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青森県東津軽郡平内町東田沢横峰。
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夏泊半島は東津軽郡平内町の北半部を占め、陸奥湾のほぼ中央に突出する半島。浪打・茂浦・浦田・稲生・東田沢・野内畑・白砂・東滝・間木・浅所などの集落があります。夏泊の語源としては「とまり」は港、「なつ」は「のうち」という星を意味する語であるとされており、夏泊を「のうち」「とまり」と仮定すれば「星の光のように崎々がとんがり出ていて、船掛りのよい潤がいくつもある所」となるといいます(平内町誌より)。中央部は笹森山・水ケ沢山・冷水山などの標高300m程度の山からなる夏泊山地。西浜とも呼ばれる西部海岸は青森湾に臨み、入江や岬が多く、海岸崖や顕岩の発達する岩石海岸となり、野辺地湾に臨む東部海岸には海岸段丘や砂浜が見られ、北端は夏泊崎となり、大島に相対。主として新生代新第三紀の凝灰岩や貢岩・珪質貢岩などの堆積岩と安山岩類で構成されますが、立石や弁慶内付近には夏泊層と呼ばれる中生代三畳紀のチャート(珪岩)や石灰岩の分布も見られます。更に東部海岸を中心に第四紀洪積世の砂や礫などからなる段丘堆積物が分布。ミズナラ・イタヤカエデを主とする林分が多く、海岸地域ではシナノキを混生する海岸風衝林が発達しますが、内陸部を中心にヒノキアスナロ林も見られます。また、クロマツやスギなどの人工林も多く、特にクロマツは並木となって白砂青松の海岸美を形成。ヤブツバキの自生北限地として知られる椿山(東田沢)や白鳥の渡来地として有名な浅所海岸などの景勝地もあり、昭和28年浅虫夏泊県立自然公園となりました。
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椿山伝説…『この椿山にははかなくも美しい伝説がのこされている。その昔、越前商人・横峰嘉平という人が、船で東田沢に交易に来て、いつしか村の娘・お玉と契りの末は夫婦になろうと親しんでいた。嘉平は商用のため一時越前の国に帰らなければならなくなり、お玉は京の女がつけている椿の油が欲しい、今度来るときは、その実を持ってきてください。絞って塗りたいと名残りを惜しみ泣いて別れた。お玉は嘉平を待ちつづけたが、約束の年もそして次の年も船は来なかった。待ち焦がれたお玉は、約束にそむいた嘉平を深く恨んで、海に入って死んでしまった。村の人々は泣き悲しみ、海が見えるこの地にお玉の墓を作って埋めた。三年を経た次の年、嘉平は約束の椿の実を持ってきたが、お玉の死を村人から聞いた嘉平は倒れんばかりに嘆き悲しみ、せめて慰めにと椿の実をお玉の墓のまわりに埋めてやった。それが芽を出し、年々繁殖し、椿が山を覆うようになり、今日の椿山になったという。花咲くころになって枝を折る者がいると、清らかなお玉が現れて、その花を折り給うなという。明治の文人・大町桂月もその紀行文の中で、この椿山の話を書きとめ、次の短歌を残している。「ありし世のその俤の偲ばれて今も八千代の玉つばきかな」現在も土地の人々はお玉の墓を守っており、このあたりは横峰という地名、そしてその昔において誰かが椿を植樹したという話は聞いたことがない。平内町史より抜粋・作成東田沢町会』
菅江真澄遊覧記「津軽の奥」より一部抜粋…『(前略)穴沢という崖に椿が一本咲いていた。これはむかし、ほかの浦の人が椿を椿崎から盗んでここまで来たところ、海がきゅうに荒れて雨風が激しくなってきたので、下草をひろっても祟りをなされる神(椿明神)なので、椿を惜しんでのことと思い、その実をどこに植えようかと恐ろしくなって、ここに捨てたのが生い茂ったのである。枝葉さえ、もとの友を慕うのか、椿崎の方向にばかりふしなびいていた。このような例があるので、一枝さえ折る人もないのだと、道を行く人はこの椿を見ながらとおっていった。白砂村からしらす越えの坂の途中に立つと、大沢という山の間から、ほのかに色どられた椿崎が遠く眺められるのもおもしろい。鎧崎を来ると、田沢の浜の部落になって雨がさかんに降ってきたので、浦長のもとに宿をかりた。二十五日、昨日のように雨が降っているが、昼の晴れ間に海岸にでてみた。また山ぎわを行くと、古い館跡がそこここに残り、奥蝦夷のむかし、ジヤクチという蝦夷の柵のあとは山の田畑の名になって残っていた。なおふかくはいると、野内畑といって、趣きのある山里に桜の咲いているさまは、言いようもなくおもしろかった。二十六日、海もなぎ、空も晴れたので、早朝、椿崎を見にでかけた。田沢の浦の部落からしばらく行って、道を離れて崖を下ると、波の寄せる岸べからほんのわずかばかり遠ざかった磯山に、年を経た椿(ヤブツバキ)がびっしりと生い茂っていた。これは二月の雪がやや消えるころから、だんだんに咲きはじめるのだという。