
青森県青森市浪岡大字女鹿沢野尻。
道の駅なみおかアップルヒルに隣接している西山公園。
西山公園展望台、コンビネーション遊具、りんご百人テーブル、ラベンダーの丘、観光りんご園等が整備されています。展示館しょうわ(旧増川営林署庁舎)もあります。
7月にはラベンダーまつりが開催され、冬季間はスキー場としてロープトウを運転しています。
りんごもぎとり園。

約1.2ヘクタールの園地に約50種類のリンゴを植える「アップルヒル観光りんご園」では、時季によって異なる品種の収穫体験ができるそうですが…季節外れのためりんごもぎとりできず。


植木・黒土・砂土直売。

アップルヒルの母子像。
作者は青森市の彫刻家田村進氏。

『1963~1994.青森市柳町グリーンベルト薔薇園に設置。1994~柳町通り拡幅整備事業により公団から撤去を要請される。好意により月見野の石材店に保管中、地震によって台座と共に落下、6割方破損、そのまゝ10年余り放置。'06年8月、像の所在を問う多くの声に押されて復元を決意する。2006.10~青森市浪岡アップルヒルに復元像を設置(73歳)。』

コンビネーション遊具。

うん?
怖っ!夜なら相当怖っ!こちらも田村進氏の作品のようです。
「道」
「愛(ロマン、ロラン像)」
「知(パスカル像)」
道の駅なみおかアップルヒルはいつも激混み。
西山公園展望台へ向かいます。

りんご百人テーブル。
下から見た時はわかりませんでしたが…
ハートになってました。
りんごじゃないよね!?ハートですよね!?
展望台まで行かなくても十分いい景色ですね。
スキー場。

展望台が見えてきました。

西山公園展望台。
車で来ることも可能。

展望台へ。

高所恐怖症は発動しないレベルの展望台でした。
この日は岩木山見えず。
いい所ですね。
気持ちがいいです。
展望台の近くにある相澤良の顕彰之碑。

相澤良の顕彰之碑…『1910年5月15日、青森市吉野田に生まれる。治安維持法による弾圧に屈せず、反戦・平和、働く者のくらしと権利を守りたたかう。拷問、投獄にも信念を貫き、死に至るまでたたかい続けた。1936年1月26日、25歳8ヶ月の生涯を終える。2006年5月20日相澤良を語り継ぐ会・治安維持法国賠同盟青森県支部』


相澤良。Wikipediaより一部抜粋…相沢 良(あいざわりょう、明治43年〈1910年〉5月15日-昭和11年〈1936年〉1月28日)は、日本の女性平和運動家、共産党活動家。青森県南津軽郡野沢村(現在の青森県青森市)吉野田字木戸口2番地に生まれる。相沢家は3代続く藩医の家であった。家族は、父・武良、母・秀、祖母、姉・千代、妹・京、弟・企救麿。父の助手や看護婦も住み込みで働いていた。1923年(大正12年)4月、県立青森高等女学校に進学。小学生当時の相沢良は、2つ年長の青森高女の姉・千代と同級生で仲の良い淡谷のり子が遊びに来ていて、出会っている。1927年(昭和2年)3月卒業後、英語を習得するため黒石の親戚の家から弘前女学校に1年間通う。夏休みには、黒石でのエスペラント語の学習会に参加した。このころから社会主義思想に傾倒する兆しを見せ、父が心配して様子をうかがいに来たこともあった。1928年(昭和3年)4月、帝国女子医学専門学校に進学。夏休みが終わると、学生運動や当時すでに非合法とされた社会科学の研究会に参加する。また、秋にはエスペラント語のサークルを結成している。1929年(昭和4年)、2年次に進級した良は学内の日本共産青年同盟(共青)班で一番の活動家となっていた。だがこの年に起きた四・一六事件によって共産党中央組織が壊滅したため、活動の中心課題は工場内に共青班をつくることに移行した。10月から翌年1月にかけて、良はカンパ資金を街頭で党員に手渡す任務を担っている。また、下宿に同志をかくまってもいた。1930年(昭和5年)、3年在籍時に退学処分を受ける。このころの良の活動はすでに学外が中心で、青森無産青年同盟に共青の準機関紙『無産青年新聞』を送付していた。退学後は目黒駅近くに下宿して横浜の紡績保土ヶ谷工場の女工となり、日本労働組合全国協議会(全協)日本繊維労保土ヶ谷分会を組織する。1931年(昭和6年)1月、工場での活動のため戸部警察署に検挙される。その後の取調べで良家の子女であることが判明したため1か月ほどで釈放され、父に引き取られる。五林平の実家では、自分ひとりだけ同志より早く解放されたことに悩み、4月上旬まで五所川原市の親戚に預けられる。6月中旬に東京へ戻ると、北千住の宇佐美紙器工場で働くが、7月下旬に五郷村青年訓練所ストライキの首謀者として上野憲兵隊に検挙され、青森県警察特別高等課に引き渡される。しかし良はこの件とは無関係であり、8月下旬に浪岡警察署から釈放される。9月18日以降、姿をくらました良は青森市を中心に地下活動を行うが、特高の捜査の手が伸びてきたため、札幌で暮らす姉・高松千代を頼ることに決める。1932年(昭和7年)1月、良は姉の家に同居しながら、映画会を通じて同志となる佐藤千代・松島(柄沢)とし子と知り合いになる。3月からは姉の家を出て転居を重ねつつ、4月上旬には東京の共青中央部に出向いて青森県オルグに任命され、『無産青年新聞』などの機関紙配布組織再建に従事する。一方で札幌においては、7月ごろ佐藤千代とともに、苗穂の古谷製菓工場の女性労働者や陸軍糧秣支廠札幌派出所の保育士らを組織している。古谷製菓工場の女性たちとは、3回ほど平和の滝近くでハイキングを行っており、これが後にその地に記念碑が立てられる契機となった。10月、全協札幌地区協議会準備会が開催される。委員長兼書記局長は樋口鶴雄だったが、協議会の実質的な責任者は常任書記の良だった。松島と佐藤も常任委員に名を連ねている。翌年1月には、もともとの産別責任担当(繊維・化学・食糧)に加えて財務部長と組織部配布係をも兼任するようになったため、良の活動は多忙を極めた。1933年(昭和8年)4月4日夜、道警により検挙され、拷問による取調べを受ける。翌朝には美唄警察署に送られて引き続き拷問を受け、8月上旬に札幌刑務所兼拘置所に移送される。9月に起訴され、翌1934年7月27日、札幌地方裁判所で懲役4年の判決を受ける。控訴したものの第二審でも同じ判決となり、上告はせず刑に服する。1936年(昭和11年)1月中旬、姉が面会に来たときの良は、1か月近く食事ができずにやせ細り、高熱に苛まれていた。「出してもらうには、これまでの所業が悪かったと言わなければならない。でもそれでは皆に語ったことが嘘になってしまう。だからここで死のうと思っている」と語る良に対し、姉は周囲に聞こえるような大声で「あなたはここで死になさい」と答えた。この発言が刑務所長を驚かせ、1月21日、良は急遽両親に引き取られて出獄した。それから7日後の28日、青森県北津軽郡沿川村(現板柳町)の父母の家で、25歳8か月で生涯を終える。札幌市西区の琴似発寒川の流脈にある滝、平和の滝の入り口の横には、相沢良の顕彰碑が建立されている。また、青森県青森市浪岡の道の駅の上にある花岡展望台の前にも、相沢良の顕彰碑がある。

