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岩手県紫波郡矢巾町煙山第1地割。北の沢林道。
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宮沢賢治が愛した南昌山その4「南昌山神社」…『賢治が、大正6年に南昌山を描いた絵の中に、南昌山神社と思われる場所が示されている。信心深い賢治は、南昌山に登る際には必ずこの神社に参拝し、山に入る許しを得ると共に山での安全を祈願したと思う。この神社の歴史は古く、延暦22年(西暦803年)征夷大将軍坂上田村麻呂が志波城を築く頃、霖雨に悩まされ、築城が難行したため、山頂に社を建て祈願したところ、俄に雨が止んだと伝えられる。その後、嘉永2年(西暦1849年)盛岡の祇陀寺(ぎだじ)では、「祇陀寺縁起」の物語に基づき山頂よりこの地に神社を遷し、青龍権現を本尊とし「徳ケ森神社」と称した。明治28年7月、社掌が南昌山記の由来を神社庁に訴え「南昌山神社」と改称した。※嘉永2年に建立した時の棟札が残っており、それには「別当 祇陀寺十六世、大工棟梁 煙山善兵衛年治」と記録されている。』
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煙山についてです。北上川の支流岩崎川流域に位置しており、西部は急峻な山岳地帯で南昌山・金壺山・城内山が続き、東部には鹿妻幹線水路が流れています。中世では戦国武士煙山氏の本拠地。斯波郡のうち。天正16年、煙山主殿は岩清水右京と通じて郡主斯波家に反旗を翻しました。斯波勢に囲まれた煙山館は飲料水を断たれて陥落。岩清水右京・煙山主殿は不来方に逃れましたが、南部勢の斯波郡攻略を機に城を奪回。煙山氏は後に八戸藩に仕え250石を給されました。煙山の一族中には主家斯波氏とともに没落、京都・鹿角方面に逃れたものもあるといいます。煙山館跡からは戦火によるものか今でも焼米・焼麦が出土するといいます。字城内の煙山館は東西200m・南北250mの平城。周囲に土居と濠があったといいます。今は民家となっているそうです。西北方には観音堂があります。西方600mの城内山は詰の城と推定(南部諸城の研究)。岩崎川北岸の川袋には座頭館があります。江戸期の煙山村は紫波郡のうち。盛岡藩領。向中野通に属します。村高は正保郷村帳141石余(田123石余・畑17石余)、貞享高辻帳165石余、邦内郷村志579石余(うち給地199石余)、天保郷帳579石余、天保8年の御蔵給所惣高書上帳579石余(御蔵高379石余・給所高199石余)、安政高辻帳464石余、元治元年の検地帳では758石余、旧高旧領も758石余。邦内郷村志では家数68(集落別では西屋敷5・馬場5・城内13・耳取8が見えます)、馬140。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数66、集落別内訳は本村29・西屋敷10・馬場6・城内15・耳取4・鳶ケ平2。元治元年の居屋敷92軒(検地帳)。同年の検地で地内にあった白沢の集落が白沢村に編入されています。南昌山は毒気を吹き出すことがあるため毒ケ森といわれましたが、元禄16年頃に藩主によって南昌山と改められたといいます。地内の水田耕作に利用された用水は岩崎川・木津が沢の水の他、いくつかの湧水と無数の溜池です。岩崎川の水は地内の大口と呼ばれる地点で二分され、一方は矢次堰として矢次村・矢羽場村を灌漑し、一方は当村において利用されました。この大口での用水の配分比率や分水点の位置をめぐって古来から種々の紛争が生じていることは、文化4年と同13年の大口出入留帳によって知られています。大口から当村に供される用水は更に城内にある遠屋場で城内堰と大木堰に二分されており、水を巡る対立はここにもあったものと考えられています。宝暦13年の南部領控帳によりますと、村内に用水堤が11ヶ所あります。天保11年の諸雑用書留覚帳には鳥溜堤として5ヶ所(後田堤2ヶ所・下堤1ヶ所・赤堤2ヶ所)が記載されていますが、鳥溜堤は主として鶴・白鳥・雁・鴫・鴨・菱鳴などの渡り鳥をおびき寄せて撃ち、藩に納めるために特別に指定していた溜池です。従って溜池は藩の任命にかかる鳥見ないしは献上討の支配下にありましたが、灌漑用水として用いることには格別の制限がなかったといいます。天保14年の諸雑用書留覚帳によりますと、当村と広宮沢村御献上御用堤のうち広宮沢村夏明御堤1ヶ所、当村後田堤2ヶ所と赤御堤1ヶ所の合計4ヶ所は諸鳥の降りることが少なくなったためその指定が解かれており、用水堤だけに転換されています。なお、天保11年の諸雑用書留覚帳によりますと、鳥見役が172人の御堤草払御人足のうち煙山堤5ヶ所に20人が割り当てられています。自然流水による灌漑用水は水田面積に対して飽和状態に達し、開田に伴って溜池が築造されたことが元治元年の「御検地ニ付御村御改之節新堤御尋答向書留帳」によって知られています。同書によりますと、松ノ木の集落に7ヶ所の私有溜池があり、築造年代の最古のものは寛政年間で、1人で5ヶ所を所有する者がいました。こうした溜池が築造され始めた時期は、盛岡藩が新田開発政策を強行したのに伴い、秣場や畑返しの開田がこの付近一帯に進展した時期に対応しています。
