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青森県東津軽郡平内町福館雷電岸55。平内郷総鎮護、使姫(白鳥)渡来地。
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汐立川に架かる雷電橋。
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菅江真澄が次のように記しています…『浜子というところを来ると、沼館といって家が二軒あるあたりから、雷電の林はたいそう近い。以前、ここを通ったときは、つれだった人が道をいそぎ、こころあわただしく過ぎて詣でなかったので、このたびはと鳥居をくぐった。木深い森の下道を二町ほどくると、潮たて川といって、潮が満ちるとたいそう深くなる御手洗川があり、その渡りは一里あまりとか、遠く水をへだてて見わたすところにある神社である。(中略)むこうの海辺に浅所という村があるが、渡し舟を呼んでも聞こえそうもないと、案内のひとが言った。』
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よって昔は橋を渡って相当な距離に神社の入口となる一の鳥居があったと思われます。また、続けて次のように記しています…『別の方向から詣でる道があるというので、ここを出てきて道をたどり、神明の祠を拝んでから、小湊に来て雷電社の由来を尋ねようと、その神社に仕えている雷電山日光院という修験者のもとを訪れた。験者の言うことには、「ころは大同二年とか、田村麿が創建されて、加茂(京都の)をうつし奉ったのであるとだけ聞いている。その由来を記した文などは、火災にあって失った」とのことであった。』
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浅所海岸松島。
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過去の記事
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福館は陸奥湾に突出する夏泊半島基部の東に位置。当地には天文年間に南部氏の一族である七戸修理が居住していたという館がありました。地名の由来はこの館と関係があるとも考えられています。江戸期の福館村は津軽郡田舎庄のうち。はじめ弘前藩領、明暦2年分家黒石領、文化6年からは黒石藩領。村高は「明暦2年検地帳」41石余(田37石余・畑3石余・屋敷1石余)、「寛文高辻帳」162石余、「元禄2年郷帳」では平川村と合わせて141石余(田130石余・畑6石余・屋敷4石余)、「寛保高辻帳」・「天保郷帳」ともに162石余、「旧高旧領」256石余。「明暦2年検地帳」によりますと、田は中田・下田があり、畑には主に大豆・麦・麻などが植えられていました。文政10年の戸数5・人口31。小湊川の左岸には雷電宮が鎮座しており御祭神は別雷命、文禄3年に福館城主七戸隼人が造立したと伝えます。社伝によりますと、大同2年坂上田村麻呂が建立したとも伝えられています。明暦2年黒石領分知の時に造立し直し、その後延宝元年には出火により社堂並びに棟札縁起等々を焼失、翌年藩の費用により再建、明治6年3月郷社に列しました。明治4年黒石県、弘前県を経て、青森県所属。同11年東津軽郡に属します。明治初年の「国誌」によりますと村況は「村家小山の腹にあり。田多畑少し。土は下。能隙炭を焚て生活の補とす」と見えます。なお、同書によりますと本村の北3町のところに支村平川があり、戸数11と見えますが、平川村は「元禄郷帳」や「天保郷帳」には独立して村名が見えており、「旧高旧領」には見えず、また「国志」では当村の支村となっていることから江戸末期に当村に吸収されたと考えられます。明治12年の「共武政表」によりますと戸数21・人口147(男71・女76)、馬36、物産は米・薪・炭。同22年中平内村の大字となります。昭和3年には小湊町、同30年からは平内町の大字。明治24年の戸数19・人口142、厩15、船5。同29年小湊小学校浅所分校設置。大正14年同分校は昇格し、新たに浅所尋常小学校が開設されました。当地に伝わる平内の七不思議の1つに「福館の地震知らず」があります。現在も他の地域より地震の規模が弱く、昭和43年の十勝沖地震の時も被害はほとんどなかったといいます。昭和31年に小湊地区の水道工事が完成し、同40年当地区にも水道管の延長工事が施されました。字雷電林の小湊川河口の三角州となった所にある松島には大白鳥が渡来することで有名。昭和27年にはこの白鳥及びその渡来地として、国特別天然記念物に指定されました。
