岩手県大船渡市末崎町峯岸。細浦漁港。
かつては海に浮かぶ島だったかのような雰囲気。船のせい!?
末崎は大船渡湾の西に位置し、東・南部は半島状に海に突出、その先端が碁石岬。海岸はリアス式で北面に細浦湾、南面に門之浜湾。北には飛定地山が聳え山麓が海岸までのびているため平地に乏しいところです。地内には遺跡が多くあり、縄文前期~中期の内田貝塚、縄文中期~晩期の細浦貝塚、縄文後期~晩期の鬼沢貝塚等があります。碁石浜には碁石の黒石のような、また大豆・小豆や胡麻のような石があります。葛西氏家臣武田丹後の居城という末崎城跡があります。末崎城は西館集落の西、門之浜湾の東岸突端部に位置しており、東西250m・南北500m、標高30mの山城。本丸跡は頂上部です。南北100m程の台地と東西100m程の台地が並びます。背後は崖で北・東・西は3段の土壇がめぐります。
江戸期の末崎村は気仙郡のうち。仙台藩領。村高は寛永検地61貫余(田26貫余・畑35貫余)、宝永2年改63貫余、元禄郷帳563石余、天保郷帳・旧高旧領ともに646石余。宝永2年の人数1,418。封内風土記によりますと家数289、神社は神明宮・八幡宮・牛頭天王社・熊野神社、寺院は梅天和尚開山の臨済宗瑞光山麟祥寺、他に弁財天堂があります。明治元年松本藩取締、以後江刺県、一関県、水沢県、磐井県、宮城県を経て同9年岩手県所属。同13年の村の幅員は東西約30町・南北約1里22町、税地は田31町余・畑184町余・宅地17町余の計234町余、戸数352・人数2,293(男1,146・女1,147)、馬265、舟191(商船14・漁船177)、小学校の生徒数は男子のみで末崎学校75・泊学校39、職業別戸数は農業215・工業59・商業28・雑業46。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。明治22年の面積640町余、戸数346・人口2,623。同25年の戸数382のうち200戸以上が漁業・採藻に従事し、特に鰹・鱈・赤魚の釣捕・鮪流し網漁など危険を冒し遠洋漁業に従事する者が多かったそうです。網は鰯網1把・タナゴ網5把・刺網約5反・鮪流し網約600反を所有。大正6年の戸数400・人口2,959(男1,539・女1,420)、田35町余・畑197町余・宅地23町余・山林480町余・原野69町余、学校数1、就学児童数534(男294・女240)。神社としては熊野神社、寺院は真言宗長源寺・臨済宗麟祥寺。職業別戸数は農業113・畜業22・工業36・漁業189・雑業40、家畜頭数馬175・豚10、漁船石油発動機船8・艀漁船73。三陸大津波の被害状況は明治29年人口2,965のうち死者606・負傷者30、戸数400のうち流出家屋191、波高は門之浜で8.9m、細浦で5mを記録。昭和8年人口3,936のうち死者27・行方不明者10、家屋流出103・全壊35・半壊24、波高は門之浜で8m、細浦で4.5mを記録。日中戦争・太平洋戦争戦死者数166。第二次大戦後の農地改革による開放予定面積12町7反余で、昭和27年買収済面積・売渡済面積ともに16町8反余。同27年大船渡市末崎町となります。昭和27年の世帯数906・人口5,431。同35年チリ地震津波では床上浸水90戸・床下浸水46戸、建物・土木施設・産業施設などの被害総額は9,667万6,000円。津波被害を防止するために昭和37年から湾口防波堤築造工事が行われましたが、これによって碁石岬のトンボロが消滅。
由緒等はわかりませんでしたが地元の漁師たちの信仰を集めているそうです。
東日本大震災による津波によって跡形もなく流されており、その後大阪の浪速学院から社殿の支援を受け、宮城県の黄金山神社より御分霊が奉斎されたそうです。この社殿は昭和29年に造られたもの。ちなみに黄金山神社の御祭神は金山毘古神・金山毘売神と八百万神で、それ以前は弁財天が祀られていました。よって御祭神は鎮座地的に弁財天かも知れません。とすれば上記の江戸期よりある弁財天堂なのかな。
社号標(平成26年7月吉日)より…『平成23年3月、東日本大震災により社殿流出。平成26年7月、社殿再興、宮城県黄金山神社より勧請』
狛犬一対(平成26年、(有)遠藤石材販売寄贈)
社殿。
石碑。きちんと見ていません。
社殿前からの風景。
近くの「ちぃぜる」というお店でランチを頂きました。小さいお店なのにメニューがとても豊富でかなり悩める!
ピリ辛の海老味噌ラーメン。
ナポリタンスパゲティセットとクリームソーダ。
どちらもとても美味しかったです。
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