青森県東津軽郡平内町浅所。立石洞窟遺跡というより、その上に鎮座する大龍王大神の紹介です。海沿いに下りれば立石洞窟遺跡も見ることができます。
Wikipediaより…『安井崎の500メートルほど北には、幅15メートル、高さ30メートルほどの巨岩がそびえ立っており、その根部に直径2メートルほどの海食洞がある。1945年(昭和20年)に軍がこの洞穴を火薬庫として利用するため土砂を排出したところ、縄文時代後期に遡る大量の人骨、海獣類の骨角器、貝殻、土器(擦文式土器)などが発見された。この洞窟の存在は江戸時代から知られており、「平内七不思議」の一つとされている。』
菅江真澄遊覧記「津軽の奥」より一部抜粋…『平川という村を過ぎると、年を経た林にはいった。例の古道であろう。ふたたび雷電の祠を拝んだ。ささやかな港≪ここをさして小湊の名があるのであろう≫をでると、浅所村であった。間木の浜という家のわずかばかりあるところに煙のたっているのは、帆立貝、あかざら貝などを焼いて白灰にし、塩釜をねり作る材料にするのを仕事にしている。滝という村には、かすかに流れ落ちる水があった。鎧崎の坂をなかばほどくだると、むかいの磯辺にたけのこのような白い岩がたっていた。名を立石といったが、たいそう変わった姿だった≪立石の高さは五丈あまりを越えるであろう≫。下方には岩屋があり、内部は広くて、乞食などが行きどころがなくなると、この岩穴に泊まるという。そっとのぞいてみると、なかはほの暗かったが、腹の白い獣が伏していた。これは荒熊ではないかと、案内人も肝をつぶして逃げだし、すっかり汗をかいた。やがてヘツケナヰ(弁慶内)という塩をやく磯辺に出たが、例の掛樋に、はねつるべで海水を流し入れていた。』
菅江真澄遊覧記「津軽の奥」より一部抜粋…『平川という村を過ぎると、年を経た林にはいった。例の古道であろう。ふたたび雷電の祠を拝んだ。ささやかな港≪ここをさして小湊の名があるのであろう≫をでると、浅所村であった。間木の浜という家のわずかばかりあるところに煙のたっているのは、帆立貝、あかざら貝などを焼いて白灰にし、塩釜をねり作る材料にするのを仕事にしている。滝という村には、かすかに流れ落ちる水があった。鎧崎の坂をなかばほどくだると、むかいの磯辺にたけのこのような白い岩がたっていた。名を立石といったが、たいそう変わった姿だった≪立石の高さは五丈あまりを越えるであろう≫。下方には岩屋があり、内部は広くて、乞食などが行きどころがなくなると、この岩穴に泊まるという。そっとのぞいてみると、なかはほの暗かったが、腹の白い獣が伏していた。これは荒熊ではないかと、案内人も肝をつぶして逃げだし、すっかり汗をかいた。やがてヘツケナヰ(弁慶内)という塩をやく磯辺に出たが、例の掛樋に、はねつるべで海水を流し入れていた。』
夏泊半島は東津軽郡平内町の北半部を占め、陸奥湾のほぼ中央に突出する半島です。浪打・茂浦・浦田・稲生・東田沢・野内畑・白砂・東滝・間木・浅所などの集落があります。夏泊の語源としては「とまり」は港、「なつ」は「のうち」という星を意味する語であるとされ、夏泊を「のうち」「とまり」と仮定すれば「星の光のように崎々がとんがり出ていて、船掛りのよい潤がいくつもある所」となるといいます(平内町誌より)。中央部は笹森山・水ケ沢山・冷水山などの標高300m程度の山からなる夏泊山地。西浜とも呼ばれる西部海岸は青森湾に臨み入江や岬が多く、海岸崖や顕岩の発達する岩石海岸となり、野辺地湾に臨む東部海岸には海岸段丘や砂浜が見られ、北端は夏泊崎となり大島に相対します。主として新生代新第三紀の凝灰岩や貢岩・珪質貢岩などの堆積岩と安山岩類で構成されますが、立石や弁慶内付近には夏泊層と呼ばれる中生代三畳紀のチャート(珪岩)や石灰岩の分布も見られます。更に東部海岸を中心に第四紀洪積世の砂や礫などからなる段丘堆積物が分布。当半島にはミズナラ・イタヤカエデを主とする林分が多く、海岸地域ではシナノキを混生する海岸風衝林が発達しますが、内陸部を中心にヒノキアスナロ林も見られます。また、クロマツやスギなどの人工林も多く、特にクロマツは並木となって白砂青松の海岸美を形成。ヤブツバキの自生北限地として知られる椿山(東田沢)や白鳥の渡来地として有名な浅所海岸などの景勝地もあり、昭和28年浅虫夏泊県立自然公園となりました。
浅所は陸奥湾に突出する夏泊半島基部の東に位置しており集落は海岸線沿いに発達。地名の由来は当地の海岸が遠浅になっていることに因むとされます。江戸期の浅所村は津軽郡田舎庄のうち。元文元年に開発され、当初は滝村の支村であったといいます。はじめ弘前藩領、明暦2年分家黒石領、文化6年からは黒石藩領。村高は「旧高旧領」1石余。戸数は開発当初は僅か3戸でしたが文政10年12戸、明治3年には25戸と次第に増加。同4年黒石県、弘前県を経て、青森県所属。同11年東津軽郡に属します。明治初年の国誌によりますと、村況について「田は無く陸圃纔にあり。土地下之下。漁を専にす。ホ立貝多し。又蛤あり」「当村の澗は海浅くして船は十四丁の沖に碇す。小船は陸近十五間の処に泊す。澗の間三十間深九尺」と見えます。同11年に浅所小学を開設し、同12年の児童数は男29・女1、教員数男1。同校は同20年の小湊尋常小学校に併合されました。明治12年の共武政表によりますと戸数32・人口211、馬32、船1、物産は鱈・海扇・海鼠。同22年中平内の大字となります。昭和3年には小湊町、同30年からは平内町の大字。明治24年の戸数38・人口307、厩16、船55。明治22年に浅所海岸から小湊まで鉄道が敷設され、これによって日本鉄道(国鉄東北本線)の県の鉄道建設資材が陸揚、運搬されました。当地海岸の港建設は明治以来何度も計画されましたが実現に至りませんでした。同24年に英国人ゼー・エム・ゼースなどが陸奥湾内を調査しており、小湊湾(浅所)を最適地として築港計画がなされましたが、青森築港と共願となって認可を得ることができませんでした。その後、第二次大戦が拡大長期化された時期である昭和18年、北海道~本州間の物資の輸送増強の必要から浅所沿岸に築港工事がなされ、同23年頃より上北鉱山から産する硫化鉄鉱を運搬するなど大型船による海運が次第に行われようとしましたが、同24年運輸省において突然小湊港使用中止を決定し、国鉄輸送機関を引き揚げてしまい小湊港の閉鎖となりました。浅所海岸は白鳥が飛来することで有名で、白鳥は大正11年に天然記念物に、昭和27年4月には国特別天然記念物に、また同55年には町の鳥に指定。当地の主要機関としては、字浅所に青森警察署浅所駐在書、町漁協があります。なお、福館にあった浅所小学校は、明治29年小湊尋常高等小学校浅所分校となり、大正14年小学校に昇格。
鳥居。
鳥居神額「大龍王大神」。とても強そうな名称。
少しだけ登ります。
すぐに小祠が見えます。
ちなみに由緒等については調べておりません。
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