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岩手県釜石市橋野町。国内の他資産と共にユネスコの世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録された、現存する日本最古の高炉がある高山跡。一連の製鉄工程を把握できる産業遺産で、日本の製鉄技術の近代化の先駆けを物語っています。鉄は文明開化の塊なり!
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基本的に現地パンフレット及び現地案内板から抜粋して紹介します(いくつかのパンフレットから抜粋するため内容は部分的にかぶります。※Wikipediaからも抜粋)。実際に行った際には、まず手前にあるインフォメーションセンターに寄ることをおすすめします。映像やパネルでわかりやすく紹介してくれ、また、現地ガイド(有料)や4ヵ国語(日・英・中・韓)対応の音声ガイドペン(有料)もあります。加えて釜石市立鉄の歴史館&釜石市郷土資料館にも行っておくと完璧です。
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世界遺産「明治日本の産業革命遺産(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)」…橋野鉄鉱山は、世界遺産一覧表に記載された明治日本の産業革命遺産の構成資産の一つである。19世紀の半ば、西洋に門戸を閉ざしていた東洋の一国は、海防の危機感より西洋科学に挑戦をし、工業を興すことを国家の大きな目標として、西洋の産業革命の波を受容し、工業立国の土台を築いた。明治日本の産業革命遺産は、1850年代から1910年の日本の重工業(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)における大きな変化、国家の質を変えた半世紀の産業化を証言している。
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三陸ジオパーク「橋野高炉跡ジオサイト」…【概要】現存する日本最古の高炉跡である橋野高炉跡。1858年、近代製鉄の父といわれる盛岡藩士、大島高任の指導により建設され、1894年までの36年間操業しました。現在、3期の高炉の石組や水車用の水路、管理事務所であった「御日払所」の石垣、山神社跡などが確認されます。また、高炉場の南2.6kmには製鉄の原料である鉄鉱石の採掘場も残っています。【橋野高炉跡周辺のジオ】橋野高炉跡の周辺は花崗岩がよく見られます。これは1.4億年前に地表近くに上昇してきたマグマにより溶かされ、変成した柘榴石や緑簾石を主とする地質ができました。その中に、鉄鉱石や銅鉱石も含まれています。橋野高炉跡は鉄鉱石を製鉄の原料に、花崗岩を高炉石組や水路石垣の部材として使用しています。【餅鉄-製鉄の痕跡】橋野高炉跡の周辺の青ノ木川や橋野川では、磁石がくっつく石を見つけることができます。「餅鉄」と呼ばれるこの石は、鉄鉱石の中でも鉄分を多く含んだもの(70%ほど)が、川の流れで丸みを帯び、見た目よりずっしり重い感じがするのが特徴です。古来より製鉄原料に使われていたと考えられています。【釜石鉱山】1858年に高炉法による鉄鉱石を原料とした鉄の連続生産に成功した大橋高炉が建設された近代製鉄発祥の地。その後、明治から戦後にかけて日本最大の鉄鉱山そして日本有数の銅鉱山として発展し、「鉄の町 釜石」を支えてきました。【蓬莱島】NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる蓬莱島。海の青、灯台の赤とのコントラストが美しい島です。【根浜・鵜住居】大槌湾を望む約2kmの砂浜と松が「日本の白砂青松百選」にも選ばれた根浜海岸。東北太平洋沖地震に伴う地盤沈下や津波により、砂浜が消失してしまいました。現在は徐々に砂浜が戻りつつあります。【滝観洞】大理石でできた鍾乳洞で、総延長3635メートル、高低差115メートルまで確認されています。中には、周囲50メートル、高さ60メートルの洞窟ドームがあり、天井の裂け目から落ちる「天の岩戸の滝」は落差が29mあり、洞内滝としては、日本第3位を誇ります。
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餅鉄。※実際はもっと真っ黒な感じです。インフォメーションセンターで持ち上げることができます。
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大島高任・田中長兵衛・横山久太郎。
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世界遺産「明治日本の産業革命遺産(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)」…日本は19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて急速な産業化を実現し、産業国家の土台を構築しました。日本の重工業(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)の産業化の歩みを証言する、全国8県11市における23の遺産群のうち、「鉄の街」釜石では橋野鉄鉱山が登録されています。
