岩手県紫波郡矢巾町煙山。銀河鉄道の夜の舞台、南昌山へ。
南昌山五合目登山口付近。
この先へと更に進めば東ノ又沢の滝や矢櫃ダム、つぼけの滝、堀合神社方面。
田沢山(4.3km)・東根山(4.6km)・縦走路入口もあります。

南昌山五合目登山口。
宮沢賢治が愛した南昌山その5「南昌山の肩」…『賢治は、盛岡中学、盛岡高等農林の学生時代に南昌山を度々訪れている。この五合目を「肩」と呼び、南昌山に登る者、雫石側に越える者の休憩地となっていた。大正6年、賢治が盛岡高等農林の三年生の時に南昌山に登り、この肩で一休みしたと思われ、短歌を添えた自筆の南昌山の絵が遺っている。』

賢治自筆の南昌山の絵(資料提供宮澤家)。絵の中に書かれた短歌「岩鐘の きわだちくらき 肩に来て 夕の雲は 銀の挨拶」※この絵には、賢治が健次郎と二人で石を採集した石原が描かれており、この日も石原で石を拾ったものと思われる。また、ここに辿りついた時は、夕方になっていることから、この日は野宿をしたと想像される。

地図(現在地)

南昌山登山道入口(標高848m・頂上まで約1,000m)

南昌山(760m)

気軽に行けそうですね。
道もしっかり整備されています。

ってことで向かいます。
六合目。

南昌山は岩手郡雫石町と紫波郡矢巾町の境界をなす山で標高848m。山体はトロイデ型。
盛岡地方では南昌山に雨降れば盛岡も雨といわれています。伝説では山中の洞窟に青竜が住み常に毒気を吹き雲をおこし、雨乞には霊験があったといいます。後に青竜権現は盛岡祇陀寺に祀られています。
山名は元禄16年に藩主南部久信が当山が盛岡城南の山であるので、毒を忌み、中国江西省の南昌の嘉名を借用命名したといいます。
Wikipedia「南昌山」より一部抜粋…『南昌山(なんしょうざん)とは、岩手県岩手郡雫石町と紫波郡矢巾町との境にある、標高848.0mの山岳。岩の鐘を伏せたような均整のとれた形をしている山で、坂上田村麻呂の時代から霊山として敬われたほか、宮沢賢治が何度も訪れていたことが知られる。【概要】盛岡市西方に鎮座しており、南昌山と東根山、これに赤林山(あるいは箱ヶ森)をあわせて「志波三山」と呼ばれている。山麓には幣懸の滝(落差7m)、北ノ沢大滝(落差13m)、南昌大滝(落差7m)などの瀑布や、幣懸の滝由来の湯脈を持つ温泉(矢巾温泉)が存在する。岩崎川は南昌山麓に端を発し、紫波町内で北上川に合流する。 【地質】南昌山は、かつて活動していた火山が風化浸食を受け火道が露出した岩頸と呼ばれる地形で、鮮新世に基盤に貫入した石英斑岩からなる岩体であり、山麓には広く中新世の凝灰岩が分布している。【歴史・伝承など】南昌山は古くから天候を司る霊峰として地元の信仰を集め、この地方では「南昌山が曇れば雨が降る」と言い伝えられている。麓にある南昌山神社は、元は山頂にあり水源守護の青竜権現を祀ったお宮であった。この神社は、延暦年代に志波城を築く際、天候不順で工事が難航したために征夷大将軍・坂上田村麻呂が南昌山の頂上に祈願したところ、雨がやんだことからお宮を造営したのが始まりと伝えられ、嘉永2年に山麓に移されて現在に至る。山頂には現在でも、天候の安定を祈願して奉納された石柱があるほか、雨乞いの儀式に使用される全国でも類を見ない6体の獅子頭石仏が奉納され、南昌の権現様として親しまれている。岩手の語源になった鬼の伝説では、石神の「三ツ石様」に退治された鬼は南昌山へ逃げ去ったという伝説がある。前九年の役において、安倍貞任が衣川から源義家に追われて南昌山の麓までたどり着き奮戦したが、安倍側に多大な犠牲が出て、安倍側の名のある武将たちが亡くなったといわれる。南昌山の山中には白竜が棲んでいて、暴れると雲が峰を覆い、毒気で人々を苦しませたという伝説があった。元禄16年(1703年)に天候不順が続き、空念という僧が竜を鎮めるために頂上に青竜権現の祠を建て、それまで毒ヶ森と呼ばれていた本山を、空念の推挙によって南部藩主南部信恩が南部繁昌を願って南昌山と改名したとされる。山中にある幣懸(ヌサカケ)の滝は昔マタギが猟の安全を願って、幣と呼ばれる札を納めたことから名づけられている。江戸時代の画家谷文晁によって「名山図譜」のひとつとして選ばれた他、松本竣介も1934年(昭和9年)に水彩画「南昌山」を描いている。【宮沢賢治と南昌山】宮沢賢治は、南昌山を童話「鳥をとるやなぎ」に登場させている。「鳥をとるやなぎ」に登場する石原は、賢治が旧制盛岡中学校時代に寮で同室だった藤原健次郎と石を拾い集めた場所で、現在は煙山ダムの湖底に沈んでいる。また、河袋(南昌山麓の地名)の場面に登場する楊はドロの木、ギンドロなどと言い、実際に河袋付近にはドロの木やポプラの木が生えている。また、賢治は南昌山でのろぎ石を採集した思い出を「のろぎ山 のろぎをとりにいかずやと またもその子にさそわれにけり」「のろぎ山 のろぎをとればいただきに 黒雲を追ふ そのかぜぬるし」という詩に残している。その他、賢治が記した「東京ノート」の盛中二学年一学期の欄に「藤原健次郎 南昌山 水晶」というメモがある。松本隆は、南昌山の山頂にある天候の安定を祈願した石柱が、「銀河鉄道の夜」に登場する「天気輪の柱」のモデルであると主張している。また、経埋ムベキ山の32山のうちの1座に選ばれており、他の31山と同様に賢治の没後に山頂に経典が厳重に埋蔵された。2022年8月、天体写真家の藤井旭らのグループの提案による、小惑星22355への「矢巾・南昌山」、小惑星22352への「藤原健次郎」の命名が、国際天文学連合 (IAU)により承認された。』
七合目。