いま、三月の末ごろには、花はなかばほど咲いているが、紅色をふかくふくんだ花は稀なようで、それが朝日の光にまばゆく映え、においは潮とともに満ちあふれている。毎年四月八日のころは、いつも満開で、近辺の人々はさそいあい、歩いてきたり、あるいは舟でここに渡り、花見をするという。きょうの空はのどかに霞んで、朝なぎに、たくさんの椿の咲いた景色は、有名な巨瀬(奈良の古くからの椿の名所、巨勢)の春野のたま椿も、とうてい及ばないであろうと思った。あちらこちら、散った花を拾い、それを吸って遊ぶ子供らを友として、わたしもわけめぐり、わけいり、小川の流れの岸にある椿明神という祠にぬかずいた。神社の縁起は、むかし、文治のはじめごろとかいう。この浦に美しい娘がいたが、他国の船頭で、毎年来てこの浦々から宮木を伐り積んでゆく男と契り、末は夫婦になろうとなれ親しんでいた。その船頭が帰国するおりに、女がいった。「都の人はいつも椿の油というものをぬって、髪の色もきよらかにつやつやとひかり、椿の葉のようにつやがあると聞いています。こんな賤しい漁師の娘でも、櫛をとるとき、すこしぬってみたい。わたくしにふさわしいものならば、来年のみやげに椿の実を持ってきてください。絞ってぬりましょう」となごりを惜しみ、泣いて別れた。年があけると、この船頭が来るのを一月から十二月まで待ちつづけたが、願いはむなしく船は来なかったので、つぎの年も春から一年待ちこがれた。どうしたわけか、つづいて二年ばかり船頭が来ないので、娘は、この男はほかの女に心をひかれたのではないかと、約束にそむいた男を深く恨んで、海にはいって死んでしまった。その女の死体が波で寄せられてきたのを、浦人たちは泣き悲しみながら横峰というところに埋めて、塚のしるしに木を植えて亡きあとをとぶらった。ちょうどその時、かの船頭が三年を経てここに漕ぎつけ、「やむをえない仕事に従っていて、二、三年も航海することができなかったが、このたびやってまいりました。かの娘は無事でしょうか」と尋ねた。浦人が、しかじかと事情を話すのを聞いて、船頭は、これは本当だろうか、どうしようと、倒れんばかりに嘆き悲しみ、血の涙を流して泣いたが、いまはなんのかいもない。せめてその塚に詣でようと横峰に登っていって、苔の上に額をあてて、生きている人にものを言うように後悔のことばをいくたびも告げ、持ってきた椿の実を女の塚のまわりにまいた。「今は苔の下に朽ちてしまう黒髪に、どんなにこの油をぬっても、つややかになろうか、なるはずはない」と、ただおおいに泣いて、やがて船を漕ぎ去っていった。その椿が残りなく生いでて林となり、ことにみごとに花の咲いた枝を人が折りとると、清らかな女があらわれて、この花を折ってはいけないと、ひどく惜しんだので、漁師も山仕事をするものもみな恐れて、女の亡き霊を神にまつったのであるという。その神の祠も、今は横峰からこのように別のところにうつしてあった。』
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椿橋。
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椿川。
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奥に見えるのは横峰橋。
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東田沢は陸奥湾に突出する夏泊半島の北端に位置しており集落は長沢川流域に展開。地名は青森にも田沢村があったため、東部に位置する当地を東田沢と改称したことによります。字無沢の台地上に縄文前期の無沢遺跡があり、主な出土品としては縄文土器片・石匙・打製石斧・石鏃・石槍など。なお、当地は天文年間の津軽郡中名字(津軽一統志)に見える品木沢(むまたさわ)の比定地。江戸期以降の田沢村は津軽郡田舎庄のうち。「正保高帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」では下田沢村と見えます。はじめ弘前藩領、明暦2年分家黒石領、文化6年からは黒石藩領。村高は「正保高帳」104石余、「元禄2年郷帳」190石余(田174石余・畑10石余・屋敷5石余)、「天保郷帳」104石余、「旧高旧領」291石余。文化年間には異国船の渡来に備えて当村に臨時の番所が設置され、足軽鉄砲隊が編成されて警備に当たりました。嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」によりますと戸数80戸余で、このうち小商人2、3戸があり、また土産として檜材・鰯・鯡・蚫・小海老などが記されています。神社としては集落北部に猿田彦命を御祭神とする椿神社が鎮座。同社は元禄11年の開創と伝えており、明治6年村社に列し、同9年社殿を再築。