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岩手県和賀郡西和賀町沢内前郷3地割。前郷は和賀川上流右岸、奥羽山脈の山間に開けた南北に細長い沢内盆地の中部に位置し、西方に真昼岳・女神山等が連なります。真昼岳に源を発した本内川が南を東流して東端を南流する和賀川に合流。下の沢に真昼温泉が湧いています。年間降水量が2,500mm前後と非常に多く、平均積雪は2メートルを超える豪雪地帯。地内から縄文中期と推定される硬玉大珠が発見されています。和賀川の河岸段丘に堀田館があったと伝えるも詳細は不明。村社坂本神社は沢内開闢伝説の四社明神の1つ。江戸期の前郷村は和賀郡のうち。盛岡藩領。沢内通に属します。沢内六ヵ村の1つ。中世末から近世初頭にかけて和賀一族須々孫氏から分かれた太田氏が当地を領有、太田民部少輔義勝は盛岡藩主南部信直に出仕、太田に住して800石を知行。義勝の嫡男久義は慶長18年南部利直に仕え500石を知行、その弟義房は300石を知行。なお、太田氏は寛文4年義政が早世して知行没収、同氏の知行地は藩直轄地となります。沢内通ははじめ雫石通代官の管轄下、後の寛文12年に沢内通専任の代官が任命されました。なお、代官が任地で職務をとったかどうかは不明であり、天和2年新町村に置かれた代官所にはじめて代官が着任したといいます。村高は邦内郷村志357石余(うち給地29石余)、旧高旧領353石余。なお、正保郷村帳・貞享高辻帳・天保郷帳・安政高辻帳には村名が見えず、これらの幕府へ届け出た郷帳では沢内村の内に含まれていたと考えられます。邦内郷村志・管轄地誌によりますと、元は新町村及び大野村と一村をなしていたといいます。江戸前期から中期にかけて新田開発が行われて村高が増加。邦内郷村志によりますと当村の家数が記されておらず、太田村の項に当村内集落である下之沢などが記されています。本枝村付並位付によりますと位付は中の中、家数37、集落別内訳は前郷7・下幅8・坂本7・片倉3・下野沢18。天保8年の御蔵給所惣高書上帳では御蔵高327石余(うち古荒川欠9石余)・給所高25石余。米作が中心でしたが山間の高冷地であるために冷害になりやすく、当地域は元禄年間から明治期までの約180年間に不作以上の減作が53回もあり、うち凶作・大凶作(飢饉)が45回ありました。「村づくし」により各集落ごとの特産物・名勝及び旧家名を見ますと、前郷はたにし・市蔵家、下幅は胡頽子・吉郎兵衛家、坂本は蝦夷松・市兵衛家、片倉の旧家は甚助家、下之沢の旧家は源助家。往還は盛岡城下から山伏峠・太田を経て新町・越中畑・白木峠に至る山形街道が東部を南北に通ります。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年西和賀郡に属します。明治10年の村の幅員は東西1里3町・南北1里2町、税地は田52町余・畑26町余・宅地5町余・荒地4町余など計91町余、戸数40・人口252(男140・女112)、馬48、神社1、職業別戸数は農業39、物産は馬・鶏・鮴・鱒・米・大豆・小豆・麦・粟・蕎麦・稗・粒荏・藍・蘿菔・大角豆・百合根・牛房・芋・紫蕨・蕗・茸・煙草・生糸・真綿・麻糸など。同13年入下ケ沢に牛用牧場(73町余)ができます。同22年沢内村の大字となります。世帯数・人口は昭和10年60・489、同31年88・625。農業は稲作を中心として畜産・養蚕などを行っていましたが、気候条件を生かした蔬菜類やイチゴ・リンドウの栽培が積極的に導入されてきました。昭和42年下之沢探鉱ボーリングで温泉湧出、後に生活改善センター(真昼温泉)として利用されるようになります。坂本神楽は村無形民俗文化財。
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手水石。
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参道。
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馬頭観世音等。
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社殿前境内。
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神楽殿。例祭日の8月3日、坂本神社祭典・前郷夏祭りでは坂本神楽の奉納(坂本神楽団)・盆踊り・夜店で大変賑わうそうです。坂本神楽は山伏系神楽で安政6年に神職の高橋右内が和賀郡藤根の神楽師善助を招いて習得したもので、36演目の神楽のうち、坂本・藤根・岩崎にそれぞれ12演目ずつが伝えられたといいます。
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社殿。
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御祭神は宇迦魂命。
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例祭日8月3日。
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由緒…『人皇第八十二大後鳥羽天皇の代、建久9年(1198)陸奥の国和賀郡沢内村の庄、万治ヶ沢・幸治ヶ岩谷に住む化け物が現れ民を害す。人民を喰い尽くし太田村に女一人が残る。その時六尺余りの大男現れ七匹の犬と共に化け物を退治する。実はこの四人の男、人間でなく、諏訪・住吉・加茂・春日の大明神化身にて狩人姿にて現れ化け物を退治、四社の明神となり、化け物の首は坂本、胴は湯田、手は川尻、足は野々宿の四カ所に宮居を建て、その下にこれを埋め四社の明神という。千代万歳の末まで民の栄を守ってくださった。』
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本殿覆屋。
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川が流れています…用水路?
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