岩手県北上市川岸1丁目。川岸は昭和42年から現在に至る町名ですが、その由来は北上川べりに位置しており、江戸期~明治前半期に北上川舟運の河岸として賑わった地域であることによると考えられます。
鳥居。
地図では諏訪神社と記されていますが、社殿・本殿を持たない社でした。
なお、由緒等についてはわかりませんでした。境内の碑の紀年銘からするとそこそこ歴史があるものと推測できますが、この碑自体が古よりここに存在していたものかどうかはわかりません。
以下は黒沢尻についてです。長いのでスルーしてください。
黒沢尻は北上盆地の中央部、北上川と支流和賀川合流点の両河川に挟まれた北西低地に位置。北辺の台地を除くと微高地と低湿地が多いところです。地名の由来は黒沢という川の尻にある地の意味とも考えられますが未詳。天喜・康平年間の前九年の役を記した「陸奥話記」に、黒沢尻五郎正任・黒沢尻柵が見え、「今昔物語」にも黒沢尻楯が見えます。地内には川辺に立地し多量の土器が出土した牡丹畑遺跡・九年橋遺跡などの縄文晩期の遺跡や、平安初期の開拓拠点と考えられている「方八丁」、安倍正任の拠った黒沢尻柵擬定地などがあります。
鎌倉期の黒沢尻は和賀郡のうち。鎌倉後期の和賀氏系図(鬼柳文書)に、和賀義行法名行蓮の娘岡田女子の所領として「新田郷并岳田郷 渭山郷 黒沢尻野馬」と見えます。下って天正19年(推定)9月25日、九戸陣で戦功のあった江刺兵庫頭(重恒)に対し、南部信直が「和賀内黒沢尻ニおゐて四百四十八石弐斗」などを宛行っています(宝翰類聚)。また、永禄元年和賀領検地目録(小田島家記録)には「二千八百七石 黒沢尻村」とあります。この間、南北朝末期の永徳2年7月17日には、北上地方の一揆契状が認められています。これは鬼柳伊賀守の子息五郎の所領に対して、黒沢尻氏が異議をはさんだ際には一揆同心して黒沢尻氏の口入を排除しようとするものでした。こうした一族間の争いが顕在化したものか、永享年間の和賀・稗貫動乱には「黒沢尻与云仁等、捨父祖之忠戦、忘年来厚恩、企反逆候」といいます(稗貫状)。なお、永享元年9月11日付で和賀美作守が阿部左京進に与えた安堵状があり、そこに「里分」の地名が見えますが同状には疑義があります(北上市史)。
江戸期の黒沢尻村は和賀郡のうち。盛岡藩領。但し、元禄7年~宝永4年には旗本南部主計が新田分291石余を知行。黒沢尻通に属します。万治元年町分と里分に分かれ、それぞれ肝入以下の村役人が設けられています。町場集落としての発達は慶長9年宿場として本町の創設、北上川舟運の発展にともなう河港の設置以降。村高は正保郷村帳573石余(田469石余・畑104石余)、貞享高辻帳674石余、享保14年には里分村795石余(うち川岸役高548石余・奥寺新田132石余)、給人は下川原嘉左衛門100石余・奥寺和喜弥14石余、町分村915石余(うち川岸役高637石余・奥寺新田134石余)、給人は太田五郎左衛門100石・小野寺惣左衛門41石余、邦内郷村志1,711石余(うち給地265石余)、天保郷帳1,211石余、弘化2年検地帳2,291石余(田2,004石余・畑287石余)、安政高辻帳971石余、旧高旧領では黒沢尻村町分1,318石余・黒沢尻村里分1,035石余。仮名付帳では枝郷として新町・本町が見えます。邦内郷村志によりますと家数は黒沢尻本町146・同新町110、同里分村216、里分村の集落別内訳は里分30・川岸156・本宮8・犬曲5・蒲谷地4・在家2・和野1・古城場3・北畑7、同町分村67、町分村の集落別内訳は町分26・屋敷2・明戸3・川岸3・孫屋敷6・大明神2・荒田10・下曽山9・前蒲谷地6、馬292、町内に税官所、北上川河岸に通船改判所が見えます。