岩手県九戸郡野田村大字野田、国道45号線(三陸浜街道)沿い。十府ヶ浦公園の一部のようです。
十府ヶ浦公園…『平成23年3月11日の東日本大震災津波により、野田村は大きな被害を受けました。野田村は被害が大きい城内地区から米田地区にかけて津波防災と憩いの場の役割を持たせた「十府ヶ浦公園(津波防災緑地)」を建設しました。十府ヶ浦公園は野田小学校、野田中学校、久慈工業高校、そして村民全員参加でデザインを行い、グラウンドワークで完成させました。野田村の復興とふるさとの明るい将来を村民全員が願い、完成させた公園です。【津波から野田村を守る仕組み】津波から野田村を守るために、海側の防潮堤、国道45号、公園盛り土の3重の堤で村の中心部を防御しています。国道45号と盛り土の間を公園利用出来る構造としています。』
2017年オープンの「ほたてんぼうだい」は、野田村の特産品であるホタテをモチーフにしている展望休憩施設。
設計は村内の晴山建築設計事務所。
休憩室内の壁はホタテの貝殻が原材料の塗り壁となっています。
東日本大震災大津波記念碑へ。
東日本大震災大津波記念碑(Great East Japan Earthquake and Tsunami Memorial)。
『~二度と村民の命を失わないように~教訓:一.地震があったら津波を考える 二.津波のときは高台に避難する 三.避難したら絶対に戻らない 四.避難場所や方法は家族や近所で相談しておく 五.避難するときは隣近所に声がけをする』
東日本大震災大津波記念碑…『東日本大震災のような津波被害を防ぐ思想・文化が村民の心に醸成され、将来に語り継がれることを祈念して建立された記念碑です。過去の教訓と命を守る行動が末永く伝承されることを願っています。』
十府ヶ浦を一望できます。
防潮堤(1線堤、2m高上げ)
十府ヶ浦(のだ塩ベコの道(塩の道)の出発点)…『■ゆるやかに弧を描くように3.5kmにわたって続く十府ヶ浦は、断崖や岩礁が多い三陸北部では希少な砂浜で、淡い紫色の小石(小豆砂)を多く含んでいます。それらは「チャート」と呼ばれ、生物の殻や遺骸が堆積してできたものが酸化して暖色系に変わったものです。昔、十府ヶ浦は、海水を鉄鍋で煮詰める直煮法による製塩業が盛んでした。塩は牛の背に乗せられ、北上山地を越え盛岡方面へ運ばれることから、十府ヶ浦は「のだ塩ベコの道」の起点でした。東日本大震災により製塩施設が流出しましたが、新たに「のだ塩工房」が国民宿舎えぼし荘に隣接して復旧し、製塩の歴史を繋いでいます。■ほたててんぼうだいからさらに約30m登ると写真を撮影(現在の写真)した場所があります。■小豆砂「朝日を浴びた十府ヶ浦海岸は紫色に輝く」と言われています。』
野田村津波記念碑建立協賛金寄付者御芳名。
過去の教訓を生かし命を守る行動を…『この東日本大震災大津波記念碑は、三枚の石板からなる石碑が、扉のように海に向かって開いた形をしています。この扉は、今までもこれからも共にある、海に対する「畏敬の念」、亡くなった方の魂を迎え入れ、対話をする「追悼の場」、いつでも帰って来られる「ふるさと」、ここから一歩踏み出す「未来」を表しています。扉をかたどる三枚の石板は、防潮堤(第一堤防)、国道45号・三陸鉄道等(第二堤防)、そして東日本大震災大津波の復興において新たに設けた十府ヶ浦公園の線状形盛土(第三堤防)を模しており、「将来にわたり村民の命を守る」という決意を後世に伝えるものです。手前の球体は、守られるべき命を表現しています。扉をくぐる道には、色とりどりに輝く未来への道となるように、未来を担う子ども達が、それぞれの思いを込めた小石を埋め込みました。この扉をくぐることで、海と向き合い、大切な人やふるさとに思いをはせ、新しい未来への希望が生まれることを願います。』
昭和三陸津波の津浪記念碑。
