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岩手県北上市鬼柳町満屋。鹿島神社。本郷川沿い。近くには鹿島館跡(鬼柳城跡)や伝法山正覚寺があります。
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鬼柳町で観られる鳥。
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きたかみ景観資産(北上市認定№57)鹿島神社宮殿
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鹿島神社宮殿(岩手県指定有形文化財・昭和41年3月8日指定)…『福士氏の居城であった不來方城即ち盛岡城の愛宕宮として今の盛岡グランドホテルの地に番匠(京都御所に勤番した棟梁)長右エ門が永禄元年(1558)9月15日に建てたものです。盛岡地方が南部氏の領となって後寛永15年に南部重信が愛宕社を改建するに当って古い社殿を和賀郡鬼柳村の八幡社へ下付されました。鬼柳村では元禄8年(1695)に八幡宮社殿を改建することになり旧殿を同村内鹿島神社に移し宮殿としました。木造杮葺(こけらぶき)まわり高欗朱塗擬宝珠を付け木質は杉と桧で﨔が少し使われており黒と朱だけの彩色室町末期の作風を残しています。(※間口・奥行・高さは読み取れず)昭和50年3月吉日、管理者三田誠一』
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鹿島神社宮殿(平成20年10月鬼柳町自治振興協議会)…『桃山様式の権現造りの宮殿で、足利建築の様式を残し県内のこの種の建造物として貴重なものである。南部氏が盛岡に来る以前の建物で、足利末期のこの地方の文化を知る資料である。福士氏の居城であった不来方城即ち盛岡城の愛宕宮として、いまの盛岡グランドホテルの地に番匠(京都御所に勤番した棟梁)長右エ門が永徳元年(1559)9月15日に建てたものです。盛岡地方が南部氏の領となって寛永18年(1641)に南部氏二十八代重直公が鬼柳の八幡宮宝殿として賜ったものである。ところが元禄8年(1695)鬼柳の八幡宮も大きく新築することとなり、今度は三田十右エ門の祭っている鹿島館へ下げることにした。ところが館は人里から離れ冬はお詣もできず、文化5年(1808)三田氏宅地内に移し毎日祀れるようにした。平泉の建物外で岩手県としては古い建物で、昭和41年岩手県第一号の県指定文化財になっている。木造杮葺まわり木質は杉と桧で欅が使われており黒と朱だけの彩色で室町末期の作風を残している貴重な文化財である。』
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鬼柳は北上盆地の中央部、北上川支流和賀川の下流右岸に位置し、大半は和賀川河岸段丘下の沖積低地に立地しますが一部は和賀川左岸にも及びます。地名の由来は和賀川べりに楊柳や荻が密生していることから荻柳と称され、それが鬼柳に転じたとする説や、老柳あるいは淵柳の転じたものなどの説もあります(鬼柳村誌より)。南辺の和賀川河岸段丘沿いには縄文時代各期、平安期の集落跡が分布。
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鎌倉期の鬼柳は和賀郡のうち。「鬼柳文書」で著名な鬼柳氏の本拠地。嘉元2年4月24日の関東裁許状案によりますと、永仁5年夜討によって殺害された和賀氏庶流で鬼柳氏初代光義の遺領「陸奥国和賀郡鬼柳村」をめぐる相論のあったことが知られています。光義は所領の処分をしないままに非業の最期を遂げました。光義には4男がありましたが、末子鶴松丸と母は光義と同時に死亡、その後、嫡子光景と三男家行が光義の譲状ありと号して分領してしまったため次男憲義の訴えるところとなりました。幕府の裁決は「於光義跡者、憲義之外無得分親歟、然則至件村々者、可令憲義領掌」として憲義の勝訴。その4年後の徳治3年には「一分庶子鬼柳左衛門四郎憲義」は右大将家恒例御月忌用途の未進を惣領和賀弥二郎盛義に訴えられています。その後、建武2年5月13日「和賀左衛門四郎教義」が北畠顕家より、和賀郡新堰村を勲功賞として宛行われています。この教義は憲義のことと推測されます。鬼柳憲義は石塔義元下知状によりますと、暦応3年足利方に変節しています。貞和4年「和賀郡鬼柳郷」について再び一族間の相論がありました。今度は光景の孫盛胤が憲義の子義綱を訴えましたが、やはり義綱の領掌を認める裁決がされています。なお、義綱陳状では「鬼柳郷内所構楯代三田糠山、同郷鰭(鳩)岡崎」とあり、当時鬼柳郷とは江釣子村鳩岡崎の一部をも含む広大な地であったことが伺えます。鬼柳義綱は足利方として活動し、観応・文和年間には和賀郡三戸部村・新堰村・下藤村・湯川尻田在家などを給され、また、常陸介に叙せられています。