なお、元文4年の村名調及び明治初年の国誌では、当村の支村として野内畑村が記されていますが、同村の地名は昔、野内村の加美勘兵衛という人物が家族を伴って当地に移住し畑を開墾したことによると伝えます。同村の集落東部には大山祗命を御祭神とする山祗神社があり、宝暦5年の創立で明治6年村社に列したといいます。また、享保6年頃の弘前藩勘定奉行所の領内新古村名帳に、当村の末、塩釜の場所に中宇田村がありましたが、当時は既に廃絶していたといいます。中宇田村は「元禄郷帳」に村名が見え、「寛保高辻帳」「天保郷帳」に村高57石余があり、「旧高旧領」や明治初年の「国誌」には見えないことから、江戸末期には廃村となり、村域は当村に含まれたと考えられます。明治4年黒石県、弘前県を経て、青森県所属。同11年東津軽郡に属します。明治初年の「国誌」によりますと戸数71で、うち支村野内畑17、村況は「東北は海に沿ふ。村長三丁。端より二丁はかり西に折れ地漸々高し。田多畑少し。土地下之下、炭を焚、塩を煎て産とし、海鼠・海胆・ホ立貝多し。又榛子子は当村の名品とす」と見えます。また、土産として塩が記されており「本村より酉の方一里三丁廃大間村の地に旧来塩釜あり。大間村廃し釜は当村の有となる」と見えます。同10年開蒙小学(後の東田沢小学校)を開設、同年の教員数は男1、児童数は男19・女1。同11年東田沢村と改称。
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菅江真澄歌碑。
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「影おつる磯山椿紅に 染めて汐瀬の波の色こき」
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裏面碑文…『菅江真澄は、三河の国(今の愛知県)の人である。天明3年(1783)28歳のとき故郷を離れ、文政12年(1829)秋田で客死するまで東北各地を遊覧し、庶民の暮しや行く先々の景勝を克明に文と絵筆に託し多くの日記にまとめている。これらは後に「真澄遊覧記」とよばれ、貴重な資料となっている。江戸時代に真澄ほど、くまなく津軽・南部を周遊し、土地の人々と親しんだ著名な人はいない。真澄は、本県に滞在した通算12年の間に、天明8年(1788)・寛政7年・8年・10年(1798)の4度平内を訪れ、13ヶ所で26首を詠んでいる。昭和62年11月平内町商工会・平内町むらおこし実行委員会』
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浅虫夏泊県立自然公園は青森市浅虫と東津軽郡平内町にまたがる県立自然公園。総面積5,466ha。昭和28年6月10日指定され、同57年3月30日公園計画決定。東北の熱海といわれる浅虫温泉、夏泊半島の海岸部及び湯ノ島・鷗島・茂浦島・大島などの島嶼並びに引越山・松野木の東部一帯を公園区域とします。浅虫には日本三大臨海実験所の1つ東北大学理学部付属臨海実験所があり、日本有数の規模を誇る県営浅虫水族館が昭和58年7月開館。夏泊半島海岸一帯は海食崖や屈曲した海岸線、奇岩怪石、白砂青松などの見事な風景が展開。東田沢の椿山はツバキ自生北限地帯として大正11年10月12日国天然記念物に、浅所海岸は小湊のハクチョウ及びその渡来地として昭和27年3月29日国特別天然記念物に指定。夜越山にはスキー場・森林公園などが建設され、サボテン園・キャンプ場をはじめとするレクリエーション地区となっています。昭和57年度の入込数は78万9,000人。
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社号標と鳥居。
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なぎさ百選「椿山海岸」の碑(平成8年7月20日・日本の渚百選中央委員会認定)。
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詩碑「天使たちの海」星野哲郎…『ほたては天使の掌 しあわせをわれらに恵む 白鳥は天使の歌篭 やすらぎの曲をはこぶ やぶつばきは天使のえくぼ おだやかな憩を誘う 天使住むむつの海 このふるさとの海を守り ほたてに感謝を われら心こめて 石に刻む』