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「橋野鉄鉱山には、鉄鉱石の採掘場、高炉に使用された花崗岩の石切場、森の中を、牛や人力で鉄鉱石を運んだ運搬路、切り出した石を伝統的な施工技術で組立てた高炉や水路、そして、磁鉄鉱の鉱石を焙焼させる種焼き場などの生産関連施設、御日払所(事務所)や山神社など、鉄の製造から売買まで、産業に携わる人々の営みを顕わす総合的な産業空間がある。」
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史跡橋野高炉跡標柱(昭和32年6月3日指定)
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橋野鉄鉱山(1858年)…1858年、日本最大の鉱床のある岩手県釜石市の山深くに、盛岡藩士大島高任は、和蘭書い書かれた「大砲鋳造に適した銑鉄」の製造を目的として洋式高炉を建設。西洋科学の情報の乏しいわが国において、外国人技術者の手を借りずに、山の中で産声をあげた洋式高炉は、還元剤は木炭、送風動力は水車の、小さな高炉であった。地元で採掘された鉄鉱石を原料として、古来の製鉄知識に西洋科学を応用して、初出銑に成功した。高炉から溶けた鉄が流れだした。これまで毎回炉を解体して鉄を取り出していたたたら製鉄法から、炉を壊さずに連続出銑できる高炉法への転換に成功、良質の鉄を大量に生産する近代製鉄へと一歩を踏み出した。
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田中製鐵所の誕生…1880年、明治政府は、鉄鉱石の資源のある釜石に、官営釜石製鉄所を開所した。製鉄所に先進的なイギリスの製鉄技術を導入し、大きな設備投資を行い、殖産興業の牽引力となる鉄の大量生産を目指した。だが西洋からの先進技術も、原燃料が異なるわが国では振るわず、また実際の銑鉄需要も未だ乏しく、官営釜石製鉄所は困難を極めた。封建社会から産業資本主義への劇的な変化と発展を、官民の密接な連携が支えた。1883年、官営釜石製鉄所は閉鎖し、民間の田中長兵衛に払い下げられ、釜石鉱山田中製鐵所として再出発を図った。田中長兵衛は、数多くの困難を克服し、鉄の国産化や漸増する民需にこたえ、製鐵所の立て直しに成功した。1894年、野呂景義等の尽力で、日本で初めて、コークスを還元剤とした高炉の稼働に成功し、日本立地でのコークス高炉の可能性を切り拓いた。
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※1860年代に描かれた「紙本両鉄鉱山御山内並高炉之図」。当絵巻は橋野鉄鉱山の見取り図で、原料採掘、運搬、製鉄、計量、出荷までの全作業工程を絵巻に描いている。
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橋野鉄鉱山案内図…【日本そして世界における橋野鉄鉱山の意義】世界有数の経済大国日本の原点は幕末の欧米列強の植民地化対策に対抗し、西洋技術を導入し、わずか半世紀ほどで、近代化を達成したことにある。そのなかで、産業の米と言われる鉄の大量生産は近代化促進の屋台骨であった。近代製鉄発祥の地「釜石」は、在来のたたら製鉄から高炉法の導入により銑鉄の大量生産に成功した場所であるだけでなく、コークス燃料への転換、銑鋼一貫生産の先駆けとなった地である。またここで培われた技術は八幡製鐵所の建設に大きく貢献した。まさに明治期の近代化、第2次世界大戦後の復興および、高度経済成長を支えた鉄の町であった。釜石の製鉄業の歴史は、先人たちが試行錯誤しながら培った地元の資源や技術を知り新技術を導入していく姿勢や「小さく生んで大きく育てる」という思想は現在にも通じる考えであり、「ものづくり大国日本」の原点でもある。橋野鉄鉱山は日本でいち早く西洋技術を導入し、銑鉄の大量生産に成功した史跡というだけでなく、高炉をはじめとするその当時の遺構群が、採鉱から搬出という一貫したシステムがわかる状態で保存されており、日本の近代化、つまり西洋技術の導入と在来技術との融合が如実に理解できる数少ない史跡である。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとして「橋野鉄鉱山」は世界遺産に登録されている。
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長屋跡。最盛期には約1000人の従業員がいたとされ、従業員が住む長屋や作業場などもあったとされています。
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水路跡。高炉の送風装置であるフイゴを水車によって動かすために作られた水路。長さは約400m。
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12月1日は鉄の記念日…日本に鉄製品が伝わったのは弥生時代、本格的に製鉄が始まったのは古墳時代(6世紀)でした。三陸沿岸には豊富な砂鉄があり、砂鉄を使ったたたら製鉄が始まったのは奈良時代(8世紀後半)で、その後、江戸時代には中国地方に次ぐ生産量を誇っていました。江戸末期に入ると外国の脅威から国を守るため、各藩が大砲鋳造を目指し、反射炉を建設しました。そこに供給する良質の鉄を生産するため、盛岡藩出身の大島総左衛門(のちの高任)は、甲子村大橋(現在の甲子町第1地割)に高炉を建設し、安政4年12月1日(西暦1858年1月15日)に鉄鉱石を原料とした鉄の連続生産に成功しました。これを記念し、同日は鉄の記念日となっています。外国人技師も雇えない時代に、蘭書を読み解きながら研究し成功したのです。
