岩手県紫波郡矢巾町煙山第6地割。煙山ダム付近に駐車場があります。
宮沢賢治が愛した南昌山その2「山の石原」…『賢治は、明治42年、盛岡中学一年の時に、矢巾町出身の親友、藤原健次郎と南昌山を訪れ、最初にこの近くの石原に立ち寄った。現在は、煙山ダムの湖底となって見ることが出来ないが、この案内板のすぐ前方を岩崎川が流れており、その川原には白い石原があった。二人はこの石原で「のろぎ石」など色々な石を採集し楽しんだ。以来、二人はこの石原を度々訪れ、後にこの石原を題材とした作品を遺している。賢治は、大正4年、盛岡高等農林一年の時に、この石原を訪れ、夭逝した健次郎を偲びながら、次の短歌を詠っている。「まくろなる 石をくだけば なおもさびし 夕日は落ちぬ山の石原」「毒が森 南昌山の一つらは ふとおどりたちてわがぬかに来る」尚、この二首の短歌は、平成7年3月、石碑に刻み「水辺の里」の一角に建立している。また、童話「鳥をとるやなぎ」の中でこの石原を次の様に描写している。【抜粋】「さきに川原へ行ってみようよ…」・・・小さな川の白い石原が見えて来ました。・・・川原は割合に広く、まっ白な砂利でできてゐて、処々には、ひめははこぐさやすぎなやねむなどが生えてゐたのでした・・・』
新奥の細道「南昌山ふもとめぐりのみち」…『このコースは、大白沢橋から、昔、この地を治めていた斯波氏の家臣の館があったと言われる城内山、煙山ダム、矢巾温泉を経て、昔、マタギが南昌山に入山する際安全と狩猟の成功を祈った幣懸の滝、そして岩手県林業技術センターに至る7.3kmの散策歩道です。途中、城内山からの眺めは絶景で自然と歴史に触れることのできる自然歩道です。』
現在地。※ちなみに私が訪れた時は煙山ダム駐車場からは通行止めとなっており、迂回路から城内山山頂を目指しました。
迂回路入口にも新奥の細道の看板。内容は上記に同じです。
場所はここ(大白沢橋)です。
矢巾町煙山の城内山は標高328m。煙山ダムサイドから山頂まで徒歩で約30分。登山というよりはちょっとしたハイキング気分で登ることができます。入口にも「ハイキングコース」(2.5km)とあります。また、道中は特に何もなかったので紹介しません。ってことでいきなり頂上の写真。※気付きませんでしたが薬師堂があるようです。
城内山…『この一帯は、1335年足利尊氏により奥州管領となった斯波氏を迎え、郡内六十六郷と呼ばれていました。この城内山には、斯波氏の家臣の館である煙山館があったと伝えられています。また、山麓には、観音堂があり毎年2月第1土曜日には、顔に炭を付け合い、無病息災を祈るスミ付け祭りが行なわれます。』※文化財イラストマップ(矢巾町歴史民俗資料館)では実相寺側にある隣の山を煙山館跡としています。
展望台へ。
展望台からは盛岡市・矢巾町・紫波町を見渡せ、天気が良い日は岩手山や姫神山、早池峰山も一望できる絶景スポットとなっています。以下の写真は展望台からの眺望。
矢巾についてです。かつては矢羽場もしくは矢幅とも書きました。北上川右岸に位置しており、同川支流岩崎川が南流。西は奥羽山脈が重畳し、南昌山・金壺山・田沢山・東根山などが連なります。地名の由来は前九年の役で鎮守府将軍源頼義が安倍貞任を征する際、矢を作るために羽を集めた地であることによると伝承されています。江戸期以降の矢羽場村は紫波郡のうち。盛岡藩領。見前通に属します。村高は正保郷村帳162石余(田152石余・畑9石余)、貞享高辻帳191石余、天保郷帳999石余、天保8年の御蔵給所惣高書上帳では矢幅村と記されており1,006石余(北矢幅村339石余・南矢幅村335石余・又兵衛新田330石余)、安政高辻帳801石余。管轄地誌によりますと、貞享年間頃に当村が南矢幅村・北矢幅村とに分かれ、更に元禄年間頃に北矢幅村から又兵衛新田が分村したといわれ、邦内郷村志・本枝村付並位付・旧高旧領では南矢幅・北矢幅・又兵衛新田の3ヶ村の名が記されています。藩領内ではこの3ヶ村に分けて把握されていましたが、幕府に対しては矢羽場村一村として届け出ていたと考えられます。なお、北矢幅村は矢次村から分村したともいいます。