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裏面碑文「資源有限漁業無限」…『「東田沢漁港整備記念」を契機として、我々は海洋の恵みを受けて生活している事に謙虚に「感謝と供養」の思いを深くし人々の「海上安全」を乞い願い、協同組合運動精神による和を以って、子々孫々への持続可能な漁業の継続を誓い、我が国、演歌作詞界の巨匠で有り、青年期を独行船で昼夜を分かたぬ海での生活に挑んだ星野哲郎先生に詩を託し幾百年の老松と真紅の椿の花を今に伝え、村人の誇りと敬虔の念を深くする椿神社境内に碑を建立するものである。平成九年五月吉日平内町漁業協同組合・東田沢支所組合員一同、記念碑建立協賛会会長植村正治(青森県漁業協同組合連合会代表理事会長)、記念碑建立実行委員長蝦名年實(平内町漁業協同組合東田沢支所常任理事)、同委員笹原一榮(平内町漁業協同組合理事)、同委員畑井勇(平内町漁業協同組合監事)、同(事業推進委員)吉川昭夫、同(事業推進委員)笹原宗吉、同(事業推進委員)笹原守榮、同(事業推進委員)笹原市則、同(事業推進委員)畑井吉信、同(事業推進委員)山本米四郎、同(事業推進委員)植村清光、同(支所長)千代谷敏春、顧問平内町長逢坂雄一、宮司佐々木光清、工事施工株式会社加藤建業代表取締役加藤毅、参与笹原勇蔵・畑井儀三郎・米内山松則・山本傳久』
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台座碑文…『【漁業協同組合沿革史】…水産業協同組合法が、昭和23年12月15日公布された事により、東田沢漁業協同組合を設立すべく有志22名による発起人会(代表植村金次郎)が発足した。小湊漁業会(旧)は解散し、設立認可申請を行い、昭和24年6月14日認可を受け120名の組合員で設立された。当地域は、むつ湾の中央部に位置し好漁場であったが、乱獲等による資源の枯渇を招き、生計を出稼ぎに依存する一時期、村は閑散とした。ホタテガイは古来より10年前後を周期として自然発生し漁村を潤した事に鑑み「つくり育てる漁業」を目指した山本護太郎博士の指導を得て、ラーバの採苗と中間育成が平内町管内で成功したのを受け、昭和43年より地播放流を主体として成果を挙げる事が出来た。(旧)東田沢漁業協同組合(昭和24年7月~同45年2月まで)初代組合長田中助蔵、二代田中常作、三代・五代笹原文蔵、四代笹原榮八。【漁協の合併】…昭和45年3月1日、時代の趨勢として平内町漁業協同組合が誕生、東田沢支所として漁業権漁場は従来通りとした。地播による増殖形態から、籠・耳づりの養殖形態に大きく変化した。又、斃死・貝毒・小型化の脱却のため運命共同体の海利用について、ホタテガイ養殖の原点に返る事こそ肝要である。昭和49年4月区画漁場の大幅な拡張要請による免許更新が行われた。以後生産基盤確立のため数年に及ぶ漁場整理を実施し現在に至っている。【漁村漁業の近代化】…合併以来、諸施設の整備近代化は家族労働を可能とした。以前は出漁途中で気象急変により海岸での漁船の損壊、ひいては人命にかかわる事故、北東の波にさらされる海辺の家々は床下を洗われ家財を失い、道路は激浪に遮断される有様であった。「人命を守る漁港づくり」を求め、先人達は政治行政の理解を得るため努力を続けた時恰も熊谷義雄代議士の強力な支援のもと昭和38年より年次計画による本格着工と相成り、漁村の夜明けに欣喜雀躍の思いであった。その後も30有余年の間漁協行政一丸となって促進に力を尽し30億余の巨費が投入され「漁港整備」が施行された。平内町管内初の供用開始は、新たなホタテ養殖漁業等の一層の推進と高齢化時代における作業の安全と効率化に役立ち他の「集落毎の港づくり」を促進させ、国民的食糧生産と明るい漁村づくりの礎となり、その価値は悠久である。【平内町漁業協同組合東田沢支所常任理事】初代笹原文蔵、二代畑井茂、三代畑井吉兵エ、四代笹原一榮、五代蝦名年實【文:平内町漁業協同組合代表理事組合長・全国沿岸漁業振興開発協会々長 植村正治】』
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石灯籠一対(天皇陛下御在位60年・椿神社造営記念、昭和61年10月吉日、植村正治・禮子)
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18.5
参道。
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手水舎。
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20.5
石灯籠一対(明治29年9月3日)
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21.5
社務所とその横にある松。
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22.5