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二番高炉。絵図には9段の石組が描かれ、当時の高さは約7.9m。現在は花崗岩の基壇1段の上に約4.8m四方、高さ2.4mの花崗岩の石組が4段。フイゴ座と湯出し口は一番と同じ配置。高炉中央には流れきれずに炉底にたまった銑鉄が残っています。
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水車場跡・フイゴ座とありますが、フイゴ座とは高炉に風を送る装置で水車の軸と繋がれていました。
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二番高炉…二番高炉は一番高炉とほぼ同時期に建設された。その後、明治4(1871)年頃までは稼働していたが、禁止された銭の製造を続けたことから江刺県に検挙され廃炉となったといわれている。二番高炉の石組は、「二番高炉の図」によると一番高炉と違い炉頂部近くまで石が積まれていた。そのため、一番高炉に比べ、小さな石材を使用している。さらに、左右の石とのズレ防止のためのチキリや上下の石のズレ防止のための凹凸の細工などが見られる。また、それぞれの石の外面はふくらみを持つようなデザインとなっている。炉の中心には炉底塊(出銑時に、炉に残ってしまった鉄)や、その周りに溶けたレンガが残っている。覆屋を建設するため、そして石材の花崗岩を採掘するために二番高炉の東側の山手が削られている。山手にある露出した石にはタガネの痕がついているものもある。
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一番高炉。花崗岩の基壇1段の上に約5.8m四方・高さ2.4mの花崗岩の石組が4段。送風のためのフイゴ座が南側、湯出し口を東側に設置。当時、石組の内側には耐火煉瓦の炉が組み立てられており、高さは7.8mありました。当時は覆屋で覆われていました。
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一番高炉…一番高炉は高炉場の3基の高炉のうち最も南側に位置する。橋野鉄鉱山において仮高炉の操業が成功した後、安政6(1859)年10月に吟味役専任となって田鎖仲・田鎖源治の指導のもと安政7(1860)年頃に完成した高炉である。その後、明治元(1868)年からは銭座を併設するが、翌2(1869)年に明治政府が鋳銭を禁止した。一番高炉は明治4(1871)年頃まで禁止された銭の製造を続けたことから江刺県に検挙され廃炉となったといわれている。一番高炉は4段の花崗岩が積まれている。絵図では、この4段以上は漆喰壁であった。そのため最上段には柱穴と考えられる四角の穴がある。南側はフイゴ座、東側は湯出しとなって開口している。開口部の上方には三角の穴があるが、鉄梁が渡されていた。また東側の四角の穴は、フイゴ座の梁が挿入されていた。平成20(2008)年、21(2009)年の発掘調査では覆屋の礎石が確認されている。また、平成23(2011)年の東日本大震災の地震で、石組の石が割れたり、ずれが生じたことから平成24(2012)年に修復した(石材はそのまま)。
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この日は高炉より暑い…
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種臼場跡。
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種碎水車場。
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鍛冶長屋跡。
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日本最古熔鉱炉記念碑。
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永野重雄書。
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裏面碑文…『熔鉱炉百年祭を行うに当り日本産業発展の基盤を築いた大島髙任翁の不滅の功績を敬仰してこの碑を建てる 昭和三十二年十月十五日 岩手県知事阿部千一 釜石市長鈴木東民 富士製鐵株式会社社長永野重雄 日鐵鉱業株式会社社長森田惠三郎』
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日本の近代化の原点を感じる世界遺産…盛岡藩が大橋に続き建設したのが橋野鉄鉱山で、現存最古の高炉場跡、さらに採掘場跡、運搬路跡を含め2015年「明治日本の産業革命遺産(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)の構成資産としてユネスコ世界遺産に登録されました。現地では基礎の一部が残り、鉄の歴史館では三番高炉の原寸大復元模型で製鉄を学ぶことができます。原料の鉄鉱石、燃料となる木材、動力となる水が揃った橋野鉄鉱山は、緑豊かで散歩感覚でもゆっくり楽しめます。また、桜の名所で4月下旬から5月中旬には宇宙を旅した宇宙桜や石割ザクラ(山桜)、八重桜が鑑賞できます。
