青森県三戸郡新郷村戸来石無坂。県道220号(石無坂鹿田線)沿い。位置的には大石神ピラミッド・又木戸ダムの北方。すぐ近く(長崎。GoogleMap:戸来造林企業組合付近)にも鳥居が見えましたが、私有地っぽかったので行ってません。
残念なことに弥栄神社の参道は途中から草木がひどくてとても歩いては進めない状態でした。
どうしましょ…
ってことで横から迂回してみたら…
参道の途中に侵入できそうな場所がありました。
ここです。
ってことで参道へ。
あそこに見えるのが一之鳥居。これは無理ですよね…
社殿前鳥居。
昔の航空写真を見ると社殿があったようにも見ますが、現在は何らかの建物の一画に鎮座している感じです。
社務所なのか、それとも公民館か何かでしょうか。
ちなみに私の地図では弥栄神社のやや南方に「長崎地区公民館」とあるのですが、その場所は「旧新郷村立長崎小学校」跡地となっていました。
御祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命。例祭日8月1日。
大同2年、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、戦勝を祈願して創建と伝え、鎌倉時代となり、源頼朝が戦勝祈願し、奥州藤原氏を滅ぼした際に社殿再建。江戸時代には仙台藩主伊達政宗が社殿を修復し多くの参拝者が訪れるようになったと伝えます。真実だとしたら凄い歴史の神社ですね。
比較的新しい本殿に見えました。室内に鎮座しておりお賽銭はできず。
以下、戸来について。長いので興味のない方はスルーしてください。
戸来(へらい)は奥羽山脈の東に連なる丘陵台地に位置。五戸川の最上流部にあたり、南部を五戸川、中央を同支流の三川目川が北東流。地名の由来は不詳ですが、言語学的に「へ」は川を意味する瀬、「ライ」は生産地を意味するナイの変化と解釈するならば、川沿いに開かれた生産地帯の意味ともとれます。地内の五戸川に臨む左岸の台地端には戸来館跡があり、戸来氏が戦国期より居館し、五戸川上流をおさえていました。戸来氏は江戸期に入ると盛岡城下へ移住しますが、同館はそのまま同氏の知行地の居屋敷として利用されました。近くには戸来氏が明応5年に創建したという曹洞宗長泉寺があります。戸来館に因む地名には、館神・館向・馬場谷地・馬場下・馬場向などがあり、村名に因むものには西のはずれに三ツ岳と大駒ケ岳からなる戸来岳があります。五戸川や同支流に臨む丘陵台地には縄文前期から晩期にかけての遺跡が分布。本格的発掘は行われていませんが、戸来遺跡は縄文中期から晩期にかけての円筒上層式・大洞B式などの土器と住居跡を出土。また上栃棚遺跡は土師器を出土。県無形民俗文化財としては金ケ沢鶏舞があります。
「へらいのかう」は鎌倉期に見える郷名です。糠部郡五戸のうち。永仁5年11月21日の五戸郷々検中注進状に「一、へらいのかう 五ちやう八たん二かうのうち、くてん三ちやう四たん四かう」と見えており、当郷の耕地は5町8反2合で、この内公田が3町4反4合でした。なお、戦国期に当地は三戸南部氏の支配下に入り、戸来館には戸来氏が居たといいます。近世初期と推定される年月日未詳の南部信直書状に「下之板ハ戸来へあつらい候て、一間を四枚ニも五まいにも、十間四貫にも五貫にもとらせ置候」と見えます。正確な年代は不詳ですが、戸来氏は「参考諸家系図」等によりますと、木村氏12代秀勝の代に木村氏の本系の政秀が戸来郷を領して戸来へ移住し戸来氏を名乗ったとされます。父秀勝は文正元年の没と伝えるのでその後に移住したものと推定。戸来氏は慶長18年戸来村、兎内村(五戸町)に780石、元和7年には都合800石を知行しましたが、寛文11年以後は所領は分割され嫡家は300石となりました。しかしながら戸来村は幕末までその知行地とされていました。
