令和に入って山道町の姿が大きく変わろうとしていました。
そこで山道町の姿を少しでも記録として残すべく続けてきた山道町シリーズ。
山道町は弘前市のかつてのメインストリート土手町(中土手町)の南に並行し、品川町から土淵川に至る短い町。旧城下町の一つですが築城当初には見えず、万治2年の津軽弘前古絵図に不完全ながらも町割りが見え、侍丁として屋敷17軒。寛文13年(延宝元年)の弘前中惣屋敷絵図では侍丁として19軒(うち10軒は空家)。絵図では土手町からの入口に「山道」とあり、町名はこれに由来するものと考えられ、南方はまだ町割りされていない田地で、南方の山地に通ずる道という意味であると考えられます。元禄13年の弘前侍町屋敷割には町名として「土手山道」とあります。明和元年の藩律には士街として武家屋敷20軒がありますが、寛政の改革による藩士土着令により町内の藩士が在方へ移住したため、寛政5年には御家中潰町の一つに数えられています。土着令の解除により藩士が城下に帰住した後の享和3年の御家中町割では「武家屋敷移住二十四軒」とあります。明治初年の新撰陸奥国誌には「長一丁五十八間四尺、幅四間、当町は貫属屋敷なり、家数三十二軒」とあります。
山道町は明治以後住宅街になりましたが、明治30年に南東の旧富田村に陸軍第八師団が設置されると、当町の東端の品川町との境が通称富田大通り(県道石川・土手町線)の一部として繁華街になりました。大正3年9月には最初の常設映画館である慈善館もできています。
「山道町の教会」である弘前昇天教会は、英国聖公会・米国聖公会の流れを汲んでおり、明治20年に成立したプロテスタント派の日本聖公会(立教大学や聖路加国際病院等を設立)が同25年に青森で伝道を始めました。同29年に弘前入りし、市内各所(本町一丁目、本町五丁目、元大工町、土手町)に講義所を設け、メドレー司祭と上村喜平が中心となり伝道活動。同33年に教会を建立して「山道町聖堂」と称しましたが、弘前では早くからメソディスト派が隆盛であったため、新しい開拓伝道は困難を極めました。しかし着実な活動により教線を伸ばし続け、同35年から2年間弘前にいたタッカー司祭は、同36年に貧民に白米を施与するなどの慈善活動も行っています(同35年は凶作で、中津軽郡で平年の63%、県全体で49%の収穫)。また、同年より伝道を兼ねた裁縫塾を開き、これが大正14年から聖公会女学院に発展。女学院は昭和5年に廃止されて明星保育園(現明星幼稚園)が設置されました。この間の大正10年司祭ニコルスの時に教会が新築されており、これが現在の弘前昇天教会です。
土淵川に架かる境橋を経て北川端町へと通ずる道ができたのは明治末期ですが、昭和27年に弘前電気鉄道(弘南鉄道大鰐線)が開通して中央弘前駅が開業し、山道町の西端部は大きな変貌を遂げました(※昭和31年に中央弘前駅の地域は吉野町に)が、その後の山道町は飲食店や各種商店、アパートや駐車場ができ、閑静な住宅と病院の街になり、すっかり中土手町商店街の裏町と化しました。昭和25年の世帯数は38(人口238)でしたが、昭和59年には世帯数28(人口64)となっていることが山道町の変化を如実に示しております。
中央弘前駅前もルネス街(PARTⅠは昭和55年2月開業、PARTⅡは昭和58年9月増床開業。平成18年ルネスアベニューに改称。平成30年にルネスアリーとしてリニューアルオープンし、令和2年12月より休館中)南口となり、土手町への連絡通路となっていました。
昭和62年には弘南鉄道を延長し、蓬莱橋公園を造成する計画が持ち上がり、その後の状況についてはルネスアリーの状況も含め、現在のとおりでございます。果たして今回の大規模かつ改革的な工事によって今後どのような変貌を見せていくのかは神の味噌汁です…もとい神のみぞ知るです。
※写真は令和4年の3月時点のものです。
『弘前市山道町』の記事へ続く…
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