1
岩手県盛岡市黒川18地割。館林観音(当国観音霊場旧札所※手代森の曹洞宗竜洞山大泉院(手代森館跡)に舘林神社から移された聖観世音菩薩(黒川観音)の堂があり、11番札所として祀られています。御詠歌「むらさきの雲のたなびく西のそら 弥陀の光にわれぞ行かなん」)
2
斯波氏の家臣黒川氏の居城でしたが、天正16年に南部氏によって滅ぼされました。その館の中腹に鎮座するのが舘林神社であり、「元禄十二己卯年十月廿六日」の棟札を残します。元は観音堂でしたが明治の神仏分離の際に観音を大泉院に移し館林神社と称しています。
3
大黒天(享和2年)
4
南無観世音塔(弘化2年)
5
舘林神社神楽殿参道落慶記念(昭和63年8月吉日)
6
景観重要樹木「舘林神社のスギ」(推定樹齢280年(平成27年現在)、指定番号第34号平成27年4月1日盛岡市)
7
一之鳥居紀年銘「皇紀2598年7月17日建之、手代森納主田中万蔵」
8
黒川についてです。東は北上山地に山嶺を連ねて山野が多く、西の北上川沿地は平地。北には大沢川が流れて北上川に注ぎます。地内高陣山は丘陵をなし、山頂近くに9mほどの岩面に蹄形のある岩があって馬蹄石といい、八幡太郎義家が安倍貞任征討の時、愛馬に乗ってこの岩上から三軍を指揮した時の足跡と伝えられます。また、南部氏が黒川館を攻めた時の陣場にもなったと伝えます。地内に残る黒川館跡は斯波氏の臣黒川某の館であったと伝えます。江戸期以降の黒川村は紫波郡のうち、盛岡藩領、上田通に属します。東西に長く南北に狭い山間の平坦地に耕地が開けています。村高は正保郷村帳105石余(田81石余・畑24石余)、貞享高辻帳123石余、邦内郷村志309石余(うち給地280石余)、天保郷帳309石余、安政高辻帳248石余、旧高旧領359石余、邦内郷村志では家数51、馬98。本枝村付並位付によりますと位付は上の上、家数55で、集落別内訳は本村52・大沢3。地内の寺社としては竜源寺・権現寺・八幡宮がありました。明治元年、松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同10年の村の幅員は東西1里11町・南北13町、税地は田30町余・畑72町余・宅地15町余など計145町余、戸数77・人口491(男254・女237)、馬64、社1(館林神社)。職業別戸数は農業76・神官1、物産は馬・鶏卵・米・大麦・小麦・小豆・粟・黍・稗・大角豆・蕎麦・蘿蔔・西瓜・甜瓜・南瓜・茄子・栗子・薪・麻布、地味は黒色瘠土ですが北辺は佳質といいます。また、大沢野は東西4町20間・南北11町11間で秣場があり、道路の主なものは釜石街道で手代森村から来て乙部村に通じ、北上川には舟帆運漕の便があり、瓜は盛岡町に移出するといいます。明治22年乙部村の大字となります。昭和30年に都南村、平成4年からは盛岡市の大字。明治22年の戸数83・人口552。特産である「黒川キンカ」「乙部キンカ」は江戸期から栽培されていたと伝えられています。当地を中心として発達したようで、換金作物として重要な位置を占め、栽培面積は普通1戸で10~20a、多い所では30aにも及び、大正・昭和期と市場に出すも、第二次大戦後プリンスメロンの普及とともに名声は消えます。山地の斜面の日当たりにはりんご栽培が行われ、昭和10年の作付本数2,486本、同15年にはその倍となり第二次大戦後減少。昭和6年乙部養蚕組合を設立し、桑苗木2,500本、蚕種の無償配布をし講習会を開き奨励、養蚕戸数が一時増加しましたが現在では見られません。館林神社は元は館林観音と称していましたが、明治3年館林神社と改号し、観音像は手代森の大泉院に移しました。同4年村社となり、大正12年熊野神社・小山神社・板橋神社等を合祀。後にこれらの神社は元の場所に奉祀。
9
以下、内容が色々被りますがご了承ください。「となん歴民だよりvol.68」(黒川館、館林神社)より…『斯波氏の家臣・黒川佐衛門の居館と伝えられています。天正16年(1588年)南部氏の攻略にあい滅びてしまいました。中腹に館林神社があります。館跡の遺構としては、曲輪・帯曲輪・空堀・土塁からなり、高陣山から北西に延びる丘陵先端部に立ち、頂部から階段状に続いています。館跡の西側に建っている館林神社の周辺がかろうじて館跡の面影を偲ばせています。館林神社は、もとは館林観音と称していましたが、明治3年に館林神社と改号し、観音像は手代森の大泉院に移されました。』
10