江戸期以降の戸来村は三戸郡のうち。盛岡班領。五戸通に属します。慶応3年の給地は戸来守285石余、戸来又兵衛263石余、戸来六衛門88石余で、すべて戸来氏一族が知行。村高は正保郷村帳255石余(田144石余・畑111石余)、貞享高辻帳319石余、邦内郷村志598石余(すべて給地)、天保郷帳598石余、天保8年御蔵給所書上帳637石余(すべて給地)、安政高辻帳480石余、旧高旧領637石余。邦内郷村志によりますと家数は238、本村を除く集落別内訳は金沢40・中里20・田中18・沢口5・長宗9・小坂30・栃棚18・拝内5・滝沢8・須賀田18・萩沢30・女ケ崎9・川代11・松木田10・荒巻7・田茂代4、馬数521。本枝村付並位付によりますと位付は下の上、家数174、集落別内訳は本村17・馬場6・中里9・沢口1・長宗6・下栃店8・小坂12・上栃店18・羽井内3・川代11・滝沢7・荒巻6・田茂代2・目賀崎9・田中10・扇沢22・次ケ田15・松ノ木田6・太田3・西越3。各集落は周辺の山間地に散在。石盛は上田1石2斗・下々田6斗、上稗田7斗・下々稗田4斗、上畑9斗・下々畑3斗。元文3年の書上に紫根少々ありとされ、特産品の紫根の販売を商人に請け負わせていました。天保8年に定められた戸来村3ヶ村の村定では、盗人取押えの処置、田畑への無断往来の禁止、田畑からの不審な荷物の吟味、旅人の宿泊の取扱いなどを申し合わせています。当村は西の十和田湖を経て津軽や秋田方面に至る小道筋にあたるため、当村を知行していた戸来氏は藩命をえて番所を開設し番人を配置していました。支村の田中には、修験の五戸年行事の多門院が在住していました。多門院は本山派の修験を統轄し、霞は貞享4年の年行事職補任状(細川家文書)に「陸奥国南部三戸六戸七戸之内六拾七箇村」と見えており、五戸通を中心に三戸通から七戸・野辺地通までの広範囲に及んでいたことがわかります。宝暦5年の社地堂社書上に堂社39か所、修験64人、神子6人、霞村153ヶ村(小字数)とあり、その勢力は三閉伊年行事の寿松院に次ぐものでした。多門院直轄の堂社は当村内の三岳山観音堂・新山権現宮・白山権現・川台大明神・毘沙門堂の5社でした(。当地への在住や先達職補任の年代は不明ですが、大永5年の先達補任状には「欧州南部殿御知行之内従糠部之郡中熊野参詣之引道ハ京都まて先達を申付候」と見え、早くから先達職にあり、文禄3年南部信直の先達定宿許可状には「五戸 多門坊」宛とあることから文禄初年頃には既に先達として当村に在住していたことが知られます。村内には戸来氏創建の曹洞宗金沢山長泉寺があり、元は獅子咬山朝仙庵と称したといいます。神社としては三岳堂(三岳神社)があり、例祭日には金ケ沢鶏舞(県無形民俗文化財)が演じられます。天明3年には大飢饉に見舞われ「天明三年卯凶作之事」に当村の惨状が記されています。弘化3年寺子屋が2ヶ所開業。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県所属。明治16年第22組に属しその組合役場が置かれ、翌年には戸長役場となります。明治7年支村田中の個人宅を仮用して戸来小学が生徒数男40・女1で発足。同14年字三岳下へ移転し、同25年には金ケ沢に移転。明治16年戸来小学川代分校が生徒数男21・女1で発足。同20年独立し川代簡易小学校となります。明治初年の戸数は本村120(うち金ケ沢59・館4・馬場12)、支村の松木田8・中里15・田中22・沢口2・長峰12・下栃棚14・小坂20・上栃棚31・羽井内7・鹿田30・扇沢19・女鹿崎10・川代23・荒巻8・滝沢10・田茂代6、旧来戸来18ヶ村と称して在所18か所を合わせて戸来と総称していましたが、明治7年金ケ沢を戸来本郷とし戸来と称したとあります。また、土地は下薄で、物産は大豆、馬、薪炭、蕨薇・竹筍・マイ覃などの山菜茸類など。松木田より羽井内までの五戸川流域の集落は南川目、鹿田より田茂代までの三川目川流域の集落は北川目と呼ばれました。明治前期頃より畜産業が振興し、明治11年柿ノ木平に戸来選畜場(種畜場)が開設。