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青森県三戸郡三戸町蛇沼荒田。鎮座地はカラクリ人形の里(荒田バッタリ村)です。
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鳥居脇の石碑。「荒田村」とだけ読み取れました。
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鳥居は平成30年6月26日建立。「三神社責任者長岡慶治」とありました。
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石殿が4基あります。内2基は完全に不明。
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5.5
こちらは青面金剛像庚申塔。
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紀年銘等わからず。
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三猿付。
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こちらは…
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う~ん…
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木で造られているものは十二支かな…
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そして石殿一基と…
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中には安置されているものは可愛い洋服によって不明。
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参道!と思ったのですが上には特に何もありませんでした。見逃したかな。
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蛇沼は猿辺川の支流小猿辺川流域の山間地に位置。蛇沼館は蛇沼集落の南方約60m、小猿辺川とその支流の合流点に西から東へ突き出た尾根の先端を利用したもの。北方は比高約20mの断崖で小猿辺川に臨み、南方は道路が館のすそを西から東へ通じ、その南側を小川が東流して小猿辺川に合流。広さは東西約200m・南北約50m。南部光行が鎌倉初期に入部した時、田子の豪士相米弥左衛門とともに光行を歓迎し協力した蛇沼惣左衛門の館跡といいます。館跡には蛇沼氏の墓地もあります。萩鶴場遺跡からは縄文後期・晩期の土器片が出土。町通史収録の三戸の伝説と民話によりますと『昔、沼のほとりに大蛇が横たわって道行く人を困らせていた。この地に住む豪族千葉左衛門政義が袴田方面へ出かける途中、沼のほとりを通ると、村人たちの噂どおり行手に大きな蛇が道をふさいでいる。政義は「去れ、去れ」と声高く叫んだが、蛇は動かばこし。腹を立てた政義は刀を抜いて蛇の頭めがけて切りつけた。不思議にも切られた首は地に落ちないで宙を飛び、二キロも離れた森の中に落ちたという。この森を蛇森と呼び、沼は蛇沼と言った。いま、蛇沼は地名として残っている。』と紹介されています。
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江戸期以降の蛇沼村は三戸郡のうち。盛岡藩領。三戸通に属します。村高は邦内郷村志230石余(うち給地204石余)、旧高旧領206石余。なお、正保郷村帳・貞享高辻帳・天保郷帳・天保8年御蔵給所書上帳・安政高辻帳には村名が見えず、仮名付帳には貝森村の枝村として記されています。邦内郷村志では家数90、集落別内訳は蛇沼村19・飯田村4・葛子15・下川原10・荒田8・専足4・清左久保6・大平9・中山3・上中山3・下横沢3・上横沢5・山井沢1、馬数198。本枝村付並位付によりますと位付は下の中、家数91、集落別内訳は本村21・下河原12・葛子比良17・新井田4・大平6・中山4・荒田7・清三久保7・千俵山3・横沢7・滝沢3。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県所属。明治初年の家数は本村16・新井田6・米内2・太平11・葛子平21・中山3・下川原17・清左久保12・荒田10・千俵山5・横沢12、耕地は畑勝ち。明治12年の共武政表によりますと戸数は本村26・葛子平23・下川原21、人口は本村131(男67・女64)・葛子平109(男57・女52)・下川原103(男53・女50)。学校は本村1、牛は本村6・下川原2、馬は本村44・葛子平13・下川原28、物産はともに米・麦・雑穀・麻糸・蔬菜。明治9年蛇沼小学発足し、同12年の教員数1、生徒数14、うち男12・女2。同22年猿辺村の大字となります。昭和30年からは三戸町の大字。明治24年の戸数120・人口696、学校1、水車7。山間の農村ですが、葉煙草・米作などを主とし、高級メロンの栽培も行われているそうです。明治9年発足した蛇沼小学は昭和22年猿辺中学校蛇沼分校を併設。同25年分校廃止、本校へ移転。
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ってことで戻ってきました。
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こちらは荒田橋付近にあった石塔です。
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こちらは墓碑ですかね。久岳禅定門かな…紀年銘は天保10年かな…読み取りにくい状態です。
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その他も読み取りにくい状態。
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