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御日払所跡。高炉の従業員に賃金を支払うほか、鉄鉱石の管理、銑鉄の製品管理を行う事務所でもありました。
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御日払所…御日払所は鉄鉱山の事務を行う場所で、仮高炉建設が開始された安政5(1858)年に建設された。最盛期である明治2(1869)年、大橋鉄鉱山では506名の従業員のうち30名が御日払所で業務を行い、12の係りに分かれていたという。橋野鉄鉱山は最盛期に1000人の従業員がいたとされることから御日払所には50名以上の人員がいたものと想定される。明治27(1894)年に橋野鉄鉱山が廃業となった後、建物は払い下げられ、移設された。その後、同地に別の建物が建てられたが、昭和20年代に移設された。御日払所は、柾葺平屋68坪(約220㎡)で、そのほかに、板蔵(木造、柾葺2階建15坪)と土蔵(柾葺平屋、6坪)があった。昭和30(1955)、31(1956)年の岩手大学の調査で、礎石が確認されている。御日払所の前は石垣が組まれているが、二番高炉の石組の石が転用されているようであり、明治4(1871)年以降に作られたものと考えられる。
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貫目改の図。
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絵図にみる御日払所。
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御日払所使用印章。
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板倉跡。橋野鉄鉱山では最盛期、約1,000人の従業員がいたとされています。最盛期の明治2(1868)年の大橋高炉の人員で見るとさまざまな職人が鉄鉱山で働いていました。「橋野鉄鉱山惣御山内略図」「紙本両鉄鉱山御山内並高炉之図」には、大工や鍛冶屋敷等の作業場や従業員の長屋も描かれています。高炉場の中央には南北約33m、東西約12mの石垣で区画された平場があります。ここには御日払所と板倉、土倉がはりました。御日払所では高炉の従業員に賃金を支払う他、採掘場より運ばれた鉄鉱石の管理、できた銑鉄の製品管理などが行われていました。また、栗林付近で採集された餅鉄(べいてつ)の購入も行っていました。
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木炭倉庫跡。
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炭置場跡。
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鉄は国家なり-釜石の不撓不屈の挑戦-…官営釜石製鉄所は大高炉や鉄鉱石運搬用の鉄道の敷設(日本で3番目)など明治政府により大掛かりに建設されましたが、3年で廃業し民間に払い下げられてしまいました。それでも、不撓不屈の精神で48回の試験操業の失敗を乗り越え、釜石鉱山田中製鐵所が継承、発展していきました。その後、明治・昭和の津波、太平洋戦争終戦直前の2度にわたる艦砲射撃など多くの苦難もありましたが、その度に復興し経営体制を変えながら戦後の経済成長を支えてきました。釜石鉱山も日本最大の鉄鉱山を背景に発展しました。しかし、平地が少ない釜石では大型高炉の建設が見送られ、平成元年(西暦1989年)、100年に及ぶ高炉の火が消えました。あわせて鉱山も鉄鉱石の採掘を止めました。現在、製鉄所(日本製鉄(株)北日本製鉄所釜石地区)ではタイヤの補強材などの素材となるスチールコード用線材の製造や高炉跡地では火力発電所を操業しています。一方釜石鉱山は、坑道から湧き出る水を利用しナチュラルミネラルウォーターの製造や発電、堆積場や社宅跡を利用した太陽光発電を行っています。
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ものづくりの灯を永遠に…鉄のまちの象徴である高炉の灯を残そうと駅前の広場にある鉄のモニュメントのなかに灯されました。また、12月1日前後の1週間を鉄の週間とし、市内でさまざまなイベントを行っています。
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三番高炉。大島高任により仮高炉として築造された現存する最古の洋式高炉跡で、当時の高さは約7.0m。現在は、花崗岩の基壇2段の上に約5.4m四方、高さ2.8mの花崗岩の石組が5段積まれ、四隅には縦長の花崗岩が残っており、高炉中央に炉底塊があります。
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フイゴ座跡・水車場跡。
