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岩手県北上市和賀町藤根17地割。最寄りは藤根駅です。鳥居紀年銘(昭和54年11月8日建立)
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野中農村公園。
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農村感はないですけど。
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藤棚。
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藤根は北上盆地のほぼ中央西部、和賀川中流左岸の金ケ崎段丘面上にあり、後藤野扇状地の扇央部に位置。北西部がやや高く、南東部に緩やかに傾斜する平坦地。北西部を上堰・下堰、中央部を猿田堰(松岡堰)が流れ、用水堰が整備される以前は高屋堤・荒屋敷堤・次郎右衛門堤など多数の溜池がありました。また、長清水や稲葉スズなど豊富な湧水(スズ)地帯でもあります。地名の由来は和賀・稗貫・紫波三郡三十三観音28番藤根寺観音堂に左巻の藤の老株があり、開花時に近隣から賞でに集まったことに因むと伝えます。地内に縄文晩期の北藤根遺跡や藤根八幡館などがあります。鎮守稲葉神社はもと阿弥陀堂で中世以前の創建と伝えますが不詳。当地の草分けについては「藤根七軒、長沼三軒」と伝承されています。
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戦国期の藤根村は和賀郡のうち。永禄元年和賀領検地目録(小田島家記録)に「千二百八石 藤根村」と見えます。天正年間には藤根五郎坊吉隆なる人物がおり藤根を根拠地にしていました。また、天正9年の和賀氏分限録には、藤根東作が知行高30石の和賀氏家臣として載せられています。他に長沼宗景の子景長の舅に藤根修理亮がいますが、この3人の藤根氏の関係については不明。このうち藤根吉隆の子吉重は、天正18年の和賀氏没落の後、南部利直に150石の知行高をもって召し抱えられています。また、他の藤根氏一門は、慶長5年の花巻城攻撃に参加しています。戦国期における藤根は藤根氏の一円所領ではなく、長沼宗景が和賀氏の家臣として召し抱えられた時に、竪川目・長沼などの他に藤根村の小屋敷を拝領しています。しかしながら前述のように宗景の子景長に藤根修理亮の娘が嫁しているのは、藤根氏の一族が擬制的な血族結合の下で支配を一円的に行っていたことを示し、長沼氏もそれに加わざるをえなかったのではないかと推測。藤根氏の居館については不詳ですが、観音堂(藤根寺)付近の地を堀の内と称しています。また、この観音堂は境内に藤の大木があり、これが藤根の呼称のもととなったとも伝えられています。この堂の開基が和賀氏治世の初めと伝えられていることを信じるならば、藤根という呼称はあるいはもう少し溯るかもしれません。観音堂の北東には稲葉神社が鎮座。同社は寛永10年に焼失した阿弥陀堂の跡に建立されました。同阿弥陀堂には寛徳元年阿弥陀如来像が飛来して大杉にやどったという伝えがあります。また、この堂には開竜山道光院の扁額があり、長久4年開基と伝えます。阿弥陀堂の東方200mの地には源義家の館と伝える八幡館がありますが遺構は不明。
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江戸期の藤根村も和賀郡のうち。盛岡藩領。但し、元禄7年~宝永4年には旗本南部主計が新田分680石余を知行。黒沢尻通に属します。近世初期当村に知行地を持つ給人は慶長15年藤根右近101石余。村高は正保郷村帳235石余、貞享高辻帳276石余、邦内郷村志2,092石余(うち給地767石余)、天保郷帳1,582石余、安政高辻帳1,269石余、旧高旧領2,379石余。仮名付帳では当村の枝村として後藤村が見えます。当村の知行主である松岡八左衛門により明暦・寛文年間に猿田堰、奥寺八左衛門により寛文・延宝年間に上堰・下堰が開削され村高が増大したといいます。享保検地記録によりますと当村に知行地を持つ給人は松岡八左衛門200石・出石源兵衛107石余・沖市郎右衛門100石余・神子田六右衛門99石余など16氏。なお、この時の奥寺氏の取立新田は667石余。邦内郷村志によりますと家数171で、うち藤根44・荒屋16・ヘラ16・鍋倉17・稲葉19・曲屋敷16・鍛冶屋敷12・長清水31、馬数256、他に観音堂・阿弥陀堂が見えます。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数188、集落別内訳は本村44・荒屋20・小へら21・鍋倉17・稲葉19・曲屋敷16・鍛冶屋敷12・長清水39。天保8年御蔵給所惣高書上帳では御蔵高1,331石余(うち不仕付高18石余)・給所高785石余。弘化2年の家数158。農耕にも利用しながら馬産が行われていました。湧水地帯を中心に肥沃地は比較的早くから田作が行われましたが痩地で畑も多くあります。