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青森県三戸郡南部町大向長谷。
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南部町の町の花「ぼたん」
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長谷ぼたん園の由来…『この長谷ぼたん園は、隣接する恵光院の檀家一行が、総本山である奈良県桜井市の長谷寺からぼたんの苗を譲り受けたのをきっかけに、昭和54年から南部町(現南部町)がふるさとづくりの一環として、「町民一人一本」を合言葉に整備に取り組んできたものです。平成13年には環境省「かおり風景百選」に認定され、見ごろとなる5月下旬から6月上旬、華麗に咲き誇る大輪の花は、忙しさと雑踏の中に生きる私たちの心に癒しと潤いを与え、訪れる人々を魅了します。南部町ぼたんまつり実行委員会』
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長谷ぼたん園の長谷ぼたんまつり!
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訪れたのは5月下旬。
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2024年5/14~26のまつり期間でしたが…
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完全に出遅れました。
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5月中旬~6月上旬が見頃なのですが、暴風と暑さの影響で5月20日から散り始めたようで(※5月16日満開)…
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5/25以降は園内無料開放となっていました。
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不幸中の幸い…
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いやいや、お金を払ってでもぼたんを見たかったんじゃ!
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ってことで辛うじて咲き残っているぼたんまつり。
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名久井岳県立自然公園の中腹に位置する長谷ぼたん園は、昭和54年から町で整備に取り組み、3.3ヘクタールの園地には130種8,000本のぼたんが植栽され、その規模は東北有数と称されています。
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平成13年には環境省「かおり風景100選」に認定され、見ごろとなる5月中旬から5月下旬には、華麗な大輪の花がゆったりと微笑み、毎年、県内外から多くの観光客が訪れます。
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かおり風景100選「伝えたいこの香り、残したいこの風景」…『環境省では、豊かな香りとその源となる自然や文化・生活を一体として将来に残し、伝えていくため、「かおり風景100選」を選定しました。100選には、花や樹木、潮風、温泉、みかん、カボス、りんご等の果物などの自然の香りのほか、にかわ、墨、線香、茶、塩わかめづくりなどの伝統工芸や地方の特産などに関わるものなど様々な「かおり風景」が選ばれ、当町「長谷ぼたん園」も選定されました。今後も、より一層この「長谷ぼたん園」が皆様から愛されるよう努力していきたいと思います。平成13年11月12日認定』
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眺望(看板)
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景色のいい場所です。
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とりあえずアップルパイだけはしっかりとゲットして(写真撮り忘れ)…
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シャクヤク園へ。
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シャクヤクは見頃でした。
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シャクヤクとボタンの見分け方は開花時期・香り・葉の形・蕾の形・散り方と色々ありますが、個人的に一番分かりやすいところでは、牡丹は樹木でシャクヤクは草という点。
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コリー!
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恵光院へ。
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由緒等は前回の記事も参照ください。
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前回の記事『恵光院 (南部町)
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大向は馬淵川右岸の平坦地から名久井岳山麓一帯の丘陵地にかけて位置。地名の由来は定かではありませんが、向はアイヌ語のムクアップに由来し、あそぶ草の意で食用草からきたともいいます。隣接する小向に対応。縄文時代遺跡も名久井岳山麓に分布しており、後期の佐野平遺跡、晩期の下比良遺跡・川代遺跡が著名。集落の東、恵光院へ至る途中の山腹の下比良には、南北長期の伝説を秘める南朝3代長慶天皇の墓と伝承されている有末光塚がありました。今は宅地造成で跡形もありませんが、高さ約6尺・周囲16間、上中下の三層をなし、四方に堀跡もあったと伝えます。長慶天皇は北奥の南朝勢力の中心であった根城南部氏を頼って当地方に潜幸し、長谷に行宮を置き、当地で没したとも伝えます。