同年石上牧場が創立。同12年の共武政表によりますと本村の戸数53・人口326(男176・女150)、寺院1、学校1、水車1、牛22・馬92、字中里の戸数16・人口111(男58・女53)、牛8、馬50、同田中の戸数23・人口140(男61・女79)、水車1、牛4、馬49、同下栃棚の戸数16・人口113(男63・女50)、牛2、馬52、同小坂の戸数21・人口140(男77・女63)、水車1、牛2、馬46、同上栃棚の戸数33・人口201(男110・女91)、牛1、馬82、同川代の戸数24・人口141(男80・女61)、水車1、馬57、同扇ノ沢の戸数42・人口250(男129・女121)、牛4、馬82、同鹿田の戸数32・人口197(男102・女95)、牛4、馬67。また物産は9ヶ所ともに米・麦・雑穀・木材・薪炭・麻糸・鳥類。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。大字は編成せず。明治22年役場を字金ケ沢に設置。明治24年の戸数343・人口2,368、厩2、学校2、水車17。世帯数・人口は大正9年489・3,031、昭和30年761・4,953。産業は第1次産業(米・畜産・野菜・葉煙草が中心)が主流を占めます。農村地域。寒冷地であり、やませが吹く当地方では凶作克服のため佐々木伝次郎翁によって酪農が明治前期頃から導入されていました。明治36年牛104頭放牧。大正15年乳牛改良組合発足、昭和8年戸来村酪農組合が発足し酪農が本格的に進展。同24年からは本県で最初に煉乳製造を開始。明治35年経木を製造する石井工場が設立され翌年職工30人を雇用。同36年の産物の反別と収量は、米191町・2,757石余、麦110.2町・931石、大豆100町・175石、粟102.4町・190石、稗35町・130石。大正15年の産物の生産額は米16万4,000余円、大小豆4万余円、粟3万余円、畜産収入3万5,000円、薪材6万3,000余円、木炭9万3,000余円、その他林産物3万余円、合計53万余円。畜産・林業の振興が目立ちます。大正末年より金ケ沢と五戸間には個人経営のバスが運行し、昭和13年からは村営、同18年からは南部鉄道へと経営が移転。明治16年三浦泉八が羽井内~宇樽部間(アクリ坂・犬吠沢経由)を開道して十和田湖へのルートを開設。その後、明治36年の焼山~子の口(十和田湖町)間の林道開通まで十和田湖への幹線ルートとなりました。昭和10年電話架設(台数8)。明治40年に発足した戸来尋常高等小学校小坂分教場は昭和15年独立して小坂尋常高等小学校となり、大正12年発足の川代尋常小学校田茂代季節分教場は昭和26年独立して田茂代小学校となります。昭和22年には川代小学校長崎季節分校発足、同36年長崎小学校となります。昭和25年戸来小学校中の平分校が発足、同29年独立して金ケ沢小学校となりますが同34年戸来小学校に併合。昭和22年戸来・川代・小坂の各中学校が開校し、同24年には五戸高校戸来分校が開校。同30年新郷村の大字となります。山間地の水田の開発が進み、昭和36年には扇ノ沢で48haの開田、同40年からの農業構造改善事業を経て、同43年には田茂代・川代・水沢などに120haの開田が進捗。畜産では同47年に村営平子沢牧場が開設されて肉牛140頭の放牧が開始されたほか、上後藤・柿ノ木平の各牧場も開設されており、乳牛を主体とした畜産が振興。早くからの乳牛の生産の振興をうけて昭和31年雪印乳業戸来工場が設立。同49年当地区の西南端の迷ケ平が自然休養林に指定。十和田湖に隣接する好条件により十和田湖への秘境コースの玄関口、あるいは周辺の二ノ倉ダムなどを含めてレジャー・レクリエーション地区としての観光開発事業が進展。昭和34年戸来小学校に金ケ沢小学校が併合され、同36年には中ノ平分校が独立し長崎小学校となりました。