相沢良の青春(碑文)…『1910年5月15日、青森県野沢村吉野田(浪岡町)で医師の父武良、母秀の次女に生れる。17歳でエスペラント語と社会主義をまなび、戦争と搾取のない人間平等の社会をめざして生きる決意をする。28年10月、帝国女子医専に在学中、共産青年同盟に加盟、29年後半は共産党の再建に協力する。30年夏に医専を中退、横浜で紡績労働者になって全協繊維労組で活動中の31年1月、戸部署に検挙される。31年5月、弾圧で火の消えた青森で共青の地下活動に入る。五郷村青年訓練所の反戦ストライキで指導者と見られ、8月に検挙され浪岡署に送られる。中国侵略戦争が起きた9月、姿を消して青森市に入る。謄写刷りの「赤旗」を回読して若い同志たちを励まし、刻々と検挙の危険が迫る中で約3ヶ月、反戦活動をつづける。12月下旬、日本髪と赤い手甲の嫁入り娘の変装で特高の追及をのがれ、雪景色の津軽海峡を脱出する。32年2月、札幌で学習会を組織。5月、全協札幌準備会を結成、女性の多い各工場に組合員を拡大する。実名も経歴も秘めて指導力を発揮、化粧せずに日焼けして、「クロさん」と敬愛されていた。7月、札幌郵便局の同志と連絡がついて全協札幌地区を再建、共産党の「32年テーゼ」なども増刷りして配布する。33年1月、東京の全協中央と連絡がついて労組の闘争や反戦活動が高揚する。2月20日、小樽出身の小林多喜二が東京で虐殺され、札幌でも弾圧の中で追悼集会が開かれる。33年4月、札幌を中心に230名が検挙される。北海道で3・15弾圧に次ぐ検挙者数。指導者の相沢良は美唄署で連日の拷問に屈しなかった。裁判でも侵略戦争と弾圧を糾弾して闘い、一審、二審とも関係者で最高の懲役4年の刑で札幌の刑務所に投獄される。重病の獄中から父への手紙で「真理は主観でゆがめる事はできない」と、転向を拒否する。36年1月、肺エソの重篤状態で出獄、父母と共に大雪の津軽野に馬ゾリで帰る。7日後の1月28日、板柳町五林平の家で死去する。反戦平和と人民解放に捧げられた25歳8ヵ月の生涯で、その最後まで生きて、闘い抜くことを考えていた。拷問の傷跡が残る遺体は、雪原の夜空に赤あかと燃え上がる浄火で火葬された。人間愛と知性にみちた約20通の獄中書簡が残された。津軽が生んだ最良の娘であった。(山岸一章・記)』

あの森が気になりますね。

私くらいのレベルに達すると長年の勘でわかるんですよね。あそこには恐らく神社もしくは何らかの小祠か石碑等があると…

何もありませんでした。



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