本枝村付並位付によりますと位付は町分・里分ともに上の上、町分の家数361、その集落別内訳は本町171・新町108・元町41、枝村屋敷2・同明戸3・同孫屋敷9・同大明神2・同橋本1・同荒田9・同曽山7・同前蒲谷地8、他に代官所仮屋があり、里分の家数233、その集落別内訳は本村19、枝村川岸153・同仏照14・同本宮13・同大曲5・同蒲谷地7・同在家3・同和野2・同古城場3・同北畑4、他に物留番所が下河岸に見えます。奥州街道筋に位置し、宿駅としての町場を中心に、北上川舟運の河岸集落と周辺の集落からなります。町場(本町)は慶長9年奥州街道の整備に伴い路線が切替えられた新街道筋に原野を開き屋敷割を行い、近郷から70余戸が移住して創設。貞享2年奥寺新田開発による戸口の増加と市日開設のため、奥寺氏によって44戸からなる新田町(新町)が本町に隣接して創設され、街道筋の町場の拡大をみました。本町・新町にはそれぞれ検断職が置かれ、常備の伝馬10疋と歩行夫10人は両町が交互に負担。本町には本陣や鬼柳通・黒沢尻通代官所が置かれていました。北上川岸には、江戸廻米に重きをなした盛岡~石巻間の中継港では最大の河岸集落が形成され、150余軒の民戸のほか、蔵・艜奉行所、藩蔵・造船所・通船改番所などの諸施設が置かれていました。舟運による物資の交易も盛んで米・大豆・紅花などを移出し、日用雑貨類が移入。河岸には2軒の舟運問屋があり、町場には井筒屋・田島屋・近江屋・大黒屋ほか数軒の商家が商取引に従事していました。村方の用水は西方から流入する黒沢川・広瀬川・柳原堰・丹波堰・三月田堰などによって確保されていましたが、北方地域では隣村藤沢村にある別行沢堤・長兵衛堤・喜助堤のほか、同村内の蒲谷地堤・姥ケ沢堤・五郎助堤・常居堤・平吉堤・長兵衛堤などが用いられていました。当村が関係した百姓一揆は何度かありましたが、寛保2年の畑返し反対一揆では、川岸の伊助と中野の長助らが指導者として処刑されています。主要道路は奥州街道をはじめとして、近村から川岸御蔵に収納される年貢道で秋田藩横手方面への主要道でもある仙北街道、稗貫郡太田村にある清水観音への参詣道であった清水街道のほか、北上川を渡り土沢町に通じる土沢街道がありました。渡船場は奥州街道和賀川渡し、土沢街道の北上川上川岸渡しのほか、岩谷堂に通じる北上川下川岸渡しがありました。鎮守は諏訪神社ではじめ本宮にあったものを和野に遷宮。そのほか天満宮・雷神社・若宮八幡宮などが見えます。寺院は曹洞宗染黒寺・妙桃寺、浄土宗称名院、真宗大谷派西念寺。伊勢屋朝吉は川岸の出身で舟運に携わり、後に盛岡藩御用商人となり箱館の外国貿易商人の1人として活躍。相撲行司8代目式守伊之助は天保13年本町の生まれ。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年東和賀郡に属します。同年本町に東和賀郡役所が置かれましたが、翌年花巻の稗貫郡役所に併合。明治6年里分に黒沢尻学校が創立し、のち3回の移転を経て同9年本町に黒沢尻小学校として新築。同20年本町の校舎とは別に諏訪神社北側裏の和野の地に和賀高等小学校が新設。明治11年の里分の幅員は東西17町・南北26町、税地は田105町余・畑164町余・宅地22町余など計304町余、戸数352・人口1,496(男746・女750)、馬33、舟130(荷船113・漁船17)、職業別戸数は農業336・工業4・商業5・雑業1・神官3・僧侶3、物産は鮭・鱒・米・粟・稗・麦・大豆・蘿菔、寺院2(西念寺・染黒寺)、神社8(諏訪神社・大神宮・天満宮・八幡宮・八幡宮・稲荷神社・住吉神社・山祇神社)、地味は全村黒土で南西部は水害を受けますが上位に属し他は中位。