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パンフレットより…『【御祭神】別雷命【御祭神御事歴】神武天皇御東征の砌皇軍を響導し給ひし 賀茂健角身命の御孫にして、専ら国土を開拓経営守護し五穀を豊饒ならしめ給ひ、殊に延喜臨時祭式の祈雨神なるを以て歴朝祈雨その他天変等に際しては御祭神に御祈願あらせられ、その霊験の顕著なるは国史に載せて炳焉たり。大神の御神徳を称えてその御神威により五穀豊穣・海上安全豊漁・雷難除去・諸願成就を願ふ遠近の崇敬が厚い。【鎮座地】青森県東津軽郡平内町に鎮座し、境内面積は八千余坪にして外に境外地あり。神域は海岸に続く平坦な地なるもブナの原生林で植物学上珍しいと云われ、歴史を語る老杉聳え、小松島浮ぶ海辺に使姫白鳥が舞ひ遊ぶ名勝地である。【御由緒】桓武天皇の御宇延暦20年奥州の夷賊高丸、大墓、盤貝等謀反により朝延坂上田村麻呂に勅して征討せしめ給ふ。然るに夷蝦等妖術を以て屡々官軍を悩しければ田村麻呂神仏の冥助により此の賊を平げんと多くの社寺を建立せり雷電宮は其の一なりと。初め南部の某地に建立せしが何時の頃にか東岳に移し奉り、後東岳の寺院離散せしとき平内の荒田内(今の盛田)に奉遷せしが、洪水の為め祠宇流れて現今の地に漂着せりと。之を以て遂に此の地に祀れりといふ時に文禄3年にして福館城主七戸隼人遷座せりと。藩主の尊崇厚く度々の御造営御寄進御参詣あり。明治4年小湊神社と改号、明治6年3月郷社に列せられ、同年5月大雷神社と改称、明治12年4月雷電宮と復称許可せらる。明治24年現御社殿御造営、同25年遷座祭斎行す。昭和44年明治維新百年記念に境内整備・神輿殿・境内社稲荷神社・守札授与所等を御造営す。【境内社】郭内稲荷神社 龍神宮【主要祭典】歳旦祭1月1日、祈年祭(御籠り)1月14日、建国記念祭2月11日、使姫祭(白鳥祭)3月上旬、例大祭5月15日、送蝗祭6月中旬、大祓式6月30日、祖霊祭7月中旬、夏季大祭宵宮8月14日、夏季大祭8月15日、(御神輿渡御祭)8月中旬、風神祭9月1日、七五三祭10月15日、秋季大祭旧9月15日、新穀感謝祭11月23日、船霊祭12月11日、大祓式除夜祭12月31日、月次祭毎月1日15日。※境内社…郭内稲荷神社大祭宵宮旧6月9日、郭内稲荷神社大祭旧6月10日、龍神宮春季大祭6月19日、龍神宮秋季大祭11月19日【使姫白鳥】古来より松島浮ぶ境内海岸に飛来する白鳥は、雷電宮の使姫として数々の奇瑞を顕し崇めらる。天正年間に南部勢押し寄せるの報に、七戸修理戦勝を当社に祈願せし折数千の白鳥飛来せり。南部勢は津軽の授軍来ると誤見し途中より引返せしため、城主七戸隼人は難を逃れ以後白鳥を神使と崇めその殺傷を禁ず。以来常に境内に群集し人をも恐れざりき故に郷内の人々その羽毛を以て造りし器具迄も用ひることを忌む。明治20・33年及び大正10年に雷電宮にて白鳥の捕獲禁止・禁猟区の設定等白鳥保護の必要性を関係省庁に具申し、又傷病白鳥の保養施設を設くる等信仰と保護に力を尽し来れり。大正11年3月8日に天然記念物として指定され、昭和26年12月26日に特別天然記念物の指定を受く。境内に白鳥塚あり古来より悲しくも仆れし白鳥はこゝに厚く葬り慰霊の祭を行ふを例とす。大正11年10月11日大町桂月当宮に詣で、「白鳥の羽音と共に千代まても御稜威絶えせぬいかつちの宮」と詠めり。境内にその歌碑あり。【汐立川と伝説】寛政7年3月に菅江真澄当社に詣で社前の汐立川の河辺にて「いさ清き加茂の河浪うつしても深き恵のかゝるかしこさ」と詠んでいる。汐立川は古くから祓川として禊の場にされ、岩木山神社登拝のときなどもこの川で禊をしていた。文禄年中福館の城主七戸修理の息女が行衛知らずになったので修理大いに悲み、社前に詣でて其の所在を示し給へと祈請したところ不思議にも汐立川7日の間昼は煙立ち夜は火焰上る。或夜1人の婦人城門を叩き修理に謁して申すに、余は汐立川の河童なるが去る頃過て息女を溺殺したので、只今神罰を蒙り河水沸騰して身を寄せる所がない。