南北朝末期の永徳2年7月17日には鬼柳伊賀守の所領について「もしくろさわしり殿いきをおほせられ候はは、おほやけもわたくしニ□□て候、鬼柳殿(伊賀守子息五郎)を一き同心候て見付候へく候」と北上地方の一揆契状が作成されています。下って文明7年9月7日、昆弾正が「鬼柳之内拾七貫文」を「岩崎城家老左京大夫」から宛行われています。北上市鬼柳町地内には鬼柳氏が拠ったとされる丸子館跡・鹿島館跡や、白鬚館跡・都鳥館跡・柳上館跡などがあります。下鬼柳笊淵の丸子館跡は和賀川河岸の段丘上。東西280m・南北220m。独立状台地の主郭を中心に3郭より成り、主郭は平野部に面して帯状の腰郭をめぐらします。後背に空濠がめぐらされていましたが現在は国道によって分断されています。竪穴式住居址や掘立柱の建物跡が検出。戦国期には東方1kmの鹿島館が鬼柳氏の居館となったといいます。鹿島館は満田坂の上の和賀川右岸段丘崖沿い。東西450m・南北200m、比高20mの大規模なものです。空濠跡や建物跡が数多く発見。貞和4年の文書に「鬼柳郷内所構楯代三田糠山」と見える三田が満田であるとするならばこの楯とは鹿島館の前身と推測。天正20年「諸城破却書上」に「鬼柳 平城破却 南部主馬持分 代官鬼柳源四郎」とある鬼柳城とは鹿島館。なお、江戸期には南鬼柳村(上鬼柳村・下鬼柳村)・北鬼柳村があり、中世鬼柳村(郷)は北上市鬼柳町から同北鬼柳・鳩岡崎などを含むかなり広域にまたがる地名であったと推測されます。
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明治22年、鬼柳村ははじめ東和賀郡、明治30年からは和賀郡に所属。上鬼柳村・下鬼柳村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。役場を下鬼柳字鬼柳町の阿部平蔵宅に設置。明治25年の戸数25・人口1,981。大正9年の世帯数316・人口2,108。同11年の反別は田280町余・畑213町余・山林48町余・原野179町余などで、職業別戸数は農業310・商業9・工業21。産物は米・麦・大豆・稗・繭など。馬数125・牛数18。小学校は明治23年隣村相去村と共立の相柳尋常小学校を分離して鬼柳町に新校舎を建て、同25年には鬼柳町・上鬼柳・下鬼柳の各尋常小学校が3校設置されていました。同39年3校を統合した鬼柳尋常小学校が下鬼柳23地割地内に新築されます。更に昭和3年新築、同14年火災により再築。当村は北上川と和賀川の合流地域に位置するため洪水の常襲地帯であり、大正2年には全戸の半数が床上浸水するという大被害を被ったために、同3年和賀川右岸に長さ2,607間の堤防を築いています。昭和10年の人口2,353、同25年の世帯数482・人口3,062。昭和22年のカスリーン台風、同23年のアイオン台風による洪水でも大被害を受けています。昭和29年北上市の一部となり村制時の2大字は同市鬼柳町となります。世帯数・人口は昭和40年592・2,907、同55年909・3,609。昭和36年鬼柳中学校と相去中学校を統合して南中学校とし相去町に校舎新築。同40年市食肉処理場竣工。同49年国道4号北上バイパスが全通し旧奥州街道筋の国道4号は県道となっています。同51年鬼柳小学校・相去小学校・相去第二小学校を統合して南小学校とし相去町に校舎新築。
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残念ながら建物内を見ることはできませんでした。ネット等でご覧になってください。
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鹿島神社宮殿 (県指定有形文化財・昭和41年)…『桁行74.2cm、梁間66.6m、高さ199.9m。桃山様式権現造の建造物で、室町期の様式も多分にみられ、本県におけるこの種の建造物として貴重な存在である。南部氏が盛岡に来る以前の建造として、室町末期における盛岡の文化を知る唯一の資料である。1697年(元禄10年)の棟札の裏銘によると、1558年(永禄元年)長右エ門が盛岡市愛宕山の神社として建造したもので、1641年(寛永18年)南部重直(陸奥盛岡藩第二代藩主)が、鬼柳村八幡宮に賜り、ついで、鹿島大明神の社殿に替わり、その際修理したとある。また、別の棟札により、1808年(文化5年)に鹿島館から現地に移したことが明らかである。』
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石灯籠一対(昭和46年7月11日、鈴木トシ子・三田栄次郎・鈴木重雄・三田由美・三田栄・高橋長一・三田多助・三田二助・三田幸男・三田三郎・佐藤清治・三田正蔵)
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