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青森県三戸郡新郷村西越温泉沢。新郷温泉館の北方、野沢温泉に鎮座する神社です。
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鳥居額束神額「野沢温泉神社」令和2年10月。
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西越は奥羽山脈の東に連なる丘陵台地に位置。馬淵川支流の浅水川の最上流部にあたり、中央を浅水川が北東流。正安3年4月26日のきぬ女家族書上案には「三戸さけこし」と見え、これは当地に比定されます。地内には西越館跡があり、西越氏が戦国期に居館していたと伝えられます。西越氏は22代南部政康の四男石亀信房の次男某とされており、のち下田(下田町)に移住して下田氏の祖となったといいます。浅水川に臨む丘陵台地には縄文中期から晩期にかけての遺跡が分布。本格的発掘は行われていませんが、横沢遺跡は縄文後期の壺形・注口土器などを出土、咽畑遺跡は縄文中期と晩期の土器・石器などを出土。※【さけこし】…さけこしは鎌倉期に見える地名。糠部郡三戸のうち。正安3年4月26日のきぬ女家族書上案に「五はん、きぬ女、三戸さけこしのよとう二郎のめにて候…一、きぬ女二子一人あり、さけこしにあり」と見え、安藤三郎の後家きぬの5番目の子きぬ(与藤二郎の妻)は、女子1人とともに当地に住していました。なお、当地は戦国期より三戸南部氏の支配下に入ったといいます。地内の西越館は22代南部政康の四男石亀信房の次男某の居館で、西越殿と称し、のち下田に移り下田氏の租となったといいます。江戸期以降の西越村は三戸郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属します。慶応3年の給人は青山郡司・山田募ほか7人(五戸町誌)。村高は正保郷村帳101石余(田63石余・畑37石余)、貞享高辻帳126石余、邦内郷村志524石余(うち給地450石余)、天保郷帳324石余、天保8年御蔵給所書上帳524石余(御蔵高73石余・給所高450石余)、安政高辻帳260石余、慶応3年五戸代官所惣高書上524石余、旧高旧領524石余。邦内郷村志では家数167、本村を除く集落別内訳は沢口5・田中17・石ケ森3・間明田18・釜坂3・台10・下新田8・松屋敷3・加屋敷3・中島4・鷹巣1・逆沢3・栃久保2・櫃潰1・上新田10・館屋敷久保1・細野3・横沢9・崩6・大谷地8、馬数270。本枝村付並位付によりますと位付は下の上、家数129、集落別内訳は本村42・田中15・間明田18・平10・細野3・横沢7・崩3・大谷地5・中崎3・上新田2・下新田2・松屋敷11・堂ケ前5・手倉橋3。文政年間に寺子屋が開業され筆子は男28。明治初年には斗南藩士が開業。各枝村は周辺の山間地に散在。石盛は上田1石2斗・下々田6斗、上稗田7斗・下々稗田4斗、上畑9斗・下々畑3斗。神社としては三岳権現があり、明治6年に三岳神社と改称しています。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て同4年青森県所属。明治16年手倉橋付とともに第23組に属し、同組役場が置かれ、同17年西越村ほか1ヶ村の戸長役場が置かれました。明治8年個人宅を仮用して西越小学が創立されており生徒数は男77。同13年沢口に移転。明治初年の戸数は本村41、支村の田中13・石森(記載なし)・大谷地9・崩9・横沢17・細野5・釜沢8・間明田12・平13・石森6・栃久保4・中鶴間8・鷹巣3・逆沢1・貝屋敷5・松屋敷3・五籠2・郡司12・堂ケ前6・温泉沢1、畑が多く地味は下の下、物産は材薪、山蔬菌覃。同12年の共武政表によりますと、本村の戸数44・人口266(男148・女118)、学校1、水車1、牛11、馬82、物産は米・麦・雑穀・麻糸・鳥類、宇田中の戸数15・人口106(男60・女46)、水車1、牛61、馬119、物産は本村と同じとあります。同22年野沢村の大字となります。昭和30年からは新郷村の大字。野沢村当時の役場は当地内の田中に置かれました。明治24年の戸数302・人口1,275、厩5、学校1、水車5。