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岩手県紫波郡矢巾町白沢第11地割。一之鳥居は平成27年9月吉日氏子一同建立。
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社号標と境内案内板。三島神社の由来(境内案内板より)…『当三島神社は遠く足利時代に高畑一角(高畑家祖先)によって伊豆の国(静岡県)一宮である三島大社の分霊を勧請した社と伝えられている。江戸時代この地帯は煙山氏の封内に属し三島家が別当となり祭祀が行われていたが明治維新後、祭神を大山祇命事代主命の二柱とし煙山氏の封内であった馬場部落の産土神として馬場家が別当を継承されたのであった。不動村誌により当神社の由来を考察すれば更にその深遠さを感ぜられるのであるが、これを詳かにすることは殆ど不可能なことである。明治三年維新政府によって小規模社堂の整理が行われた際、神祀職より三島神社は廃止することなく熊野神社同様村方一同相心得尊敬すべきことを諭され、以来多くの人々により崇敬され年々滞りなく祭祀が行われてきたのである。昭和十六年十一月十六日付岩手県より無格社の村社別格に関する通達があり当神社においては要件具備を図ったのであるが、熊野神社への合祀志向の動きもあって進展せず。更に岩手県には同十八年六月に無格社の村社別格百社を目途として促進要項が出されたが、合祀とも村社別格とも定まらないうちに昭和二十年の終戦を迎え戦後は神社の国家管理も社格も廃止され宗教法人神社本庁包括下におかれたのである。昭和五十三年の熊野神社の改築、同五十九年三島神社の改築に際しても移転説合祀説などの諸説があったが、明治以来貫かれた精神と宗教法人法に則り、古来よりのこの地に改築御造営をなし鎮座いたしたのである。昭和六十二年四月十一日岩手県神社庁より三級社昇級の認定をうけ益々御神徳感謝の念を昻揚神社の弥栄を記念する次第である。昭和六十二年九月十二日敬白』
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案内板の下にシャチホコ一対と鬼瓦がありましたが詳細は不明。
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4.4
4.8
狛犬一対。
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5.5
白沢についてです。白沢は戦国武士白沢氏の本拠地。斯波郡のうち。白沢百助は郡主斯波氏の家臣。天正16年斯波氏滅亡に際し、細屋某は白沢森に立籠り要害を構築、柵を掘り、溝を穿って、武具・兵糧を用意、郷民を促して南部勢と戦いました。高水・大庄厳・新山・源正などの諸寺の衆徒もそれに加勢したと伝えます。白沢氏から細屋氏への領主交替の時期は不明。白沢館跡は浸食段丘上にあるそうですが遺構は不明。江戸期以降の白沢村は紫波郡のうち。盛岡藩領。伝法寺通に属します。村高は正保郷村帳100石余(田91石余・畑9石余)、貞享高辻帳117石余、邦内郷村志616石余(うち給地117石余)、天保郷帳616石余、天保8年の御蔵給所惣高書上帳618石余(御蔵高485石余・諸役御免地高16石余・給所高116石余)、安政高辻帳494石余、旧高旧領890石余。邦内郷村志では家数50(集落別では新田10・細屋6・九曜坊3・森4・熊田3・犾森2・土居場4・羽下2・石倉3・狐崎4・高畑3・谷地5)、馬72。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数74、集落別内訳は油田2・石蔵7・狐崎9・盛16・谷地6・高畑4・土井場6・犾森6・細屋5・新田9・羽下4。元治元年の検地で煙山村にあった白沢の集落を当村に編入。地内の三島神社は高水寺村にあった高水寺開山の勧請といわれ、煙山氏の氏神で、安永8年の棟札には地頭煙山小次郎光記再興とあります。他に熊野堂があります。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同6年地内馬場の地に白沢小学校創設、同20年向月小学校と統合して室岡小学校となっています。明治10年の村の幅員は東西約20町・南北約11町、税地は田84町余・畑55町余・宅地12町余・鍬下1町余など計154町余、戸数76・人口447(男241・女206)、馬65、白沢学校の生徒数34(すべて男子)、職業別戸数は農業72・工業1、物産は馬・鶏・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・粒油・大根・藺席・麻布。同22年不動村の大字となります。昭和30年に矢巾村、同41年からは矢巾町の大字。明治22年の戸数80・人口500。同23年日本鉄道(国鉄東北本線)が盛岡まで開通。同25年室岡小学校は白沢・北伝法寺の二尋常小学校に分離されますが、同34年再び白沢・北伝法寺両小学校を合併して不動尋常高等小学校を室岡に設置。白沢森の白沢館址は昭和50年頃から白沢集落の公園として利用されています。
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石灯籠一対(文政7甲申年8月29日)・狛犬一対(昭和21年9月16日菅原右京建立)
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7.5
神社庁より…『【御祭神】大山祇命【例祭日】9月12日。【鎮座地】〒028-3616紫波郡矢巾町白沢11字南田169【由緒】足利時代(1338)に高畑家(当主藤原哲夫)の祖先が、伊豆の国(静岡県田方郡)より三島大社の分霊を移し来て、のちに斯波氏の家臣となる。その子孫である高畑一角が天正16年(1588)斯波氏滅亡の折、白沢の地に帰農した際、祖先の移し来た大社の分霊をこの地に勧請したと伝えられる。時代は移り変り江戸時代(1636)に白沢村であったこの地域が、煙山氏の知行所となり煙山村に編入された。安永8年(1779)には煙山小次郎光記によって再興され、さらに文久元年(1861)に煙山専左衛門知行所の馬場の平助(菅原寛夫の祖先)外17名によって社殿の再建が行われた。元治元年(1864)に再び白沢村に合併となり、明治3年(1870)に小規模社堂の整理の対象とされたが、歎願により存置が認められ、以来現在の白沢地域では産土神として熊野・三島の両神社を尊崇している。』
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石灯籠一対。
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9.5
手水石。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。
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庚申塔。
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倉前觀音(安政5戊午歳7月17日)
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大念佛。それ以外の文字は頑張れば読み取れます。頑張りません。もしかしたらすべて同じ紀年銘かも知れません。
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八幡觀音(安政5戊午歳7月17日)
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