椿神社沿革…『一.御祭神…猿田彦大神・天鈿女命(猿女君)。一.例祭日…5月3日。一.境内地…4,639坪。一.由緒…文治(1185年頃)の初め椿山にまつわる伝説の祠があった。天正年間(1573-91)には椿崎大明神と称した。明暦(1655-57)年中より椿大明神を祀る。創立は元禄11(1698)4月3日椿宮女人を神霊として建立した。安永2年(1773)椿神社と改称し、明治6年(1873)村社と列せられ、猿田彦大神を祀る。昭和26年(1951)境内地(官有地)が大蔵大臣名をもって無償譲与があり、昭和27年(1952)12月2日宗教法人設立登記する。昭和46年(1971)馬頭観音堂を境内地に移転遷座する。昭和51年(1976)神楽殿兼社務所を新設する。昭和61年(1986)社殿を改築する。一.祈願…豊漁、豊作、海上安全、交通安全、魔除の神として信仰される。一.特記事項…横峰嘉平と玉女の悲恋物語の伝説がある。鰐口2個蔵している。その1個には次のような銘がある。「奉寄進椿崎大明神諸願成就子孫繁昌上総国小糸城主里見豊前守源義次四代之孫里見萢左衛門尉源敏啓元禄九丙子年(1696)五月吉日」。また1個は延享3年(1746)年8月田沢邑の小十郎が寄進している。平成18年5月吉日椿神社宮司佐々木光清』
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椿神社造営記念碑(竣工年月日昭和61年10月5日)※宮司、棟梁、顧問、委員長、副委員長、会計、書記、委員名等省略
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参道。
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狛犬一対(昭和46年5月3日植村国男建之)
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26.4
26.8
参道石段。
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参道を振り返るの図。
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椿神社は東津軽郡平内町東田沢にある神社。旧村社。御祭神は猿田彦命。ツバキ自生北限地帯として知られる椿山(国天然記念物)の海岸部に位置し陸奥湾に面します。天正年間頃、当地の横峰嘉兵衛の女房に神が乗り移り、詫宣によって当地の守護神として椿崎大明神を祀ったのが創祀。当初は鳥居だけでしたが、元禄11年には社殿を造営したといいます。同年4月の棟札写に「奉造立椿宮女人神霊」「別当日光院六世山造法印」とあります。明治6年に猿田彦神を主神とし村社に列格。椿山には約22haの地域に大小7,000本余のヤブツバキが群生。日本特有の暖地系海岸性植物で、5月頃真紅半開の花を開きます。沖縄から本州に自生しますが、東北地方では発生力が衰え、北緯41度の椿山で北限を告げます。
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寛政7年の菅江真澄の紀行文「津可呂の奥」に、文治年間当地の娘が上方の船乗りと言い交しましたが、約束の年になっても船乗りはもどらず、娘は海に投身。この後当地に着いた船乗りは娘の死を悲しみ、持ってきたツバキの実を墓に植えたという伝説が記されています。南方系の椿が当地に繁茂した過程を語る伝承であり、このツバキが現在の椿山になったともいわれています。
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30.5
石灯籠一対(昭和47年5月3日、鹿内忠助・とさ奉納)
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31.5
社殿。
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32.2
32.4
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32.8
拝殿向拝蟇股裏側。
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蟇股裏側上部に椿神社工事関係者一覧…『【設計・施行】むつ市柳町四丁目九の六、菊池組頭梁菊池一壽【彫刻】五戸町、川村彫刻所【基礎工事】細川建業(株)細川重太郎【整地及階段工事】加藤建業(株)加藤毅【屋根工事】小湊、辻村岩男【左官工事】東和、三津谷作太郎【建具工事】むつ市、中西建具センター中西勇太郎 昭和61年10月5日竣工』
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。
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過去の記事
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本殿鞘堂。
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蒼前神社。
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