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三番高炉…花崗岩の基壇2段の上に約5.4m四方、高さ2.8mの花崗岩の石組(5段)が積まれており、四隅には縦長の花崗岩が配置されている。この石組形式は大橋高炉においても採用されており、初期の高炉の基本的な形であったと考えられる。高炉の中央には炉底塊がある。昭和30,31(1955・1956)年に発掘調査が実施された。
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山神社鳥居。
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三番高炉東側山手になります。
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石碑があります。
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山神碑。
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明治2年3月17日かな(※自信なし)
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牛馬観世音碑(供養碑)。
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こちらは不明。
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更に登っていきます。
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石割桜。
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苔チェック。
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礎石のみが残っている山神社跡。
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日本において鉱業所や製鉄所では山の神を祀る山神社が設置されています。
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山神社の御神体や扁額、手水鉢は、高炉が明治27(1894)年に廃業となった後、橋野町中村の熊野神社に移設されました。そのほかに市内には神社などに奉納するために作成された宝剣や鉄製の扁額もあります。
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山神社の更に上へ。
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橋野鉄鉱山で支配人をしていた市之助の墓があります。
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市之助の墓。
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文久元年六月(※下部見えず)…南無阿弥陀佛と彫られていました。
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本町市之助墓…『建設当初から支配人として現地に駐在していた功労者で文久元年6月死亡した。』
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下って鳥居方面に戻ります。
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長屋跡。
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排水溝跡。
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種焼場跡。
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水路跡。
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大門跡。
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鐵ができるまで…≪採掘≫鉄鉱石の採掘場は高炉場の南約2.6kmにある「鉄槌」や「くさび」を使い露天掘りをする。➡≪運搬≫採掘場から急坂を人力で「コダス」に入れた鉄鉱石を下ろし、平坦になると「カマス」に入れ替え牛で運搬した。➡≪種砕き≫焼かれた鉱石を鉄鎚で3cmほどに砕く。➡≪運搬≫砕かれた鉱石を炉上部に運搬する。➡【≪投入≫木炭と鉄鉱石を炉に投入する。投入比は鉄1:木炭2。➡≪湯出し≫溶けた鉄を砂場に流し出す。➡≪炉塞ぎ≫湯(銑鉄)を出し切ったら、炉の湯口を黒い球で閉じる。】※【】内は連続操業30~50日間。➡≪冷却≫砂場に溜まった銑鉄を割って、冷めたら水池でさらに冷却する。➡≪計量≫御日払所にて重さを計量し、出荷される。橋野高炉の銑鉄は陸上輸送では笛吹峠を越え、遠野、花巻、盛岡方面へ、海上輸送では両石港に運ばれ、相馬や那珂湊、江戸などに輸送された。
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高炉のしくみ…橋野高炉は、大橋高炉の出銑鉄成功の翌安政5(1858)年に盛岡藩営として、大島高任により、仮高炉が建設され、その後一番、二番高炉を増設、仮高炉も三番高炉として改修された。明治初期には銭座を併設するが、すぐに鋳銭禁止となり、その後は三番高炉のみでの生産で、明治27(1894)年まで稼働した。