新郷村史「戸来」より一部抜粋…ヘライはヘブライ語であると言い出したのは昭和10年後の事であって、その前までは、戸が来る村であった。戸が来る村とは、一戸、二戸、三戸、四戸、五戸というように九戸のつぎに十(とお)が来る十来るであった。その十(とお)が戸に転じて戸来(とらい)となり、戸が戸(へ)と読む事から戸来(へらい)となったと伝承されている。四戸は浅水村を中心とした東部に長く広範囲に渡っていたものと考えられている。今は四戸は無く、名字に残っているだけである。十戸(とおのへ)は遠野であると言った郷土史家もあったが、配置的に考えたり発音上考えると、そうも取れるが、戸来はやはり十が来る十来から十(とお)を戸(へ)と入れかえ戸来となったと解するのが一番妥当である。戸来の西部落の羽井内の上手の方に一の倉、二の倉、三の倉があって、そこに南部藩では隠し倉として、食糧を蓄積していたと言う。小坂甚兵衛なるものが、そこの倉の管理を南部藩より仰せ付けられたと記録がある事から考えても、戸来は十が来る村であったと思われる。今の長崎部落には軍馬補充部があった事からも、馬は非常に盛んに飼育されていたし、昔から、柿ノ木平、間木ノ平、平小沢は放牧地として適していた。仔馬と母馬を狼の被害から守ろうと南部藩から鉄砲を借りて狼退治をしている記録などを見る時、馬産地として、南部藩から高く評価されていたと考えてよかろう。ただ、ここでもう少し深く入って見る必要があると思われる。と言うのは、確かに、南部藩でも、山奥でありながら新郷は馬産地として重要視はされていたが、戸来の地名はそれより以前にあったと言う事を見逃すわけにはいかない。永仁五年1,297年の五戸郷検注注進状(新渡辺岩大文書)に「一へらいのかう五ちゃう八たん二かうのうちくてん三ちゃう四たん四こう」とある。戦国時代から三戸南部氏の支配下に入り、天正の頃には戸来館に戸来氏が居館している。よってここに、その事を紹介しておこう。古代律令制度に、この辺りの地域を一気に制圧したというのは、南部公が来る以前と言えば、文屋綿麻呂が弘仁年間に来た仁佐平都母の蝦夷征伐以外には考えられない。『八戸の歴史』の中に次の事が見られる。「一戸から九戸までの配列を見ると、先ず、北上川の源流を越えて馬渕川の流域に入った所一戸がある。そこから下流にむかって二戸三戸と続き、其処から真直ぐに北へ四戸、五戸、六戸、七戸と、略々20粁の間隔で点列している。これは一日行程の距離である。蝦夷の拠点都母に比定されるところまで至って此所から海岸よりに南へ八戸、其処から新井田川を遡って更に南へ行って、一戸の東側の九戸で終わっている。これは馬渕川、新井田川両流域と上北郡の地域、当時の鎮守府勢力の及んでいた限界であった北上川流域以北にある太平洋側の地域の中枢を略々一周するような形で順次番号順に配列されている。一から九の配列は、かって文屋綿麻呂が平定の軍を進めた行程の軌跡を示しているであろうとするのは無理な推論であろうか。」と述べられている。以上の事を踏まえてみる時、馬渕川、新井田川流域からは外れてはいるが、古老の言を強ち的外れであると決め付けるにはまだ早過ぎると思われる。十来村、十が来る村で十のきのへが来る戸来となったと言う事を、再度、資料漁りする必要があるように思われる。沢口館にあるキリストの墓の墓標には、キリストの墓と騒ぎ立てられる以前から十来塚とある十来は、その事に関係があったのではなかったろうか。「八戸の歴史」の中から読み取る時、九戸まで行き、もっと南下し、「遠野」に行く、そこが十戸(とおのへ)である。と言う説は、「とおの」で「へ」がないだけなので、成る程とも思われるが、当時の栅の考えからする時、「へらいのこうり」にも、その当時、何かその事に関して、方向は違っても、十戸とするべき話題があった事を意味するものであるかも知れない。今後に残された課題と言えよう。
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