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津志田村から広宮沢村などを経て、郡内西部の山麓に沿って升沢村の志和稲荷神社に通ずる山根道(稲荷街道)は、中央を通る奥州街道が発達するとその利用度は大幅に減少し、わずかに志和稲荷への参詣人に利用される程度となり道が次第に荒廃。藩主南部家は利直以来、志和稲荷に対する信仰が篤く、直参や代参がしばしばあり、しかも直参の場合は100数十人の供を従えるのが通例となっており、この道の荒廃は藩主の参詣にとって大きな不便をもたらしました。このため利済は天保5年手許金をもって改修工事を実施。「志和稲荷御道筋絵図面」によりますと、地内の野間津川(岩崎川)に一里塚が築かれており、奥州街道と同様にその上に榎を植え立てています。また、藩主一門の参詣途中における休憩所に当てるため、村内の岩崎に御用屋敷が建設されました。人々はこれをお小休場と称しており、往来の全盛期には「花の岩崎お小休み」と里謡にまで歌われたといいます。煙山館の麓にあたる城内山に三ツ割村の東顕寺末の曹洞宗実相寺があり、当地を領した煙山光邦の菩提所として建立されたと伝えます。南昌山大権現社は青竜大権現ともいわれ、明治初年毒ケ森神社と改めています。この他地内に大木大明神社と観音堂があります。明治元年に松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同10年の村の幅員は東西約2里14町・南北約1里10町、税地は田70町余・畑196町余・宅地14町余・荒地6町余・鍬下19町余の計307町余。戸数98・人口564(男296・女268)、馬124、煙山学校の生徒数53(すべて男子)、職業別戸数は農業95、地内の上ノ野は東西1里・南北15町で広宮沢村に連なる秣場、また耐火粘土を産する鉱山が明治8年に開業されており、物産は馬・鶏・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・粒荏・胡麻・黍・蘿蔔・胡瓜・茄子・桃・柿・栗・藺席・莚。同20年上矢次村に煙山小学校・下矢次小学校・赤林小学校の3校を統合した矢次尋常小学校が開校。同22年煙山村の大字となります。
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広宮沢・煙山・赤林・又兵衛新田・南矢幅・北矢幅・上矢次・下矢次の8ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。東西に細長い形をしていて村全体は地勢上から大体3つの地帯に分けられます。東部3分の1は水田地帯で、そのうちでも東縁部は沖積層に属し古来から水田が開かれ旧田地帯といえます。西の方へ次第に高くなり、赤林から矢幅にかけて断層があり洪積台地になっています。ここから鹿妻幹線水路までの緩やかな傾斜地は新田地帯といえます。大木・松ノ木・堤川目・広宮沢の旧田以外は昭和初頭以来の開田であり、その中に畑が点在。また、幹線水路から西へ盛岡営林署綜合苗圃の辺りまでは畑と松の散生地で大部分が畑作地帯。鳶ケ平・和山・野中・城内など畑作地と諏訪開拓地・広宮沢開拓地があります。更に西部は山岳地帯で北から赤林山・毒ケ森・南昌山・金壺山・城内山と南昌山を中心に連なっています。どの山も急峻であり、その東斜面から向田川・芋沢川・岩崎川などが東流し北上川へ注ぎます。中央を流れる岩崎川は水源の国有林の濫伐も禍して、アイオン台風で煙山・徳田両村の水田3,000町を水浸しにしたので3ヶ所に堰堤を築きました。明治23年日本鉄道が東部を横断し、同31年又兵エ新田に矢幅駅が開設されました。
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県町村誌によりますと大正6年の戸数466・人口3,328(男1,749・女1,579)、田482町余・畑566町余・宅地61町余、職業別戸数は農業442・商業4・工業2・交通業1・自由業6・その他11。物産として米6,414石・麦2,119石・大豆1,905石・小豆350石・粟1,570石・稗126石・蕎麦500石・馬鈴薯6万貫・大根4万8,000貫・藺草6,000貫・甘藍2,000貫・胡瓜1万5,000貫・茄子5,400貫・馬336頭、水産物として鯉285貫、製氷926t、工産物として畳表茣座406枚・瓦9,000・煉瓦1万500・藁細工類2,500円とあります。昭和29年の村勢要覧によりますと田931町余・畑251町余で、耕地の約8割が水田であり大正期の田と畑の耕作割合から見ると水田化率が高くなっています。これは昭和初期に鹿妻幹線水路が村のほぼ中央部を北から南へ開通した結果、累年原野や畑を返して開田されたものです。