東津軽郡平内町福館平川。馬頭観音(蒼前神社)。鳥居(平成8年9月16日、奉納者:辻村忠43才、製作者:加藤光博43才)
福館は陸奥湾に突出する夏泊半島基部の東に位置。当地には天文年間に南部氏の一族である七戸修理が居住していたという館がありました。地名の由来はこの館と関係があるとも考えられています。江戸期の福館村は津軽郡田舎庄のうち。はじめ弘前藩領、明暦2年分家黒石領、文化6年からは黒石藩領。村高は「明暦2年検地帳」41石余(田37石余・畑3石余・屋敷1石余)、「寛文高辻帳」162石余、「元禄2年郷帳」では平川村と合わせて141石余(田130石余・畑6石余・屋敷4石余)、「寛保高辻帳」・「天保郷帳」ともに162石余、「旧高旧領」256石余。「明暦2年検地帳」によりますと、田は中田・下田があり、畑には主に大豆・麦・麻などが植えられていました。文政10年の戸数5・人口31。小湊川の左岸には雷電宮が鎮座しており御祭神は別雷命、文禄3年に福館城主七戸隼人が造立したと伝えます。社伝によりますと、大同2年坂上田村麻呂が建立したとも伝えられています。明暦2年黒石領分知の時に造立し直し、その後延宝元年には出火により社堂並びに棟札縁起等々を焼失、翌年藩の費用により再建、明治6年3月郷社に列しました。明治4年黒石県、弘前県を経て、青森県所属。同11年東津軽郡に属します。明治初年の「国誌」によりますと村況は「村家小山の腹にあり。田多畑少し。土は下。能隙炭を焚て生活の補とす」と見えます。なお、同書によりますと本村の北3町のところに支村平川があり、戸数11と見えますが、平川村は「元禄郷帳」や「天保郷帳」には独立して村名が見えており、「旧高旧領」には見えず、また「国志」では当村の支村となっていることから江戸末期に当村に吸収されたと考えられます。明治12年の「共武政表」によりますと戸数21・人口147(男71・女76)、馬36、物産は米・薪・炭。同22年中平内村の大字となります。昭和3年には小湊町、同30年からは平内町の大字。明治24年の戸数19・人口142、厩15、船5。同29年小湊小学校浅所分校設置。大正14年同分校は昇格し、新たに浅所尋常小学校が開設されました。当地に伝わる平内の七不思議の1つに「福館の地震知らず」があります。現在も他の地域より地震の規模が弱く、昭和43年の十勝沖地震の時も被害はほとんどなかったといいます。昭和31年に小湊地区の水道工事が完成し、同40年当地区にも水道管の延長工事が施されました。字雷電林の小湊川河口の三角州となった所にある松島には大白鳥が渡来することで有名。昭和27年にはこの白鳥及びその渡来地として、国特別天然記念物に指定されました。
神社入口付近にある題目碑(昭和28年6月)。
参道。
馬頭観音堂。以前にも紹介していますが特に調べがついたわけではございません(※浜龍王大神社の鎮座地についても未だわからず)。昭和29年10月12日(旧9月16日)に村中安全守護を祈念して改築していることは棟札から確認できます(棟札における名称は蒼前神社。神職:山内賴太郎、発起人…牧野組合長:大水善實・仝副:木村喜八良・世話役:辻村清一、木村喜一郎、辻村岩吉、竹達清三郎、熊谷末次郎、伊瀬賢次郎・組合員:津島佐市、三浦徳次郎、伊瀬谷乙松、辻村松五郎、辻村政吉、木村喜代作、木村佐吉、辻村豊次郎、辻村ミツヱ、竹達繁次、佐々木八百、辻村岩松、辻村丹蔵、木村喜代松、木村常作※自信なし)。
巨木。
過去の記事:『雷電宮 ~ 其之弐 (平内町)』
おまけ。鰻の成瀬弘前店へ。松です。かなりお安いですね。お値段を考えると結構満足できます。
またいつか伺いたいので、以下は備忘録となります。
店員さんに「途中からネギとワサビとタレをかけて…」的な説明を受けましたが、個人的には最初からネギとワサビ(味はしっかりしているのでタレは不要)で食べた方がいい。まだ松しか食べていないけど、お腹が空いていれば松のご飯普通盛りで丁度いい。ワサビは美味しかったけど、個人的にテーブルの山椒は好みじゃなかったので次回から使わない方がいい。お酒はぬるめの燗がいい。肴はあぶったイカでいい。女は無口なひとがいい。灯りはぼんやり灯りゃいい。
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