昭和30年の世帯数267・人口1,798。大正10年電灯架設。昭和24年南部バスが当地と五戸間を運行し、昭和32年には金ケ沢間が運行。同36年西越小学校に横沢分教場が発足し、同41年には独立して清水小学校となります。同44年に現在地字日向に移転。昭和22年西越小学校に野沢中学校が併設され、同39年現在地に移転。昭和22年に手倉橋分校も設置されています。浅水川流域を利用した水田稲作の他に、近堂ケ前を中心に葉煙草が振興。なお、野沢温泉は三戸郡新郷村南西部の山間にある温泉。泉温38℃、泉質は単純泉S泉。浅水川の源流近くにあり、三戸・五戸から約25kmの所に位置。明治初期には既に利用されていたといい、国誌第5巻の西越村支村温泉沢の項に「本村の西一里二十七丁二十七間支村温泉沢にあり西越岳の麓にして山間に湧出す冷湯にして浴し難し然れとも其質硫礬の気を含み金傷疝気胸痛啖咳に宜しとて浴客常に多し小屋四軒湯槽一を設け風呂に沸し浴す」とあります。現在のものは昭和20年代に深度約200mまでボーリングして到達した水脈から汲み上げており当時のものとは異なります。
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こちらは不明。
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野沢温泉神社由来の案内板は倒れていました。恐らく鷺の湯伝説について書かれているのかな…『昔、西越の滝ノ又部落に五郎兵衛という住人がいた。ある日、いつものように狩りをしていた五郎兵衛は、木の梢に大きな鷲を発見した。五郎兵衛は、愛用の弓で矢を放ち大鷲の片方の翼を射抜いた。しかし大鷲は、残るもう一方の翼を羽ばたかせ、夕日に赤く染まる空に飛び去っていった。それから何日か過ぎ、大鷲のことばかり考えていた五郎兵衛は、山へ向かった大鷲の飛び去った西の方向に奥へ奥へと分けいった。・・と、どこからか「バシャ・バシャ!」と水を叩く音が聞こえた。そっと近づき見てみると、この前の大鷲が、矢で痛められた翼を広げて水に浸していた。五郎兵衛は、再び射るため弓を構えた。しかし、傷付いた翼を一心に動かしている大鷲の姿に心を打たれ弦を戻した。やがて五郎兵衛に気付いた大鷲は、傷はもう治ったのか両方の翼を大きく羽ばたかせ、大空へ飛び立っていった。五郎兵衛は、大鷲が水浴びをしていた場所へ行ってみた。そこは、熱い湯がこんこんと沸き出ている温泉であった。「そうか、これは薬湯だったのか、あの大鷲は傷を癒していたのか。」五郎兵衛には七つになるお峰という娘がいた。お峰は全身に出き物が出る病に侵されていて、あらゆる手だてを講じてみても一向に効き目がなかった。「もしかしてこの湯は、お峰の病いに効くかもしれない。」早速、湯を汲んで持ち帰り、お峰の体を洗ってやった。すると、みるみるうちに出き物は消え、全身きれいな肌の子に生まれ変わった。そして五郎兵衛は、傷つけられたにもかかわらず、薬湯に導いてくれた大鷲に感謝し、それ以来猟をやめ、村人たちにこの湯の薬効を知らせ、谷あいに小さな湯治場を開いた。そして、大鷲に感謝し、ここを「鷲の湯」と名づけ、自ら湯守りとして生涯をここに暮らした。』
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わしの湯史…『今から百九十年前、西越野沢の滝ノ又部落に一人の猟人が住んでいた。名は五郎兵衛と呼び、春から秋までは野良仕事をし、冬には弓を持って野山を歩いて鳥やけものを捕えていた。五郎兵衛の趣味であり、副業だった。ある日、弓矢を持って狩りに出たが、どうしたことか目ぼしい獲物がなかった。帰る途中、何げなく見ると、ほど遠くからぬ老木の枝に一羽のワシが止っていた。「これはよき獲物」とばかり、弓に矢をつかえて、ビューと放ち、見事に仕留めたと思った。が、ワシはつばさを射抜かれたのかとんでは落ち、落ちてはとび、西方の谷間へ逃げ去った。五郎兵衛は二-三町追って見たが、ついあきらめて家に帰った。三日目に再び弓矢を手にして狩に出た。いつも通る山の中腹で、谷間のどこからか鳥が水浴びする音が聞こえてきた。とんびか、たかと思いながら、そっと近づいて見た。先日射そこねたわしが、一心に谷間の水たまりで水浴びをしていた。五郎兵衛は不思議に思って見た。