五戸町大字倉石石沢字槍沢。槍沢の枝垂れ桜(うつぎ沢のしだれ桜)は蒼前神社境内にあります。すぐ南方には大鳥大明神があります。立野稲荷大明神も近いです(※木々に埋もれており私は参拝を断念していますが)。
訪れたのは2024年のゴールデンウィーク。本当は正子のチューリッぷ園に向かったのですが…とんでもない大渋滞。
ってことで、槍沢(うつぎさわ)の枝垂れ桜へ。
石灯籠一対(昭和43年7月3日、小村金太郎建之)
狛犬一対(昭和16年旧7月3日、小村富人・小村伊之松)。
蒼前神社社殿。
石沢は五戸川の中流付近に位置。奥羽山脈の東に連なる丘陵地が続きます。地名の由来は石沢集落の東に五戸川を基点に南北に沢(渓谷)が入っており、川岸に因む地形名と推測されるも不明。五戸川とそれに注ぐ沢地に臨む丘陵台地には縄文前期・後期の遺跡が散在。五戸川左岸の台地の地蔵沢遺跡からは配石遺構が出土。地内には石沢氏の居館である石沢館跡があります。
いしさわのかうは中世鎌倉期~戦国期に見える郷名。糠部郡五戸のうち。永仁5年11月21日の五戸郷々検注注進状に「一、いしさわのかう 五ちやう六たん八かうのうち、くてん三ちやう三たん六かう」と見え、当郷の耕地は5町6反8合で、そのうち公田が3町3反6合でした。永正年間の糠部九箇部馬焼印図の「五ノ部」の項に「石沢、印かた車〈如此委細〉見絵図、領主佐藤方の印也」と見え、当地には牧野があり佐藤氏の領地でした。戦国期には三戸南部氏の配下に入り石沢館には石沢氏が居館(慶長3年館持支配帳)。石沢氏の在館の年代は不明ですが「参考諸家系図」によりますと、千葉刑部之助から10代、あるいは11代目の政寄が石沢村を領して石沢氏と称したとも、帷子氏支流の石沢善次郎が南部信直に仕えて石沢村を領したとも、又は帷子与五郎吉親の長男某が南部利直に仕えて石沢村を領し、石沢善四郎と称し、その後南部重直代に禄高没収されたともいいます。五戸川右岸に臨む台地端には石沢館跡があり、初期の館跡は西に隣接する殿城といいます(倉石村史より)。当村には石沢氏を開基とする徳玄寺が所在していたといわれ、その後田名部(現むつ市)へ移転したと伝えられています。
江戸期以降の石沢村は三戸郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属します。慶応3年の給地は七戸与十郎96石余・下田将監89石余・円子左右見41石余など。村高は「正保郷村帳」164石余うち田39石余・畑44石余、「貞享高辻帳」206石余、「邦内郷村志」450石余(うち給地434石余)、「天保郷帳」450石余、「天保8年御蔵給所書上帳」464石余(御蔵高77石余・御免地高8石余・給所高378石余)、「安政高辻帳」361石余、慶応3年「五戸通代官所惣高書上帳」684石余(御蔵入高307石余・御免地高21石余・給所高356石余)、「旧高旧領」684石余。「邦内郷村志」によりますと家数73、本村を除く集落別内訳は一之坪6・上宇津木沢8・大沢向2・下宇津木沢8、馬数147。「本技村付並位付」によりますと位付は上の中で家数46、集落別内訳は本村30・上宇津木沢4・下宇津木沢6・一ノ坪6。石盛は上田1石2斗・下々田6斗、上稗田7斗・下々稗田4斗、上畑9斗・下々畑3斗。天和2年の歩付年貢率は3割3厘と五戸通では最高位を占めていましたが、慶応3年には2割5分7厘7毛と低位となっています。天保10年五戸御給人工藤長右衛門の給地百姓小高帳によりますと、当村に百姓6人、合計高20石余で、1人当たりの平均持高は3石余となっており、嘉永5年の五戸御給人三浦伝兵衛の同帳によりますと、当村に百姓60人、合計高82石余、1人当たりの平均持高は1石余で、多人数による零細経営となっていました。村役人としては文政年間に石沢村大肝入助作の名前が見え(倉石村史)、数ヶ村を統轄する大肝入の所在が知られています。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、青森県に所属。明治初年の戸数は本村38・鳥沼新田11・宇津木沢(家数不明)・一の坪10、地味は下の下で畑勝ちでした。明治9年永寿庵を仮用して石沢小学が創立しており生徒は男13。同10年殿城へ移転。鳥沼新田の鳥沼には、継母にいじめられた娘が愛する鶏とともに沼に入水して沼の主となったという伝説を残しています。宇高間館には蒼前神社の跡地があり、都よりきた姉妹2人のうち姉の菩提を弔った場所とも伝えられています(倉石村史)。五戸川左岸の台地には又重牧の野馬捕りに使った牧袋に由来する駒袋の地名があります。また、石沢城跡の南方丘陵地には馬の調練に利用されたとみられる馬場跡が残っており、そこに至る道路には木戸場の地名がみられます。明治12年の「共武政表」によりますと戸数43・人口233(男122・女111)、学校1、水車1、馬65、物産は米・麦・雑穀・麻糸・鳥類。同22年倉石村の大字となります。
明治22年以降は倉石村の大字名。明治24年の戸数82・人口553、学校1、水車2。明治23年石沢牧場が創立し、同36年には反別172町で牛38・馬344を飼養。明治30年字石沢に石沢小学校新築移転。当地に伝わる南部駒踊は昭和37年に県無形民俗文化財となり、また字殿城には同47年村の天然記念物に指定された殿城のやまぼうしがあります。
拝殿向拝神額「蒼前社」「稲荷社」
拝殿内。本殿も蒼前社と稲荷社の2基。
境内の石塔。
十和田山(慶應丙寅二年七月十三日槍澤・酉沼村中)
庚申塔。
こちらは雑草が邪魔で読み取れず。
社殿裏へ。
社殿裏。
社殿真裏に手水石一基。
槍沢の枝垂れ桜(うつぎ沢のしだれ桜)。
例年であれば4月中旬から下旬に見頃を迎えますが、2024年の見頃は4月11日だったので、もちろんもう咲いていません。咲いている時期にはライトアップ(18:30~22:00)もされます。ちなみに以前参詣した際には桜に気付きませんでした。
五戸地方は馬産地として知られており、100年ほど前に馬の守護神である蒼前神社の境内に植えられたものと伝わり、別名馬神桜とも呼ばれています。
桜は樹齢100年以上とされ、幹回り約3.3m、樹高約17m。
過去の記事:『大鳥(鳥沼)大明神 & 蒼前社 ・ 稲荷社 (五戸町倉石石沢)』
幹の下から見上げると、空から降り注ぐように見えるそうなので、境内(本殿裏)からではなく、神社前道路沿いのこの辺りから見るのが綺麗でしょうね。
おまけ。「そば。」の看板がやたらと目立つ、十和田市の「麺食処 あんじん亭十和田店」での腹ごしらえ。
コメント