腹八分目。
八合目。

到着。五合目からなので腹八分目でも気軽に登れました。
頂上の木。
まずは休憩しておむすびタイム。「ああしまった!ぼく水筒を忘れてきた!スケッチ帳も忘れてきた!けれどおむすびさえあれば構わない!」
さて、南昌山山頂広場と命名されていますが、そこまで広いわけではわりません。

熊には注意してください。小さくても危険です。

白樺標柱(南昌山山開き、昭和57年6月6日)

「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」と愛を語り合ったヒサノリとサチエはその後どうされたでしょうか。

東北新幹線開通記念植樹(昭和57年6月)標柱。

天候の安定を祈願して奉納された石柱や、雨乞いの儀式に使用される獅子頭石仏。
山頂標柱。

毒ヶ森2.7km。


展望台へ。
ちなみに展望台の反対側は眺望がありません。

展望台からの眺望。
宮沢賢治が愛した南昌山その6「南昌山の頂上」…『賢治は、盛岡中学一年の時に、親友、藤原健次郎と二人で初めて南昌山に登った時のことなどを綴ったノートの中に「藤原健次郎 南昌山 頂上」と記録している。頂上に立った感動が如何に大きかったかが伺われる。以来、賢治は「雨乞いの山」など幾多の伝説に包まれた神秘な山「南昌山」に魅せられ、何度も訪れ数々の作品を遺している。そして賢治は、南昌山を「経埋ムベキ山」に指定している。また、延歴年代の征夷大将軍坂上田村麻呂は、霊験あらたかなこの山を「徳ケ森」と称し、頂上に宮柱を建て手厚く奉ったと云われている。元禄16年には、南部藩主信恩公が、儒学者根市恭斉に命じ、南部繁盛を祈願し「南昌山」と命名した。また江戸時代の絵師、谷文晁が「日本名山図會」の中に南昌山を描いており、昔から有名であった。』

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