盛岡市HPより…『盛岡市域の南東部、北上川左岸の小高い丘の上に位置する舘林神社は、もともと当国三十三所十一番 聖観音が置かれていた場所で、盛岡藩内に所在する寺社をまとめた「御領分社堂」(宝暦13年(1763))によると、2間4面の茅葺きの観音堂があったと記されている。明治3年(1870)には舘林神社と改称。明治4年(1871)、神仏分離令に伴い、聖観音を手代森の大泉院に移した跡地に、村社として建立したもので、大正2年(1913)には、乙部の熊野神社、大ヶ生の板橋神社、手代森の小山神社を合祀。その後、幾度かの改修を経ながら現在に至っている。当神社の祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命で、516坪の境内には、流造の本殿、神楽殿、昭和45年(1970)に建立された観音堂、享和2年(1802)銘の「大黒天」、弘化2年(1845)銘の「南無観世音塔」、嘉永5年(1802)銘の「田神」といった石碑や、皇紀2598年(昭和13年西暦1938年)の石鳥居などが残されているほか、観音堂の中には、正応3年(1290)と文化3年(1806)の棟札、文政12年(1829)献納銘の鰐口が納められている。』・『黒川さんさ踊り(県指定文化財)の起源は、前九年合戦の際に源義家が安倍貞任・宗任を征伐すべく、黒川集落内にある高陣山に兵を進めていた際に、関東武士が士気を鼓舞するために踊ったものを、地域の住民が見て伝えたものだといわれており、他のさんさ踊りとは起源を異にしている。この踊りは、戦前まで一家の長男にしか伝えられず、伝承活動も戦後しばらく休止していたが、かつての踊り手達により再開、黒川地区の住民を主体に昭和43年(1968)、「黒川参差踊り保存会」が結成され、現在に至っている。活動は、黒川・手代森地区の人々により継承されており、毎年8月17日の舘林神社例大祭での奉納、地区内の手代森小学校や乙部中学校、公民館での伝承活動のほか、市内外での公演などに取組んでいる。装束は、和紙の蓮華の花をつけた妻折笠をかぶり、脚絆、草履、化粧まわし、腹掛け、手甲と五色のしごき帯を腰に垂らすもので、浴衣は短めに着て踊りやすくしている。黒川さんさ踊りは、見た目に軽やかに演じられるが、腰帯が地面に触れるほど腰を低くした姿勢と体のひねり、手首の柔軟な使い方など、躍動感あふれる振りが特徴となっている。踊りの演目は、輪踊りが基本となっており、歩き太鼓、庭ならし、二度踊り(3演目)、剣舞くずし、しし踊りくずし、四ツ踊り、入り庭、引き庭(礼踊り)、囃子舞い、折敷舞などが継承されている。』
11
鎮守の杜参道。
12
「黒川参差踊り発祥の地」碑(復活三十周年記念・平成10年10月吉日)
13
黒川さんさ踊り(保存団体名:黒川参差踊連中、平成23年5月10日 岩手県指定無形民俗文化財)…『毎年8月17日館林神社の祭典に黒川さんさが奉納される。黒川さんさ踊りは、平安後期における「前九年の役」を契機に発生したと伝えられている。黒川集落内にある「高陣山」に陣を置いた関東武士の一団が、士気を高め勝利を記念するために踊り明かしていたのを見た住民が、戦いが終わった後、その踊りを真似して家内安全や五穀豊穣の祈りを込めて踊り継いできたと伝えられる関東武士の戦勝祈願の踊りが原点とされるさんさ踊りである。』
14
境内。
15
神楽殿。
16
16.5
石段。
17
御神木。
18
御神木と田神の碑。
19
嘉永5年3月。
20
社殿。
21
21.4
21.8
神社庁より…『【御祭神】伊邪那岐命、伊邪那美命【例祭日】8月17日【由緒】毛馬内典膳の崇敬を受けて社領三石を寄せられ、社殿の修理も行われた。もと舘林観音と称した。明治3年(1870)4月、舘林神社と改称され、同4年(1871)10月、村社に列された。大正2年(1913)11月には乙部の熊野神社、大ヶ生の板橋神社、手代森の小山神社を合祀した。宝暦年度(1751)の調べによると、もと堂ヶ沢山中にあったが、山中では参詣に不便であるため、享保11年(1726)に旅僧が往来ばたに遷宮したものだという。』
22
拝殿向拝。
23
神額。
24
神拝詞。
25
黒川舘跡。
26
不明の石塔。
27
社殿よりやや高い場所に観音堂。
28
観音堂向拝の鰐口。
29
「當國十一番南無正観世音」
30
観音堂前から見た舘林神社社殿と観音堂参道。
31
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