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南北朝期に見えるおほむかゑは糠部郡三戸のうち。元弘4年と推定される2月2日の南部師行書状に「ひしやもんたうのちの事、おほむかゑのうち、やすた二郎か屋しき、をなしくそのまへに候はたきそへてまゐらせ候」と見え、当地内の屋敷・畠が毘沙門堂に寄進されています。この頃の当地は根城南部氏の支配下にあり、南部師行の所領があったものとみられます。戦国期に三戸南部氏の支配下に入り、地内の大向館(別名鎧神館)は同氏の居館の1つであったといいます。
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江戸期以降の大向村は三戸郡のうち。盛岡藩領。三戸通に属します。村高は正保郷村帳139石余(田39石余・畑99石余)、貞享高辻帳174石余、邦内郷村志207石余(うち給地197石余)、天保郷帳975石余、天保8年御蔵給所書上帳210石余(御蔵高32石余・御免地高3石余・給所高175石余)、安政高辻帳782石余、旧高旧領233石余。仮名付帳には枝村として赤石村・沖田面付が記されていますが、邦内郷村志及び旧高旧領ではそれぞれ独立した村とされます。邦内郷村志では家数84、集落別内訳は大向75・長谷6・小浪田3、馬77。本枝村付並位付によりますと位付は上の上、家数78、集落別内訳は本村74・長谷4。名久井岳の北東麓一帯に藩営牧の住谷野が設けられ、当村の東には木戸口がありました。集落の中央には長谷山神社があり御祭神は伊佐那岐命で旧村社。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県所属。明治初年の家数は本村101・長谷6、地味は中の中、田は稀少、茄瓜・果樹を栽培するといいます。明治12年の井武政表によりますと、戸数110・人口609(男326・女283)、学校1、馬115、物産は米・麦・雑穀・麻糸・蔬菜。明治10年大向小学が開校しており同12年の児童は男43。同年三戸~向間に住谷橋が完成。同22年向村の大字となります。
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昭和30年南部村、同34年からは南部町の大字。明治24年の戸数118・人口749、学校1。同年日本鉄道(国鉄東北本線)が開通し三戸駅が設置されまいた。大向尋常高等小学校は明治34年、大正10年、昭和2・12年に校舎を新増築。大正15年小向尋常小学校及び二又分教場を併合。昭和22年向小学校と改称。同37年に沖通小学校を、同45年に二又小学校(昭和26年向小学校から独立)を併合。昭和22年向中学校が向小学校に併設されて開校し、同28年校舎の第1期工事が落成して移転。同36年平良崎中学校と合併し南部中学校となりました。昭和33年恵光院天狗杉が県の天然記念物に指定。
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長谷十一面観世音菩薩へ。
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こちらも前回の記事を参照ください。
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観音堂。
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石灯籠一対。
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手水石。
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観音堂内。
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観音堂前の案内板より…『【十一面観音立像一躰(青森県重宝・昭和33年1月22日指定)】蓮台山長谷寺(真言宗)の本尊仏であった十一面観音は藤原時代の製作であろう彫技にその特色が見られるが頭部にあとで手を加えたような遺憾がある。県下現存の仏像中最古といってよい一つで技法も優れている。この像は長慶天皇の御姿であろうという言伝えや長谷寺を移した時の伝説がある。いまある寺は長谷寺の別当寺宝珠山恵光院のあとである。【笈一個(青森県重宝・昭和33年1月22日指定)】長慶天皇の御料だったと言伝えられた笈である。室町時代末期頃の製作であろう。扉に桐の薹、雷文の文様を刻んである。県下にこの類の遺品が少く美術品としてよりは民俗資料としての価値が高い。【順礼札一枚(青森県重宝・昭和33年1月22日指定)】450年程前永正9年(1512年)観光上人が八葉山天台寺桂清水観音を第1番に、この長谷寺を第33番にきめて順礼した納札である。当南部町隅の観音(普門山円福寺)に第6番、七戸町金鶏山長福寺(見町観音)に第13番の2枚あるが、最終のであるため特に荘厳されている地方文化史の資料である。「入相のかねのひびきも松風もいづれをきくも法の御寺ぞ」南部町教育委員会』
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観音堂周囲。
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馬頭観世音。
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白山妙理大権現・八幡大菩薩(領内安穏諸人快楽の為、二八善神・常在守護)
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奥の院へ。
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奥の院。
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十一面観音立像一躰(青森県重宝・昭和33年1月22日指定)…『恵光院(元長谷寺)の御本尊であり、古くから信仰され奥州糠部郡三十三番、観光上人の順礼札が同院に所蔵されている。この十一面観音は、11世紀(平安初期から中期初頭)ごろの作(鉈彫り)といわれ、青森県内で作られた最古の仏像として、昭和33年県重宝の指定を受けた。観音菩薩は、三十三に姿を変えて衆生のあらゆる願いに応えてくれるという。十一面観音は奈良中期ごろから作られ、十一面観音の名は、その像容が本面の上に十ないし十一の面を持つところからきている。昭和62年、保存修理を施され、同63年7月完成したこの奥の院に安置された。』
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