~明治・昭和~野田村の津波碑…『【明治三陸津波】「海嘯遭難供養塔」は、明治29(1896)年6月15日(旧暦5月5日)に発生した明治三陸大津波の犠牲者を供養するため、野田村城内地区の曹洞宗無量山海蔵院の本堂西側の境内に建てられています。塔の前面には、「昭和三年六月十五日建立 海嘯遭難供養塔 文部大臣正三位勲一等水野錬太郎書」背面には、「為明治廿九年六月十五日海嘯遭難死亡者 宇部静建之」と刻まれています。明治29年の大津波による野田村の被害は、死者261名、負傷者62名、流失家屋138戸で、村の中心地の大部分が流失したとされており、この津波で死亡した海蔵院の檀家で、身元不明者の遺体を寺山の一角に埋葬したと言われています。【昭和三陸津波】野田村米田地区の海岸沿いにあった綿津海神社の敷地内に建てられていた「津浪記念碑」は、東日本大震災大津波によって流失しましたが、昭和の大津波を後世に伝えるため、平成28(2016)年に現在地に移設されました。津波碑の背面には、昭和8(1933)年3月3日に発生した昭和三陸大津波の被害状況が次のように刻まれています。≪發震時≫昭和八年三月三日午前二時三十分≪津浪襲来≫同年同月同日午前二時五十九分≪波髙≫十八尺≪被害総額≫二十八万一千四百五十円≪罹災者≫世帯数六十二戸、死亡者八名、負傷者七名、生存者三百十九名、流失数~住家五十八棟、倉庫八十棟、其他六十四棟≪浸水世帯数≫四十三戸≪昭和9年8月31日東京朝日新聞社寄贈金建設≫』
ほたててんぼうだい【展望・休憩施設】平成30年6月26日、平成30年度いわて木材利用優良施設コンクール会長賞受賞…『東日本大震災大津波からの復興を象徴した施設の一つであり、十府ヶ浦公園の利用者や国道45号通行者の休憩場所として利用されるとともに、震災時の状況のパネルを掲示する等、震災の記憶を風化させないことを目的として、整備した施設です。施設の特徴は、野田村の特産品の一つである「荒海ホタテ」をイメージした外観としており、木材(ケヤキ、ヒノキ、松等)をふんだんに使用したぬくもりのある施設となっています。【事業主体】野田村【設計】晴山建築設計事務所【監理】株式会社佐佐木設計【施工】山田建設株式会社【施設概要】事業名:都市公園事業、事業費:89,066千円、造成高:T.P.18.7m、構造:木造平屋建、延床面積:146.67㎡、建築面積:158.84㎡、駐車台数:35台(うち車イス用2台分)』
十府ヶ浦海岸…『十府ヶ浦海岸は三陸ジオパークの中でもたくさんの化石が見つかる場所で、海岸には恐竜が生きていた最後の時代から哺乳類が繁栄し始めた最初の時代の地層が分布しています。また、これらの地層は周囲の岩盤に比べて柔らかいため、河川に削られたことで三陸海岸で最も広い砂浜ができました。こうして作られた美しい景観は平安時代から全国に知られており、たくさんの和歌に詠まれてきました。【玉川海岸・米田海岸】米田海岸周辺には恐竜が生きていた最後の時代の地層が分布します。ここではアンモナイト、首長竜、サメなど海の生き物の化石が見つかっています。また玉川海岸では最大厚さ数mにもなるカキ礁の化石があり穏やかな内湾の環境で生き物が繁栄していたことがわかります。【大唐の倉】白い地層が特徴の大唐の倉は哺乳類が繁栄し始めた時代の地層でできています。この白い部分は火山灰が河川に厚く堆積してできたもので当時の火山活動のなごりです。周囲からはメタセコイヤやヌマスギ、シュロ植物など亜熱帯性の植物化石が豊富に見つかります。』
十府ヶ浦と柔道一直線…『十府ヶ浦は昭和45年放送のテレビドラマ「柔道一直線」のロケ地です。柔道一直線は柔道に打ち込む高校生達を描いた青春ドラマで当時の岩手国体に出場した主人公(演・桜木健一)が強敵城山大作に対抗するため、柔道の神と言われた三船十段そっくりの古老から必殺技「真空投げ」を伝授されるシーンが撮影されています。※三船十段(明治16年~昭和40年)久慈市出身の柔道家、東京五輪では柔道競技運営委員を務める。代表技は「空気投げ」』
札幌ドームにも使用されているパーフェクトルーフを用いたホタテ屋根。愛知県岡崎市の方から寄贈されたヒノキ材1000本余をふんだんに使用して製作されているそうです。
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