爾後此の河中で人間に害を加えることはない希くは神に謝して一命を助け給へと云ひ立退いたと、(古老伝ふるに当時河童謝罪証文を草し神前に奉ったが後世鼠害に罹り失ったと云ふ。)8月14日宵宮祭の燈籠流は有名で、御神慮を和め奉り祖霊を慰め奉るため千余の燈籠がこの川に流され川面に映え美事な眺めで遠近の参拝者で賑ふ。【相生の杉欅】古くから夫婦神木として祈願者が多く夫婦和合、家庭円満、また子宝恵授の神助があると厚く信仰されている。【御神輿と神幸式】天明元年8月当宮御神輿渡御祭始まる爾後毎年以て例とす。是より先東福寺の僧上京せしが6日帰りて神輿及び地蔵尊其の他憧幡天狗面等を寄附せり。是により藩主より其の奇特なるを褒賞せられ8月15日祭事執行いたすべき旨達せらる。明治42年7月小湊大火に依り御神輿を焼失す。大正15年8月神輿及び威儀物新調し併せて御神輿殿及び御旅所を新築し御神輿渡御を復興す。総経費7千余円にして三平内郷中の奉賛による。この神幸式には古来優雅な祇園囃が奏される山車が供養し獅子舞権現舞剣舞等の郷土芸能も奉祝供奉し荘重にして賑々しく町内を神幸す。【廓内稲荷神社と御旅所】御祭神:宇迦之御魂神。御由緒:万治3年黒石藩平内代官所廓内(現在の小湊元町)に士族新岡佐五右エ門が創建す。藩籍奉還後川原町に奉遷す。この地は天正11年平内福館城主七戸隼人が地蔵尊を安置する御堂を建立し享保年中御本尊を東福寺に納め、後雷電宮御神輿の御旅所・時々の祭礼・祈禱所となった由緒深い境内である。大正15年雷電宮遙拝殿及び御旅所を兼ねた御社殿を造営す。昭和44年小湊川改修により境内の現在地に遷座す。【雷電宮関係諸団体】総代会、敬神婦人会、稲荷講、敬神青年会、雷電宮武徳館、敬神郷友会、雷電宮奉仕者顕彰会※加入その他については社務所にお問合せ下さい。【参集殿】風光明媚な境内に造営され、神社の色々な社務や祭祀の準備をし、又修養の場でもあります。氏子並びに崇敬者の研修・講習・会合・参籠・人生儀礼・慶事等にも利用され教化の殿堂であります。』
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社号標「雷電宮」(台座碑文…奉寄進氏子惣代:辻村勇吉、楠美榮吉、八重樫佐一郎、塩谷柾蔵、佐藤源松、能登谷重吉、辻村徳松、三津谷宇伊三郎、細川市三郎。氏子世話役:野坂安五郎、能登谷元八、福崎徳之助、久末彦八、七尾金二郎、木村與八郎、遠嶋辰五郎、寺嶋甚助、伊瀬茂八、飯田平蔵※自信なし)
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社号標裏面(皇紀二千六百年式典記念・昭和15庚辰年11月10日建之、高山松堂敬書)
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郷社雷電宮御由緒(御祭神・御祭神御事歴・御由緒・祭典日が書かれていますが…昭和44年12月建立のもので相変わらず見えにくかったので前回の記事をそのまま写し)。御祭神は別雷命。夏季大祭8月14日・15日。秋季大祭旧9月15日。御由緒は神社庁HPとほぼ同じ内容でした。青森県神社庁HPによりますと…『第五十代桓武天皇の御代、延暦二十年坂上田村麻呂将軍創祀と伝えられる◆往古蝦夷政策が進められた中に、征夷大将軍坂上田村麻呂公は東北経営にあたったが、奥州の夷賊高丸・大た基も・盤いわ具ぐ等が謀反し、妖術で官軍を苦しめたので、将軍神仏の冥助によって平定しようと多くの社寺を建立された。当社はその一社と云われる◆初め南部の某地に建立されたと伝えられるが、何時の頃にか東岳に祀られる。後東岳の社寺離散した時、荒田(今の盛田)に再建◆文禄二年、洪水の為祠宇流されて現今の地に漂着。文禄三年、福舘城主七戸隼人が此の地に遷座◆明治六年郷社に列せられる。明治二十四年現社殿竣工◆境内浅所海岸に飛来する白鳥を神使と崇める。また雷除の信仰も厚い。』
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鳥居。
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石灯籠一対(昭和59甲子年5月15日小湊飯田繁芳奉納)
14
14.5
参道。
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社務所・参集殿。
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神徳景行碑。