矢巾村は昭和30~41年の紫波郡の自治体名で、徳田・不動・煙山の3ヶ村が合併して成立。合併各村の22大字を継承。昭和32年藤沢の狄森古墳が県史跡に指定されています。同41年町制施行。矢巾町は村制時の22大字を継承。昭和50年広宮沢の一部から流通センター南1~4丁目が起立。世帯数・人口は同50年3,473・15,008(男7,165・女7,843)、同54年4,262・16,956(男8,232・女8,724)。農家の戸数・人口は、昭和45年2,002(専業247)・1万422、同55年1,962(専業140)・9,829、同57年1,951(専業134)・9,719。耕地面積は昭和45年田2,626ha・畑342ha・樹園地136ha、同55年田2,513ha・畑217ha・樹園地97ha。また、産業別就業人口の総人口における比率の推移を見ますと昭和35年第一次産業75.3%・第二次産業8.6%・第三次産業16.1%だったものが、同55年には30.2%・25.1%・44.7%と第一次産業と第二次産業の比率が逆転しています。煙山に昭和43年農業用灌漑ダムである煙山ダムが建設され、またラドンを含有する放射能泉矢巾温泉が湧出。同年西徳田の徳丹城跡が国史跡に指定。
以下、煙山についてです。
北上川の支流岩崎川流域に位置し、西部は急峻な山岳地帯で、南昌山・金壺山・城内山が続き、東部には鹿妻幹線水路が流れています。戦国期の煙山は戦国武士煙山氏の本拠地。斯波郡のうち。天正16年、煙山主殿は岩清水右京と通じて郡主斯波家に反旗を翻しました。斯波勢に囲まれた煙山館は飲料水を断たれて陥落。岩清水右京・煙山主殿は不来方に逃れましたが、南部勢の斯波郡攻略を機に城を奪回。煙山氏は後に八戸藩に仕えて250石を給されました。煙山の一族中には主家斯波氏とともに没落、京都・鹿角方面に逃れたものもあるといいます。煙山館跡からは今でも戦火による焼米・焼麦が出土するといいます。字城内の煙山館は東西200m・南北250mの平城。周囲に土居と濠があったといいます。今は民家となっているそうです。西北方には観音堂があります。西方600mの城内山は詰の城と推定(南部諸城の研究)。岩崎川北岸の川袋には座頭館があります。江戸期以降の煙山村は紫波郡のうち。盛岡藩領。向中野通に属します。村高は正保郷村帳141石余(田123石余・畑17石余)、貞享高辻帳165石余、邦内郷村志579石余(うち給地199石余)、天保郷帳579石余、天保8年の御蔵給所惣高書上帳579石余(御蔵高379石余・給所高199石余)、安政高辻帳464石余、元治元年の検地帳では758石余、旧高旧領も758石余。邦内郷村志では家数68(集落別では西屋敷5・馬場5・城内13・耳取8が見えます)、馬140。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数66、集落別内訳は本村29・西屋敷10・馬場6・城内15・耳取4・鳶ケ平2。元治元年の居屋敷92軒。同年の検地で地内にあった白沢の集落が白沢村に編入されています。南昌山は毒気を吹き出すことがあるため毒ケ森と呼ばれましたが、元禄16年頃に藩主によって南昌山と改められたと伝えます。地内の水田耕作に利用された用水は、岩崎川・木津が沢の水の他、いくつかの湧水と無数の溜池です。岩崎川の水は地内の大口と呼ばれる地点で二分され、一方は矢次堰として矢次村・矢羽場村を灌漑し、一方は当村において利用されました。この大口での用水の配分比率や分水点の位置を巡って古来から種々の紛争が生じていることは、文化4年と同13年の大口出入留帳によって知られています。大口から当村に供される用水は更に城内にある遠屋場で城内堰と大木堰に二分されており、水を巡る対立はここにもあったものと考えられています。宝暦13年の南部領控帳によりますと村内に用水堤が11か所あります。