わしは早くも気づいたらしく、急に羽全体を振り払って谷間の上空を二-三回輪をえがき西方の大岳めざしてとび去った。わしがとび去った後の水たまりには、“待っていました”とばかり、小鳥の群れが水遊びを始めた。秋田の大岳には薬の湯が湧いていると聞いたが、もしかしたら、薬の湯ではないかと思った。谷間から水溜りに近づくと、異様なにおいがする。老杉の根元に手を入れると、水たまりはちょうど体温ぐらいの暖かさだった。「不思議なお湯が湧いているものだ。鳥やけだものに薬であれば、人間にも薬になるはずだ。」とささやいた。おりもおり、五郎兵衛の六歳になる娘が全身にオデキが出来て困っていた。わしから妙薬を授けられたのだと、翌日、桶にその湯をくみとり、娘の全身を洗うこと二週間、至る所にあったカサが徐々になおって行くのを見て大喜び。その後、五郎兵衛は会う人毎に、この薬湯の話をし、その水をくみに訪れる村人も出てきた。そこで村人の便を考えて、その谷間の杉元に小さなかやぶき屋根の小屋を立て風呂おけを供えつけ、わしの湯守りとなった。五郎兵衛は滝の又からわしの湯に住居を構え、江戸末期に戸来栃棚に移ったという。明治三年頃、函館戦争に負けた落人の沖田某なる武士がこの地に住み、明治、大正まで生存中だった。付近一帯の土地は西越財産区が管理所有していたが、戦後二十九年には湯治客の便を図るため宿泊所の建設に着手、わしの伝説にちなんだ「わしの湯」と名づけ、三十一年には電燈もひかれた。また、四十年には電話もつき、宿泊施設も出来、定期バスも一日三往復していたが、五十六年なってお客もなくなり運休、建物の老朽化によって淋しさを増している。その後、野沢温泉と改名、温泉沢の入口には新しく新郷温泉館も出来た。』
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新郷村史より…『西越の滝ノ又部落に五郎兵衛という狩人がいた。野良仕事の傍ら雉や兎をとって来ては部落に帰り、それを売り小遣い銭としていた。ある日、いつもの様に手製の弓矢を持って狩に出掛けた。大木の梢に一羽の大鷲が止まっているのを発見、日頃の腕前をと狙いを定め矢を放した。見事命中したが、大鷲は斜めになりながら大空高く舞い上り、片方の羽根を広げて旋回するようにして、西日に向かって飛び去った。五郎兵衛はただ啞然として、飛び去る大鷲を見守るだけであった。二、三日続きの雨も晴れ、五郎兵衛は再び狩りに出た。ふと大鷲の事が気になり、その日は西の山に向かって歩き出した。獲物を探すのに西の山に入り、小高い峰伝いに奥へ奥へと進んだ。……と、どこからか、水音が聞こえた。音がする程の沢水でないのに不思議に思い、静かに水音のする方に接近して行った。なんと、そこにはこの前の大鷲が、五郎兵衛の矢で痛められた右の翼を水に浸しては翼を広げ、繰り返している音であった。五郎兵衛は弓に矢を仕掛けては見たが射る気持ちになれず右の手の力を抜いた。大鷲は五郎兵衛に気付き、それかとて慌てる事もなく、両翼を大きく広げて飛び去った。五郎兵衛は矢を放さなかった事に少しも後悔せず大鷲を見送った。すると間もなく、大鷲の飛び去った後に、四十雀(しじゅうから)や山雀(やまがら)や栗鼠(りす)などが集まり水浴びをした。五郎兵衛は、山の動物達の去るのを待って、その場所に行った。何と、その水たまりは、湯花の匂いがし、手を入れたら湯であった。「これは薬湯だ」と思った五郎兵衛は、七歳になる娘お峯の皮膚の病いによいのではないかと思い、家に引き返し桶を持って行きそのお湯を汲んで持ち帰り、お峯の体を洗ってやった。するとお峯の全身に出ていた出き物は奇麗な肌に生まれ変わった。五郎兵衛は村の人々にも妙薬の湯を知らせ、村人の便を考えて、その谷間に小さな湯治場を作り、「鷲の湯」と名づけ、滝ノ又から鷲の湯守りに転居した。お峯が上栃棚にお嫁に行った事を機会に、五郎兵衛は上栃棚に転居したという。お峯はどこの家に行ったのか、五郎兵衛のあと明治成って名字が何となったか知る事は出来ない。戦後、昭和29年には宿泊所が出来、湯治客がよく訪れた。昭和40年には電話もつけ、定期バスも一日三往復した。山奥の不便さからか、今は訪れる客は疎(まばら)である。』
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