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手水舎。
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鳥居。
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平成17年11月9日、落雷により上部を失った降電大杉(樹齢350年以上)。
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参道。
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石灯籠一対(明治25年9月15日淺虫村願主蝦名伊右エ門)
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22.5
御祭禮再興記念碑(大正15年8月・平内郷中)
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明宮殿下御婚儀記念碑(明治33年)。
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雷電宮は旧郷社。御祭神は別雷神。小湊川の河口左岸に鎮座。大同2年に坂上田村麻呂の創祀と伝えます。当初南部の地にありましたが、いつの頃か修験の山東岳(青森市)に移り、更に荒田内(平内町盛田)に再建しましたが、洪水で流されて現在地に漂着したため、文禄3年福館城主七戸隼人が造営したといいます。文禄3年4月の棟礼写によりますと、「奉造立雷電宮本地文珠菩薩大主武運長久」「別当日光院三世延納法印」とあります。津軽黒石氏の崇敬を受け、明暦2年の黒石領分知の時に再建され、寛文2年には社料として米5俵が永代奉納されました。延宝元年に火災で社殿・縁起などを焼失しましたが翌年再建。例祭(5月15日)の平内御祭礼は天明元年東福寺(平内町小湊)の僧が神輿を寄進したことに始まり、神輿と山車の渡御があります。天明8年の菅江真澄紀行文「外が浜つたひ」に見え、寛政7年にも参拝しています(津可呂の奥)。別当の修験日光院はもと南部の地にあり、平内地方の寺社を管掌していたといいます。平内地方の総鎮守として明治に至り、明治4年小湊神社と改称、同6年には大雷神社と呼ばれました。同年郷社に列格。付近の浅所海岸に飛来する白鳥(国特別天然記念物)が神使とされており、昔福館城主七戸隼人が当社に戦勝祈願した時、多数の白鳥が飛来し、敵は驚いて引き返してしまったという伝説を残しています。当社のおかげで平内には雷が落ちないとも、信仰する者は落雷に遭わないともいわれています。
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石灯籠二対。
26
26.2
26.4
26.6
26.8
社殿前鳥居。
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狛犬一対(昭和27壬辰年)
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28.5
社殿。
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【雷電宮略年表】
延暦20年(801)創建
文禄2年9月(1593)現在地に奉遷
明暦3年(1657)黒石領主津軽信英公再建
延宝元年3月(1673)社殿罹災、縁起等焼失
延宝2年藩費を以て再建
元禄12年3月(1699)洪水の為雷電橋流失
明和6年(1769)当宮の新参道造る(現在の県道夏泊線)
明和7年3月拝殿並神楽殿建立
明和7年黒石家老境形右衛門、参道入口の大鳥居寄進
明和8年久末藤兵衛雷電橋寄進
天明元年8月(1781)当宮神輿渡御始まる
寛政7年3月(1795)菅江真澄参詣す
寛政10年(1798)津軽寧親公参詣
文化7年4月(1810)津軽寧親公従者288人従えて参詣
弘化4年4月(1847)拝殿並神楽殿新築
明治4年4月(1871)小湊神社と改称
明治6年3月郷社に列せられる
明治6年5月大雷神社と改称
明治12年4月雷電宮と復称
明治20年境内付近の「白鳥の捕獲禁止」を出願す
明治22年4月現社殿御造営
