十二郷」を給されたともいいます。西根城(または相去城)没落後の新渡戸氏は和賀領に亡命。近世には盛岡藩士となります。「深秘抄」(奥南旧指録)は「予参御普代並」の家として「新戸部」氏の名をあげて(長坂・乙部両家と同じく)本名千葉平氏なりと記しています。明治期の学者新渡戸稲造はその子孫。西根城の在所は三ケ尻字川口田の花館(単に館とも)の地、西根台地の東端、北上川西岸の段丘上(比高35m)。崖下の入江には北上川が流れ(今は水田)、舟運の拠点となっていたとされます。北・西には開析谷を利用した濠がありました。60m×80m。近くの西根字大森の花館は新渡戸氏の居所にはあらず、伊沢郡主柏山氏一族の居館と推定。同じく西根字新井田の新井田館は黒沢川左岸の小高い丘にあります。八荒神館とも称します。坂上田村麻呂が討ち取った蝦夷8人の霊を祀る八荒神神社が建っています。西根国有林地内の八幡館は駒ケ岳の中腹にあります。前九年の役の源義家の仮宿陣跡と伝えます。館東の「矢落し」は義家が鏑矢を射た所。館西の「杉の宮」は義家が戦勝を祈って鏑矢を立て杉を植えた所といいます。鏑矢を神体として康平5年に建てられた八幡社は平泉藤原泰衡が再興しましたが、鎌倉初期の元暦年間に山火事にて焼失。安倍宗任の鳥海柵跡は西根字鳥ノ海にあります。西根字雛子沢の三居寺館(山居寺館とも)は黒沢川の右岸、駒形神社裏山に続く丘陵の西方。空濠・土塁跡を残します。館主不明。45m×50m。比高35m。西根字揚場の五葉館も館主不明。濠跡2本を残すのみです。川崎城は戦国期の永禄12年、和賀氏配下の小野寺前司宗道の築城と伝えます。和賀川崎城とも称します。天正元年南部勢の攻撃を受けましたが、葛西晴信の支援を得て撃退。しかし南部勢の攻撃は休まず小野寺氏は葛西領内に退きました。川崎城の在所は不明。三ケ尻東浦付近の北上川西岸段丘上(比高30m)が川崎城跡と推定。稲瀬の渡しにも近い同地は北上川舟運の要衝であったと考えられます。城塞の間道とみられる横穴が発見されて話題をよびました。「県史」「金ケ崎町史」「仙台領古城館」などは金ケ崎城の古称が川崎城であるとします。「カワサキ」が「カナガサキ」に転じたものともいいます。西根字白糸・仮屋の金ケ崎城は北上川西岸の連郭式平城。本丸・二の丸・蔵館・東館・観音館などの諸郭を水濠で囲った大規模な城。東西500m・南北800m。但し戦国期の城主は不明。金ケ崎城の前身は前九年の役の安倍頼時の息女、白糸の御前の居館と伝えます。近世の金ケ崎城(一部)は近世に入ってから仙台藩家臣桑折景長・留守宗利、次いで大町将監定頼の居城となりました。大町氏居住の時代は長く、227年の間、仙台領北境の防御拠点としての役割を果たしました。西根字諏訪小路の諏訪社は康平年間、源頼義の勧請と伝えます。西根字鶴ケ沢の熊野社は延暦20年坂上田村麻呂の勧請、葛西一族柏山伊勢守の普請とされます。同じく稲田・川目荒谷の伊勢社も康平年間源義家の勧請、あるいはまた柏山伊勢守の勧請とも伝えます。川目荒谷の荒神社は悪路王の霊を祀ります。西根字藤巻の愛宕社は天喜5年八幡太郎義家の勧請。石持沢の稲荷社も柏山伊勢守の勧請。西根字二ノ宮の舟越社は源頼義父子を助けて洪水の胆沢川を渡らせてくれた老翁を祀ります。長志田の雲南社は葛西家の勧請、柏山伊勢守の普請。堀之内熊野社、荒田伊勢社はともに延暦20年坂上田村麻呂勧請、柏山伊勢守普請と伝えます。駒ケ岳の馬頭観音堂は源義家、杉本の薬師堂は大同年間大野東人、坂本の観音堂は柏山伊勢守のそれぞれ勧請と伝えます。本宮観音堂前の椚清水は鳥海弥三郎が矢の根にて穿ったものと伝えます。同じく境内の古碑は白糸御前の碑といいます。五ツ丁の真言宗春日山長福寺は覚運法印の天文年間開山と伝えます。本山は山城醍醐寺報恩院。但し大町氏入部以前の寺地は磐井郡東山藤沢村といいます。梅森崎の曹洞宗亀鶴山法雲寺は物厳文逸和尚の慶長元年開山。本山は塩釜村森城山大林寺。舟形館の曹洞宗小白山泰養寺は鶴庵全賀和尚の永禄元年開山。大町氏に従って当地に入部。鶴ケ岡本山派修験良善院は室町期の明応3年宝動院忠綱の開院。忠綱の先祖菅原大武は源義家より金ケ崎諏訪別当職を与えられて以来、代々その職に任じたといいます。字雛子沢の本山派光善院は光京坊正成の応永年間の開山。駒形山馬峰寺と称します。光善院の先祖高橋左京太夫は駒形神社別当社家をつとめました。同じく本宮の本山派宝寿院は康平年間開院、権大僧都覚盛の天正年間の中興。本宮山観音寺と称します。境内には白糸姫の墓所があります。下城の本山派浄信院は大永年間の開院。大町氏に従って東山藤沢村から入部と伝えます。諏訪小路の本山派羯摩院は康平年間の開院。諏訪社の別当を兼ねます。中世の西根は現在の西根より広域で、金ケ崎町六原・三ケ尻の一部をも含んだと考えられています。
