岩手県宮古市。三陸復興国立公園・三陸ジオパークの中心に位置する浄土ヶ浜は宮古の代表的な景勝地。
宮古港海戦記念碑(衆議院議員鈴木善幸書)…『明治2年(1869)3月、函館にたてこもる、旧幕府軍追討のために、派遣された政府軍の艦船「甲鉄」以下8隻が、宮古港に碇泊していた。旧幕艦「回天」は25日早朝、旗艦「甲鉄」を奪うべく侵入し、砲火をあびせ壮烈な戦いをいどんだ。これに対し政府軍は艦載機銃をもって応戦。接舷、肉迫、激闘、約30分。両軍の死傷者、合わせて50余名におよんだ。この海戦は、1艦をもって8艦にあたった勇敢さとともに、わが国初の洋式海戦として、日本海戦史上、その名をとどめた。明治100年を記念してこれを建てる。』
やたら動く枝だなぁ~って思ったら大きな蛇でした。
過去の記事:『浄土ヶ浜 (岩手県宮古市)』
鋭くとがった白い流紋岩が林立し、一つひとつ違った表情を見せて海岸を彩ります。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはまさに一見の価値あり。
浄土ヶ浜の地名は、天和年間に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと伝えます。
有名なところなので説明はWikipediaから一部抜粋…『浄土ヶ浜は、岩手県宮古市にある海岸。国の名勝に指定されている。三陸復興国立公園に属し、三陸を代表する景勝地の1つである。【概要と地質】約5200万年前の古第三紀(地質時代上、白亜紀の次に位置する)に形成された浄土ヶ浜の岩石は、流理構造がないため、流紋岩と識別し、かつて石英粗面岩と言われていた。最近の石英粗面岩は流紋岩に統一され、二酸化ケイ素(SiO2)が70%以上と規定されている。100倍ルーペで見る限り、窪みと空隙に小さな水晶が密集している状態を観察する事ができ、かなり硬く軽いが欠けやすい特徴を持っている。ステンレスやガラスに傷がつくモース硬度7の個所のある軽石凝灰岩で、その生成は、海底に積もった火山灰が溶岩による隆起によって海面上に現れたと考えられている。岩上には、岩手県の「県の木」であるナンブアカマツをはじめとする常緑樹の群生が見られるが、1908年に国有林から鍬ヶ崎町有林になり、その後の合併により、現在は県と市の共同所有になっている。また、入り江を形成する岩塊の外海側には、太平洋の荒波の浸食を受けた、入り江側とは対照的な男性的ともいうべき景観が見られ、これらは、「剣の山(針の山)」「賽の河原」「血の池」等、同じ東北地方に位置する恐山の地名呼称と共通する名称で呼ばれている。【地名由来】海岸名の由来は、天和年間(1681年 - 1684年)に、曹洞宗に属する宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたとする説が、同海岸周辺を遊覧する観光船の案内放送等によって一般に広く知られている。1797年に盛岡藩主の南部利敬が領内巡視をした際、横山八幡宮・黒森神社と共に当地を訪れており、当時から風光明媚な場所として知られていた。また「浄土ヶ浜」(浄土浜)の地名は当時の藩の記録のほか、江戸時代中期の元文年間に藩により作成された絵図にも見られる。入り江を利用した海水浴場は環境省による「快水浴場百選」に選定されているほか、日本の水浴場88選、かおり風景100選、日本の渚百選、日本の白砂青松100選にも指定された。宮沢賢治は1917年7月にここを訪れ、「うるはしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ」という歌を詠んだ。波の静かな内湾は、夏場、海水浴客で賑わうほか、春秋には修学旅行客やツアー観光客が多く滞在する。【歴史】1974年には、第25回全国植樹祭に合わせて来県した昭和天皇の行幸先の一つとなった。2010年4月には、レストハウスが開業したものの、2011年3月の東日本大震災により海岸およびレストハウスが大損害を被り、海水浴場、レストハウスともに閉鎖となる。その後の復旧作業により、レストハウスは2012年7月から営業を再開した。』
説明いらないですよね。
ってコリラックマが言ってました。
1960年5月24日チリ地震津波記念碑「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ」宮古ロータリークラブ
上部には「言行は四つのテストに照らしてから 1.真実かどうか 2.みんなに公平か 3.好意と友情を深めるか 4.みんなのためになるかどうか」とありました。
「うるはしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ」宮沢賢治
その他の碑。読み辛かったので内容省略。
青のソフトクリーム。
そうです。今回の最大の目的は青の洞窟(八戸穴)!
船で向かいます。ってことで以下はすべて船からの写真になります。
青の洞窟だけではなく、浄土ヶ浜をぐるりと案内してくれます。
天気もいいし最高です。
あそこに建物が見えます。
賽の河原。
そしてこの賽の河原の入江に先ほどの建物へ続く登り口があります。
霊鏡和尚が建てたとされる子安地蔵。子安地蔵なのですが、地元の人々が家族の健康や大漁を祈願して信仰しているそう。賽の河原の小石を持って拝みにいくことから賽の河原の地蔵さんとも呼ばれているそうです。
青の洞窟へ向かいます。
見えてきました。
えっ?これは入れるの!?
入れます。
ヘルメット着用していますが頭には気を付けてください。ぶつけたら「死因は板状節理」ということになってしまいます。
結構奥まで入るんですね。
青の洞窟というだけあって青いです。エメラルドグリーン&コバルトブルーの輝き。
最奥部では時々潮が吹くことがあり、この現象を見ることができた人は幸せなると伝えます…とパンフレットに書いていました…
っていうか…
めっちゃ何回も吹いている笑
青の洞窟(八戸穴)は青森県八戸市まで続いているという伝説から名付けられています。昔、この穴に入っていった犬が数年後に八戸市で見つかったために、この穴は八戸まで続いているという伝説となり八戸穴と呼ばれるようになりました。
江刺恒久が文久2年に著した『奥々風土記 巻五』によりますと「この穴は八戸まで通じていて、八戸には宮古窟がある」とのこと。
かつて八戸キャニオンに閉伊窟という穴が存在していましたが、現在は鉱石採掘により無くなってしまったとのことで、現在はこの伝説の真偽を確かめる術はありません。
私もここから泳いで八戸に向かう予定としておりましたが残念です。
ってことで致し方なく穴から脱出。
戻ります。
人慣れした鳥たちに囲まれながら。
以上、浄土ヶ浜、青の洞窟編でした。
コメント