町分の幅員は東西15町・南北20町、税地は田171町余・畑59町余・宅地22町余など計262町余、戸数455・人口2,147(男1,079・女1,068)、馬72、舟4(荷船3・漁船1)、公立小学黒沢尻学校の生徒383(男196・女187)、神社5(雷神社・稲荷神社・大神宮・稲荷神社・御前社)、寺院1(妙桃庵)、他に会所1(第10大区1番扱所)、警察1(第四出張所)、郵便局1(5等郵便局)、物産は鶏・鮎・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・蘿菔・藍、地味は全村黒土で字上野蒲谷地は旱魃に苦しみ、字石田・上川原は水損の憂がありますがともに中位に属します。明治22年黒沢尻町の大字町分・里分となります。はじめ東和賀郡、明治30年からは和賀郡に所属。明治23年の戸数780・人口4,624。世帯数・人口は大正9年1,391・7,004、昭和10年1,791・9,777、同25年3,148・1万6,140。明治31年地内に和賀郡役所が設置され同郡の行政上の中心地となります。明治23年日本鉄道開通により黒沢尻駅開業し北上川舟運は急速に衰微。明治後期の西和賀一帯の銅・鉄鉱山開発の隆盛によって同地域との交通運輸が活発となり、町の経済発展に多大な影響を及ぼしています。明治20年前後に全通した秋田県横手町と黒沢尻町を結ぶ平和街道が重きをなしたほか、同40年和賀軽便軌道による黒沢尻~和賀仙人間の馬車鉄道が開通、大正13年国鉄横黒線が開通するまで、鉱産物ほかの物資輸送が行われました。道路は従前からの幹線国道のほか、大正7年土沢街道、同13年口内街道、昭和6年岩谷堂街道がそれぞれ開通し、当町は四方に延びる交通の要衝としての地の利を得、近郷地域経済活動の中心地として発展。これら諸道の開通によって新穀町・若宮町・花屋町・青柳町などの新しい町並が形成されました。馬市は町の経済に大きな影響を与えたものの1つで、組合組織などによる取引は明治年間からありましたが、大正5年和賀郡産馬畜産組合が設立されてから本格化し、我が国有数の馬市として名をはせました。昭和9年黒沢尻駅貨車積出頭数は3,400余頭。大正元年黒沢尻銀行開設。同年黒沢尻電気創業。同15年平和自動車商会によりバス運行などがみられました。昭和14年には戦前唯一の大型工場として国産軽銀工業が設立され、軍需工場としてアルミニウムを生産。病院は明治37年和賀病院、昭和3年黒沢病院が創立。学校は明治32年従来からの尋常小学校と高等小学校を合併して黒沢尻尋常高等小学校創立。大正8年黒沢尻実科女学校、同13年県立黒沢尻中学校、昭和14年県立黒沢尻工業学校がそれぞれ創立。職業別専業・兼業戸数は昭和11年の農業42・1,052、鉱業6・16、工業238・409、商業309・402、交通業95・101、公務自由業140・93、その他89・192。同28年の農業272・525、鉱業9・3、工業424・245、商業506・150、交通業57・91、公務自由業637・343、その他353・117。昭和24年立花村立花を編入、同29年1月立花村を合併。4大字を加え6大字となります。昭和29年4月北上市黒沢尻町となり町制時の6大字は同町の字に継承。町分・里分・立花・平沢・湯沢・黒岩の6字があります。昭和41~56年市街地に住居表示等がなされ、新穀町1~2丁目・本石町1~2丁目・柳原町1~2丁目・鍛冶町1~3丁目・有田町・青柳町1~2丁目・幸町・諏訪町1~2丁目・花園町1~3丁目・上野町1~5丁目・中野町1丁目・川岸2~5丁目・若宮町1~2丁目・本通り1~4丁目・大通り1~4丁目・九年橋1~3丁目・常盤台1~3丁目・芳町・大曲町が起立。
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