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江戸期以降の西根村は胆沢郡のうち。仙台藩領。村高は寛永検地531貫余(田501貫余・畑30貫余)、「元禄郷帳」3,710石余、「安永風土記」693貫余(田611貫余・畑81貫余)、「天保郷帳」6,951石余、「旧高旧領」7,038石余。村内は森山を境にして北部は北方、南部は南方と大別され、それぞれに肝入が置かれました。明和9年の家数401。「安永風土記」によりますと、蔵入地330貫余・給地362貫余、人頭453、家数466(うち名子・水呑・借屋など33)・人数2,215(男1,210・女1,005)、馬592、舟3(渡舟1・苅子舟2)。神社は八幡社・伊勢社・熊野社・諏訪社など23社で、寺院は曹洞宗泰養寺・同法雲寺・同妙鏡庵・真言宗長福寺、修験は本山派の良善院・光善院・宝寿院など5か院。諏訪神社は景勝の地にあることから諏訪八景と呼ばれ多くの歌人が訪れています。また泰養寺は大町氏の菩提寺でもあり、大町氏累代の墓・位牌・過去帳が残されています。地内町裏の金ケ崎城は慶長7年桑折氏、後に留守氏が城主となり、寛永21年からは大町氏(3,000石)の支配下に入り、正保元年大町定頼が移ってきました。この周辺には武家屋敷地として六軒小路・片平小路・達小路・南拾町・表門前小路・諏訪小路・矢来丁の7小路があります。また藩の御蔵場もあり、本穀蔵2・雑穀蔵4が置かれました。藩境警備の要員として3名が当村に置かれています。地内千貫石には名石があり、藩主伊達綱村が「価千貫にも替え難き珍石なり」と称讃したのが名の起こりといいます。千貫石堤は藩営事業として天和2年に着工されて元禄4年に完成しましたが、難工事のため女性と牛を人柱に立てたと伝えられています。溜高は237貫余で西根・三ケ尻・相去の3か村と相去村端郷の六原を加えた4か村による入会用水でした。大町氏の郷学「明興館」は文化~文政年間に設立され、講義は月6回で和算も盛んであり、中西流数学者岩崎清右衛門が元文6年に算額を奉掲。日本に現存する算額中3番目の古さといいます。慶応4年5月奥州鎮撫総督九条道孝が盛岡へ向かう途中当村で昼食をとっていますが、これに従うものは士1,220・継夫472・馬47であったとします。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県、水沢県、磐井県を経て同9年岩手県に所属。明治6年南方小学校の前身永保小学校が開校し児童数は65。同7年金ケ崎・南方・北方の各小学校が開校、同10年の生徒数は金ケ崎学校72(男57・女15)・南方学校92(男78・女14)・北方学校男のみ53。同13年の村の幅員は東西約4里24町・南北約2里16町、税地は田621町余・畑328町余・宅地81町余・荒地42町余の計1,073町余、戸数655・人口3,754(男1,946・女1,808)、牛15、馬723、荷船1、車15。小学校の生徒数は南方学校61(男53・女8)・金ケ崎学校76(男62・女14)・北方学校43(男子のみ)。物産は米・麦・大豆・芥子・茶・藍・生糸。職業別戸数は農業635・工業3・雑業2。また地内には金ケ崎宿駅があり、本町には5等郵便局・扱所があります。同22年金ケ崎村の大字。
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六地蔵と…
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誰!?