村落構造の史的分析によりますと、農地改革直前において全耕地の54%に当たる622町の小作地が改革の結果は約6%に当たる66町に、また全農家の32%に当たる208戸の小作農家が僅か2.3%の15戸に激減。昭和29年には自作農は80%に達しています。同30年矢巾村の一部となり8大字は同村の大字に継承。同41年からは矢巾町の大字。明治22年の戸数99・人口668。国有林野の経営は同32年の特別経営事業の開始以来本格的な林業経営へ転換。同37年に小休場付近に総面積61町をもって苗圃が設定されています。国有林特別経営事業の最盛期には30町の苗畑をもち、青森営林局管下最大の苗圃であったといいます。しかし天然更新法による育林法の採用、食料増産などにより一時荒廃。その後再び復活して昭和26年には苗畑18町、年間生産は300万本、雇用労務者は年雇5人、臨時雇313人、年間延べ1万9,615人という大規模なもの。北上川の支流雫石川からの水を引いてくる人工水路の鹿妻幹線水路が、昭和2年字松ノ木のほぼ中央を南北に貫通。それにより一挙に水田面積が増加。一家当たりの経営面積も増加して、第二次大戦終了時には一家当たりの水田の経営面積は約1町6反、畑を合わせると約2町。同43年に通称四角野原六串田の地域に国営事業としての煙山ダムが完成。これにより岩崎川・大白沢川の洪水がなくなり、清水野開田80haと旧田の灌漑ができ、更に140万tの水をたたえ住民の憩える場ともなりました。これで完全に江戸期からの秣場や林野が消え生活様式も変化。その一例として南部の曲屋の屋根の原料とする萱も入手できず姿を消しました。同44年南昌山山麓の幣懸の滝近くからラジウム鉱泉「南昌の湯」を引き、鳶ケ平に町立国民保養センター南昌荘を完成。7月に祭事を行っている南昌山神社は毒ケ森神社が明治28年改名したものです。実相寺に城内観音堂本尊聖観音(焼観音ともいう)を奉安。焼観音のお年越は旧暦12月17日の夜。この日、城内集落の人々が城内山中腹の観音堂に集まり、杉の木の枝を積み重ねて「せあどたき」(祭灯焚き)を行います。木で造った2柱の観音仏を包むように円筒形に約3m以上に杉の枝を重ねて焼きます。焼け焦げた観音仏の灰を顔や手に塗りつけると火難は勿論のこと無病息災を得るという信仰が伝承されているそうです。
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神社横にある南昌山登山口(前倉コース入口:上級者向けコース)
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参道に沿って鳥居前に聳える2本の巨木。
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鳥居。
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社殿。
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御祭神は於加美命。例祭日8月30日。
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南昌山麓にある南昌山神社は元は山頂にあったもので、水源守護の青竜権現を祀ったお宮でした。当神社は延暦年代に志波城を築く際、天候不順で工事が難航したために征夷大将軍坂上田村麻呂が南昌山の頂上に祈願したところ、雨がやんだことからお宮を造営したのが始まりと伝えられており、嘉永2年に山麓に移されて現在に至ります。
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由緒(神社庁より)…『里伝によると、延暦23年(803)造志和城使坂上田村麻呂が神託により竜神を祀り霜雨の厄を免れたが、後に本地垂迹の説が起こり、南昌山青竜大権現と称え、盛岡祇陀寺の管理するところとなった。明治初年(1868)毒ヶ森神社と改称、同28年(1895)現社名に改める。』
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拝殿内神額(昭和55年8月吉日、矢巾町長谷村長三郎※奉納者名省略)
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ちょっぴり下山し…
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矢巾町国民保養センター南昌の湯へ。
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結構メニューが豊富でした。山の麓なのに刺身定食までありましたよ。
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誰だってほんとうにいいことをしたら一番幸せなんだね!
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