畑返し、奥寺新田の本田並み課税反対など百姓一揆がかなり頻発しており延享元年には当村の四郎右衛門など5人が討首・獄門となっています。また、寛保3年の知行新田開発反対陳情書は当村から8通出されています。東部を南北に岩崎街道(新平~下江釣子)、中央部を南北に後藤街道(後藤~長沼)、西部を北東から南西に瀬畑街道(笹間~竪川目)が通っています。寺社としては観音堂・阿弥陀堂・水波神社・雲南権現・三峰神社などが見えます。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年東和賀郡に属します。明治6年稲葉に藤根学校が開校、同20年長沼学校と合併し藤根尋常小学校と改称。明治14年平和街道(秋田県平鹿郡~岩手県和賀郡)開通。明治11年の村の幅員は東西1里7町・南北25町、税地は田306町余・畑184町余・宅地28町余・鍬下31町余など計556町余、戸数174・人口1,184(男608・女576)、馬199、神社2、公立小学藤根学校の生徒数211(男102・女109)、職業別戸数は農業171、物産は馬・鶏・雉子・兎・米・大豆・小豆・小麦・粟・稗・蕎麦・蘿菔・梨子・梅子・麻布・藍など。同22年藤根村の大字となります。はじめ東和賀郡、明治30年からは和賀郡に所属。藤根・長沼・後藤の3ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を編成。村役場は藤根字稲葉に置かれました。戸数・人口は明治22年288・2,294、大正6年320・2,640、昭和30年の世帯数743・人口4,738。明治40年和賀軽便鉄道(和賀仙人~黒沢尻間)が開通するも大正10年廃止。同年国鉄横黒線(北上線)が開通し藤根駅が開設、同13年横黒線全通(横手~黒沢尻間)。大正15年~昭和11年和賀中央耕地整理組合による用水堰改修開田事業実施。昭和9年西山鉱山鉱毒事件が起こっています。同13年地内後藤野が陸軍飛行場として献納され、翌14年竣工、昭和20年米軍機の空襲をうけます。第二次大戦後後藤野の開墾が始まります。生業は農業が中心で稲作・畜産を主体としましたが、戦前までは黒沢尻町在住の大地主所有地が目立ちました。国道107号沿線の野中地区では市街地が形成され商業が営まれます。また、昭和24年には岩手木炭製鉄(岩手製鉄)が創設。同30年藤根の一部を江釣子村へ編入。同年和賀村の一部となり3大字は同村の大字に継承。はじめ藤根村、昭和30年和賀村、同31年和賀町、平成3年からは北上市の大字、和賀町を冠称。明治22年の戸数183・人口1,400、昭和55年の世帯数567・人口2,318(男1,082・女1,236)。明治40年藤根尋常小学校に高等科を併置し藤根尋常高等小学校と改称、大正11年の児童数247、昭和16年藤根国民学校(高等科を含む児童数561)、同22年藤根小学校(児童数414)と改称。昭和22年藤根中学校創立(生徒数196)、同48年岩崎第一中学校と統合されて長沼に東中学校が置かれました。南部に明治40年和賀軽便鉄道、大正10年横黒線が開通して同年藤根駅が開業。農業は米を基幹作物としてキュウリ・ピーマンなどの蔬菜類栽培や畜産が行われていますが、第1種・第2種の兼業率が92.5%と高くなっています。昭和30年に一部が江釣子村に編入。国道107号沿いの野中地区で市街地を形成。民俗芸能では道地ひな子剣舞(町無形民俗文化財)などがあります。
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社殿。
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手水舎(贈、藤根商店会)
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拝殿内。由緒等についてはわかりませんでした。
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野中発祥百年碑(岩手県知事千田正)
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その他の碑。
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観世音(昭和33年旧7月17日)
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観世音(昭和12年旧4月8日)
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こちらは絶妙に読めない…
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紀年銘は明治21年旧9月。
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願主は41歳の医師。折居真橘?最後の漢字がちょっと見えにくいです。
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