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高炉の立面図(湯出し口側)。
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高炉の断面図。
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覆屋の間取り図。
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高炉の覆屋(湯出し側)…湯出し口から見た図。屋根は板葺きであった。
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高炉の覆屋(フイゴ側)…高炉上部の投入口の作業場まで鉄鉱石や木炭などを運ぶため「はしご」が取り付けられた。
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以下、Wikipediaより一部抜粋。
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「橋野高炉跡」…橋野高炉跡(はしのこうろあと)は、岩手県釜石市橋野町に所在する高炉跡。国の史跡に指定(1957年)されている。世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産となっている。登録名は「橋野鉄鉱山」。水戸藩の那珂湊反射炉に大砲用の銑鉄を供給するため南部藩によって建設された。【年表】1858年(安政5年) - 前年大橋において日本で初めて洋式高炉による出銑に成功した盛岡藩士大島高任が、6月に橋野で仮高炉の建設に着手し、半年後の12月より操業する。同年7月、徳川斉昭が大老の井伊直弼より謹慎を申しつけられ失脚。同時に水戸の反射炉も閉鎖されたことにより、最大の販路を失う。1859年(安政6年) - 4月より高炉が南部藩直営となる。1860年(安政7年) - 1番高炉と2番高炉の2座を建設、仮高炉を改修し3番高炉とした。1868年(明治元年) - 前年の栗林に続きこの年の6月、橋野にも銭座を開設し鋳銭を開始する。出資は小野権右衛門によるもので、高炉3基、人員約1,000人、牛150頭、馬50頭を使って年間出銑量は300,000貫(約1,125トン)を誇った。1869年(明治2年) - 政府により鋳銭禁止令が発布されるも橋野高炉では大規模な密造を継続。1871年(明治4年) - 密造が発覚し銭座は廃座、以後1番高炉及び2番高炉を操業停止。1894年(明治27年) - 釜石鉱山田中製鉄所に吸収される。栗橋分工場の操業開始とともに3番高炉も廃止。1955年(昭和30年) - この年から翌年にかけて岩手大学の森嘉兵衛、板橋源らによって発掘調査が行われる。1957年(昭和32年) - 国の史跡に指定。石碑「日本最古溶鉱炉記念碑」を建碑。2015年(平成27年) - 世界遺産に登録。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」の構成資産。【橋野鉄鉱山】橋野高炉へ鉄鉱石を供給していたのが橋野鉄鉱山である。高炉から南へ2.6kmの大峰山麓北西谷間に採掘坑跡があり、その間に断片的に運搬路跡も残る。高炉場の一番奥にゲートがあり、二股林道として道は続くが国有林のため立入禁止。さらに進むと鉱山所有者である日鉄鉱業のゲートもあり、その先は社有地(私有地)となる。運搬路は二股川(二又沢)沿いにあり、途中で分岐し西又沢の源流域付近に採掘場がある。採掘場は露天掘りの立坑で、小さなものはすり鉢状、大きなものはクレーター状を成す。すり鉢状採掘坑の周囲には土留め用の石垣が巡らされている。クレーター状採掘坑は後にズリ(鉱石以外の捨て石)を廃棄する投げ込み場に転用され、開口部の落ち際にはズリを運搬したトロッコ軌道の枕木が残る。昭和以降開削され大峰山直下を貫通横断する斜坑の出入口もあるが、コンクリートで封鎖されている。
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「橋野高炉跡及び関連施設(橋野鉄鉱山(採掘場と運搬路))」…橋野高炉跡から南へ2.6kmの大峰山麓北西谷間(標高900m)に鉄鉱石採掘場跡(青ノ木坑)がある。北緯39度19分15秒 東経141度40分30秒(釜石市橋野町第2地割46番)。鉱山周辺の餅鉄は古くから知られていたが本格的開発は江戸時代で、『遠野古事記』に「元禄の中頃、橋野鉄山運上願上鉄を為掘、鋳匠を呼抱置、鋳物を為鋳売申候(部分抜粋)」とあり、南部藩請負の小野組による。1873年(明治6年)に明治政府工部省により官営化。長らく露天掘りが行われ採掘場跡はクレーター状を成すが、高炉の廃止に伴い閉山。昭和初期に再開し青ノ木から大峰山直下を貫通横断する複数の坑道が開削、1982年(昭和57年)に閉山。鉱業権は日鉄鉱業の釜石鉱山の所有地になっており、安全上から採掘場は非公開だが、Googleマップのストリートビューで周囲を見ることができる。
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