明治25年遷座式
明治33年白鳥の境内附近の禁猟区設定を出願す
明治40年4月神饌幣帛料供進社に指定される
明治40年11月氏子崇敬者雷電橋架替す
大正6年(1917)社殿屋根葺替、神楽殿新築
大正10年白鳥保護を関係省庁に出願す
大正11年3月白鳥内務省通達により「天然記念物」に指定される
大正11年10月大町桂月参詣する
大正14年5月白鳥飼養場建設する
大正15年御旅所神輿殿新築する
大正15年8月御祭礼(神輿渡御祭)復興
昭和3年10月(1928)本殿屋根銅板葺替
昭和15年5月社標、神明鳥居建立
昭和21年4月宗教法人令により設立登記
昭和26年12月白鳥「特別天然記念物」に指定される
昭和27年8月宗教法人法により設立
昭和30年3月小湊町(町長辻村秀雄)山林約一千坪寄進す
昭和30年5月本殿石垣改修並神橋新設
昭和38年4月境内西側に杉苗植樹(第14回全国植樹祭記念)
昭和39年11月雷電橋を永久橋架替
昭和43年11月龍神宮竣工
昭和44年明治百年祭により境内整備(社殿修造、稲荷神社、神輿殿、授与所等竣工)
昭和47年11月手水舎竣工
昭和51年11月大町桂月の歌碑建立
昭和53年神社本庁「神社振興対策指定神社」に指定す
昭和53年12月社務所参集殿竣工
昭和59年5月本殿屋根銅板葺替
昭和62年5月創祀1185年記念事業(社殿銅板葺替、記念誌刊行他)
平成元年5月禊場設ける
平成2年5月御大典記念事業(海岸鳥居、国旗掲揚塔他)
平成3年6月行政等神社介入(侵害)問題生ず「境内海岸強行埋立工事・歩道橋に伴う歩道押し付け・社前河岸目隠し埋立堤防計画」
平成4年「(5・11ヤラセ事件)、(7・1事件)」
平成5年12月無断立入杭打ち測量並国調事件
平成6年(9・7事件)
30
30.4
30.8
拝殿向拝神額。
31
本殿。本殿前の狛犬は前回の記事を参照ください。
32
「みつしほの浪のしらゆふあさな夕 かけていく世になり神の宮」菅江真澄
33
明治百年御造營記念之碑。
34
神輿殿(手前)・神庫(奥)。
35
授与所。
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神楽殿・武徳殿(武徳館)。
37
37.5
「敷島のやまと心をみがけ人いま世の中に事はなくとも」明治天皇御製
38
禊場前付近にある「ひらない海洋少年団」の船。
39
39.5
廓内稲荷神社鳥居。
40
末社。
41
参道沿い、禊場横にある雷電宮の手水石2基。
42
42.5
参道。
43
灯籠一対(昭和54年11月4日大祭日、奉製者畑井西義、奉献者飯田繁司・ひさ)
44
44.5
相撲場。
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「朝よひに物くふごとに豊受の神のめぐみを思へ世の人」本居宣長
46
拝殿。
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拝殿向拝神額「奉納廓内稲荷神社」(昭和51年)
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廓内稲荷神社…『【御祭神】宇迦之御魂神【御由緒】万治3年、黒石藩平内代官所廓内に五穀豊穣のため士族新岡佐五右エ門が創建。藩籍奉還後川原町に奉遷。この地は天正11年福館城主七戸隼人が、地蔵尊安置の御堂を創立。享保年中、御本尊を東福寺に納め、後雷電宮の御祭礼の御旅所等由緒深い所である。大正15年、雷電宮遥拝殿及び御旅所を兼ねた御社殿を造営。昭和44年、小湊川改修により境内現在地に遷座。【祭日】旧暦6月10日』
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大町桂月歌碑。
50
50.5
「白鳥の羽音と共に千代までも御稜威絶えせぬいかつちの宮」大町桂月
51
51.5
歌誌…『大正11年10月11日大町桂月先生雷電宮に参詣の折に詠じた和歌 揮毫者:山谷瑞峰 建立者:平内町史編さん委員長鬼柳恵照、日本民謡協会人位高橋竹山、平内町史編さん委員能登谷勇吉 昭和51年11月6日 旧9月15日秋季大祭佳日造立 石匠 番地芳荘』
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鬼柳恵照ってかっこいい名前ですね…あっ、高橋竹山!