天保11年の諸雑用書留覚帳には鳥溜堤として5ヶ所(後田堤2ヶ所・下堤1ヶ所・赤堤2ヶ所)が記載されていますが、鳥溜堤は主として鶴・白鳥・雁・鴫・鴨・菱鳴などの渡り鳥をおびき寄せて撃ち、藩に納めるために特別に指定していた溜池。従って溜池は藩の任命にかかる鳥見ないしは献上討の支配下にありましたが、灌漑用水として用いることには格別の制限がなかったといいます。天保14年の諸雑用書留覚帳によりますと、当村と広宮沢村御献上御用堤のうち広宮沢村夏明御堤1ヶ所、当村後田堤2ヶ所と赤御堤1ヶ所の合計4ヶ所は諸鳥の降りることが少なくなったためにその指定が解かれており用水堤だけに転換されています。なお、天保11年の諸雑用書留覚帳によりますと、鳥見役が172人の御堤草払御人足のうち煙山堤5ヶ所に20人が割り当てられています。自然流水による灌漑用水は水田面積に対して飽和状態に達し、開田に伴って溜池が築造されたことが元治元年の御検地ニ付御村御改之節新堤御尋答向書留帳により知られています。同書によりますと松ノ木の集落に7ヶ所の私有溜池があり、築造年代の最古のものは寛政年間で、1人で5ヶ所を所有する者がいました。こうした溜池が築造され始めた時期は、盛岡藩が新田開発政策を強行したのに伴い、秣場や畑返しの開田がこの付近一帯に進展した時期に対応しています。津志田村から広宮沢村などを経て、郡内西部の山麓に沿って升沢村の志和稲荷神社に通ずる山根道(稲荷街道)は、中央を通る奥州街道が発達するにつれて利用度は大幅に減少し、僅かに志和稲荷への参詣人に利用される程度となり道が次第に荒廃。藩主南部家は利直以来、志和稲荷に対する信仰が篤く、直参や代参がしばしばあり、しかも直参の場合は百数十人の供を従えるのが通例であり、この道の荒廃は藩主の参詣にとって大きな不便をもたらすこととなりました。このため利済は天保5年手許金をもって改修工事を実施。志和稲荷御道筋絵図面によりますと、地内の野間津川(岩崎川)に一里塚が築かれ、奥州街道と同様にその上に榎を植え立てました。また、藩主一門の参詣途中における休憩所に当てるため村内の岩崎に御用屋敷が建設されました。人々はこれをお小休場と称し、往来の全盛期には「花の岩崎お小休み」と里謡にまで歌われたといいます。煙山館の麓にあたる城内山に三ツ割村の東顕寺末の曹洞宗実相寺があり、当地を領した煙山光邦の菩提所として建立されたと伝えます。南昌山大権現社は青竜大権現ともいわれ、明治初年毒ケ森神社と改めています。他地内に大木大明神社と観音堂があります。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同10年の村の幅員は東西約2里14町・南北約1里10町、税地は田70町余・畑196町余・宅地14町余・荒地6町余・鍬下19町余の計307町余。戸数98・人口564(男296・女268)、馬124、煙山学校の生徒数53(すべて男子)、職業別戸数は農業95、地内の上ノ野は東西1里・南北15町で広宮沢村に連なる秣場、また耐火粘土を産する鉱山が明治8年に開業され、物産は馬・鶏・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・粒荏・胡麻・黍・蘿蔔・胡瓜・茄子・桃・柿・栗・藺席・莚。同20年上矢次村に煙山小学校・下矢次小学校・赤林小学校の三校を統合した矢次尋常小学校が開校。同22年煙山村の大字となります。
煙山村は広宮沢・煙山・赤林・又兵衛新田・南矢幅・北矢幅・上矢次・下矢次の8ヶ村が合併し成立。旧村名を継承した8大字を編成。東西に細長い形をしていて村全体は地勢上から大体3つの地帯に分けられます。東部3分の1は水田地帯であり、そのうちでも東縁部は沖積層に属し、古来から水田が開かれ旧田地帯といえます。西の方へ次第に高くなり、赤林から矢幅にかけて断層があり洪積台地になっています。ここから鹿妻幹線水路までの緩やかな傾斜地は新田地帯といえます。大木・松ノ木・堤川目・広宮沢の旧田以外は昭和初頭以来の開田でありその中に畑が点在。