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アマビエかな。
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アマビエ以外の彫刻も素晴らしかったです。
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参道と石灯籠。
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参道と大楼門。
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「法雲寺御本尊南無大慈大悲聖観世音菩薩」
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「昭和観音霊場第九番札所「宿内の川の流れも清くして法のみ光永久に映えゆく」施主昭和57年4月吉日三ヶ尻有住チヌ子、法雲寺十八世泰憲代」
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アジサイ。
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山門(大楼門)前石段。
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大楼門。
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立派です。
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かわいい奴がいます。護法四善鬼のような感じ。
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柱には立春大吉・鎮防火燭とありました。
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仁王像。
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大楼門建立…『平成8年、十八世教法泰憲大和尚の発願により川口亮弌総代長の元、山門建設委員会が発足された。住職自らケヤキ原木を調達する事100本以上、名工、善生院千田勝雄棟梁の元、また宮彫師、高橋源と道明和尚の彫刻により平成12年檀信徒の浄財と関係者各位の叡智を結集し荘厳な楼門は完成された。袖工事は菊地梅雄棟梁による。仁王像は平成13年~4年の歳月を経て道明和尚が彫刻したものである。総事業費8,600万円』
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山門と鐘楼。
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鐘楼と灯籠一対。
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梵鐘。
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手水舎。
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手水石。
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多度桐紋に久我竜担車紋かな。
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色々な花が咲いていますが、やはりアジサイが多いですね。
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山門。
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「亀鶴山」(昭和58年2月吉辰、前岩手県知事千田正奉納)。千田正氏は金ケ崎町名誉町民。
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おっ!何か独特!四天王ですね。
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持国天。
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増長天。
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広目天。
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多聞天…はいませんでした。
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どうやら住職自らが製作している最中のようです。
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山門から見下ろした大楼門。
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聖観音菩薩。
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終戦十週年記念、平和之梵鐘鋳造・石段改造、本堂山門屋根模様替(昭和30年豊穣之秋)
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亀鶴山法雲寺の由緒沿革…『當寺は禅宗で曹洞宗に属し、それ以前は古代寺院跡または西根城跡とも云われております。開山は安土桃山時代の慶長元年で水沢市大林寺十世物巖文逸大和尚が近村を勧請中、この地は鶴が舞い、亀が遊ぶ吉相の土地(字名鶴ヶ岡)で佛法興隆の処に相違ないと悟られ、亀鶴山と命名され法雲寺を建立されたと伝えられております。文政7年12月山火事が元で本堂庫裡等を焼失辛うじて山門が火災から免れ、文政10年に現在の本堂が建立されております。明治維新政府は神佛分離政策(神佛判然令)を取り佛教を排斥(廃佛毀釈)する宗教改革を行い、神道が国家権力と結びつき軍国主義へと走り、日清、日露、日独戦争、日華、日満等の諸事変を経て大東亜戦争の要因となり、昭和20年終戦の年には高谷野原に飛行場を建設するため、本堂、庫裡等を軍隊に解放するなど、また当地方においても廃佛毀釈が行われ、その当時の佛像が安置されており戦争犠牲者の供養碑が建立されております。當寺十五世再中興祖道惠敎大和尚が伊達藩士増沢家より妻を迎え自分の貯えと妻の持参金で山林、原野、田畑等を買って寺の基本財産となし、伽藍の維持管理が今日において確立して行くのであります。「西根村風土記抜粋」安永5年7月調 一、開山之事…當寺ハ物巖文逸大和尚慶長元年開山ニ付當安永五年マデ百八十一年ニ罷成申候事 一、小名之事…梅森崎 一、本山并末寺之事…本山ハ當郡塩竈村森城山大林寺ニ御座候但シ末寺無御座候事 一、故事来歴之事 一、寺格之事 一、最初之地移替之事 一、寺領并御寄附之事 一、御墓所并御位牌之事 一、御参詣又者御成之事 一、御詠歌惣而拝領物之事 一、御目見並ニ御意等有之事 一、古キ什物之事聖観音一體「右御長委細之儀ハ村書出ニ御書上仕候事」一、古キ墓所之事 一、別當所之事 一、境内景地之事 一、開山ヨリ當住マデ歴代之道號實名之事…開山物巖文逸 二世迴峯文秀 三世盡安嫩應 四世覺山闇奨 五世家山誾宅 六世凸山宅州 當寺七世敎堂義典 以上五ヶ條 御案當十六ヶ條之内印仕候分十一ヶ條之品無御座候事 「右之通り風土記御用ニ付此度相政御書上仕候 以上 當寺は武士階級の寺院ではなく一般庶民の信仰の場であり間もなく開山四百年を迎えようとしております。昭和63年11月吉日當山十八世住持敎法泰憲 敬白』
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本堂。
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本堂前の木と香炉。
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十三重石塔。
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池。
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本堂裏手へ。
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西方霊界参道碑(昭和60年乙丑7月吉辰、法雲十八世泰憲代)
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秋葉山大権現と灯籠一対(為先祖代々諸精霊供養、三ヶ尻鈴木護、昭和58年8月吉辰、法雲十八世泰憲代)
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大乗妙典石書塔。隣の石碑は木が邪魔で見えず。
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白山妙理大権現。
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「奉勧請白山妙理大権現 大本山永平寺道明上山記念 平成3年3月10日掛搭許可第三十三号 当寺十八世泰憲代」
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薬師如来(平成7年春彼岸、法雲十八世泰憲代)
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裏から見た本堂。
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