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龍神宮。
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昭和43年11月龍神宮竣工。
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関連記事
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※菅江真澄遊覧記「津軽の奥」より一部抜粋…『3月22日(寛政7年、1795)津軽の島山(夏泊半島)に椿崎というおもしろいところがあると、かねてから聞いていたので、今ごろはちょうど花の咲いているところであろうと、見にでかけた。近川をわたりう、馬門の関所でいつものように関手をだして、やがて越えた。湯沢川≪山奥の出湯から流れてくる≫、さかい川≪南部と津軽の境界である≫を渡って、狩場沢のせきやに来た。みな、むかしとおった道であるが、そのおり拝まなかった菅大神の小さな祠に、陰陽石、雷斧石、雷槌石(石器)などという変わった形の石がおさめてあった。ほれさしという流れの早い川(堀差川)があり、丸木橋をわたった。口広村を経て清水川村にはいった。(中略)浜子というところを来ると、沼館といって家が二軒あるあたりから、雷電の林はたいそう近い。以前、ここを通ったときは、つれだった人が道をいそぎ、こころあわただしく過ぎて詣でなかったので、このたびはと鳥居をくぐった。木深い森の下道を二町ほどくると、潮たて川といって、潮が満ちるとたいそう深くなる御手洗川があり、その渡りは一里あまりとか、遠く水をへだてて見わたすところにある神社である。近いころまで橋がわたされてあったが、氷のために橋の柱が砕けて、橋けたもわずかばかり見えているだけになった。海の波がうち寄せるばかりで青海原がまぢかく、とても渡ることがむつかしいので、こちらの川岸で手を洗い、ぬかずいた。むこうの海辺に浅所という村があるが、渡し舟を呼んでも聞こえそうもないと、案内のひとが言った。別の方向から詣でる道があるというので、ここを出てきて道をたどり、神明の祠を拝んでから、小湊に来て雷電社の由来を尋ねようと、その神社に仕えている雷電山日光院という修験者のもとを訪ねた。験者の言うことには、「ころは大同2年とか、田村磨が創建されて、(京都の)加茂(神社)をうつし奉ったのであるとだけ聞いている。その由来を記した文などは、火災にあって失った」とのことであった。こうして、この里の問屋、宮島某とかいう人のところに宿をとった。(中略)山口というところに黒い山がある≪山口村に大槻が一本あり、槻の明神としてあがめられている。この木のほとりから藤沢村にかかり、三本の槻のもとを、むかし通った古道という≫。「わたくしの若かったころは、田植えの時に太鼓を打つ音がよく聞こえましたが、近ごろは誰も聞いた人はありません」などと案内人が語りながら、平川という村を過ぎると、年を経た林にはいった。例の古道であろう。ふたたび雷電の祠を拝んだ。ささやかな港≪ここをさして小湊の名があるのであろう≫をでると、浅所村であった。』

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