また幹線水路から西へ盛岡営林署綜合苗圃の辺りまでは畑と松の散生地で大部分が畑作地帯。鳶ケ平・和山・野中・城内など畑作地と諏訪開拓地・広宮沢開拓地があります。更に西部は山岳地帯で北から赤林山・毒ケ森・南昌山・金壺山・城内山と南昌山を中心に連なっています。どの山も急峻であり、その東斜面から向田川・芋沢川・岩崎川などが東流し北上川へ注ぎます。中央を流れる岩崎川は水源の国有林の濫伐も禍して、アイオン台風で煙山・徳田両村の水田3,000町を水浸しにしたので3ヶ所に堰堤を築きました。明治23年に日本鉄道(国鉄東北本線)が東部を横断し、同31年又兵エ新田に矢幅駅が開設されています。県町村誌によりますと大正6年の戸数466・人口3,328(男1,749・女1,579)、田482町余・畑566町余・宅地61町余、職業別戸数は農業442・商業4・工業2・交通業1・自由業6・その他11。物産としては米6,414石・麦2,119石・大豆1,905石・小豆350石・粟1,570石・稗126石・蕎麦500石・馬鈴薯6万貫・大根4万8,000貫・藺草6,000貫・甘藍2,000貫・胡瓜1万5,000貫・茄子5,400貫・馬336頭、水産物として鯉285貫、製氷926t、工産物として畳表茣座406枚・瓦9,000・煉瓦1万500・藁細工類2,500円とあります。昭和29年の村勢要覧によりますと田931町余・畑251町余で、耕地の約8割が水田であり、大正期の田と畑の耕作割合から見ると水田化率が高くなっています。これは昭和初期に鹿妻幹線水路が村のほぼ中央部を北から南へ開通した結果、累年原野や畑を返して開田されたものです。村落構造の史的分析によりますと、農地改革直前において全耕地の54%に当たる622町の小作地が改革の結果は約6%に当たる66町に、また全農家の32%に当たる208戸の小作農家が僅か2.3%の15戸に激減。昭和29年には自作農は80%に達しています。同30年矢巾村の一部となり8大字は同村の大字に継承されました。
同41年からは矢巾町の大字。明治22年の戸数99・人口668。国有林野の経営は同32年の特別経営事業の開始以来本格的な林業経営へ転換。同37年に小休場付近に総面積61町をもって苗圃が設定。国有林特別経営事業の最盛期には30町の苗畑をもち、青森営林局管下最大の苗圃であったといいますが、天然更新法による育林法の採用、食料増産等によって一時荒廃。その後再び復活して昭和26年には苗畑18町、年間生産は300万本、雇用労務者は年雇5人、臨時雇313人、年間延べ1万9,615人という大規模なもの。北上川の支流雫石川からの水を引いてくる人工水路の鹿妻幹線水路が、昭和2年字松ノ木のほぼ中央を南北に貫通。これにより一挙に水田面積が増加。一家当たりの経営面積も増加して第二次大戦終了時には一家当たりの水田の経営面積は約1町6反、畑を合わせると約2町。同43年に通称四角野原六串田の地域に国営事業としての煙山ダムが完成。これにより岩崎川・大白沢川の洪水が無くなり、清水野開田80haと旧田の灌漑ができ、更に140万tの水をたたえ住民の憩える場ともなりました。これで完全に江戸期からの秣場や林野が消え生活様式も変化。その一例として南部の曲屋の屋根の原料とする萱も入手できず姿を消しました。同44年南昌山山麓の幣懸の滝近くからラジウム鉱泉「南昌の湯」を引き、鳶ケ平に町立国民保養センター南昌荘を完成。7月に祭事を行っている南昌山神社は毒ケ森神社が明治28年改名したもの。実相寺に城内観音堂本尊聖観音(焼観音ともいう)を奉安。焼観音のお年越は旧暦の12月17日の夜で、この日、城内集落の人達が城内山中腹の観音堂に集まり、杉の木の枝を積み重ねて「せあどたき」(祭灯焚き)を行います。木で造った二柱の観音仏を包むように円筒形に約3m以上に杉の枝を重ねて焼きます。焼け焦げた観音仏の灰を顔や手に塗りつけると火難は勿論のこと無病息災を得るという信仰が伝承されています。
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