1
岩手県盛岡市西見前15地割。盛岡市西見前の北野神社の東方。西見前洗車場に隣接。
2
鳥居額束神額。
3
社殿。由緒等については不明。
4
西見前についてです。箱ケ森東部、北上川右岸に位置しており、南境を支流の見前川が東流して同川に注ぎます。地内に見前館跡があります。150m×250m。中央を直角に曲がる道路が貫き、四面に堀田と称する水田があります。また、大館・大手先・搦手・観音堂・鎌倉道などの地名を残します。江戸期以降の西見前村は紫波郡のうち。盛岡藩領。見前通に属します。村高は延宝5年検地名寄帳1,171石余(田1,039石余・畑132石余)、邦内郷村志1,256石余(うち給地41石余)、旧高旧領1,856石余、明治8年1,930石余。貞享年間頃に見前村が当村と東見前村とに分村して成立し、更に同年頃当村から永井村が分かれたともいいますが、貞享高辻帳・元禄郷帳・天保郷帳・安政高辻帳には当村の名は見えず見前村一村として記されています。邦内郷村志では家数89、集落別内訳は大宮崎24・高屋敷8・上野19・久保屋敷12、馬100。本枝村付並位付によりますと位付は上の中。奥州街道沿いにあって街道を境として西に位置。西見前・東見前の両村からなる街道沿いの町場は見前町と通称されます。文化年間見前町酒屋が郡山からの戻馬継立問屋を願上げましたが、郡山からの助伝馬を継ぎ立て他所抜けの馬を継ぎ立てませんでした。凶作以来、酒屋が潰れて問屋を止めたといいます。盛岡城下から約2里隔てた当地には伝馬中継所が置かれ、宿場町でした。町の出入口には柵があり、盛岡側の柵外に一里塚があります。町の中程に御制札場があり、キリシタン宗門禁止・捨馬禁止(御領分高札集)や百姓一揆厳禁(宮崎家文書)の高札が掲げられました。江戸後期には盛岡5代官のうち、向中野通と見前通の2通を管轄する代官所が当地に置かれました。文化10年南部利敬は見前町に恵比須堂を建立して神楽あるいは津志田町稽者踊を行い、その賑わいは2日に及びました。神社としては永正年間修験宗頼光院が創建し、正徳5年・享保14年再建の棟札がある北野神社があります。寺院は盛岡大慈寺末感通庵、胆沢永徳寺末の曹洞宗清水寺がありました。村は街道を隔てて北上川で東境となりますが、北上川には船渡があります。奥州街道に沿った平坦地で山林をもたない村であるため、炊料・秣草・刈敷など自由に使用できるよう確保する必要がありました。そこで寛文年間に鳥居宗豊の知行地内地竹(簗川村川目地竹)87町歩の山林を入会地として永代に買受け、自由に採取利用してきました。しかし明治13年入会紛争となりましたが勝訴。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同6年字宮崎の旧家を仮用して公立小学校が開校しており生徒127(男120・女7)。同10年の村の幅員は東西16町・南北16町、税地は田189町余・畑17町余・宅地25町余など計232町余、戸数141・人口806(男416・女390)、馬121、人力車15、寺1(清水寺)、社1(北野神社)、会所1(第5大区2番扱所)、公立小学見前学校の生徒は男34、職業別戸数は農業135・商業2・雑業1・僧侶1・神官1・士族1、物産は馬・鶏・鶏卵・米・大豆・大麦・小麦・粟・稗・黍・大角豆・蕎麦・蘿菔・茄子・胡瓜・蕃椒・百合根・馬沓、地味は東部が黒土で肥壌、北西部は瘠悪。明治22年見前村の大字となります。昭和30年には都南村、平成4年からは盛岡市の大字。明治22年の戸数152・人口621。鹿妻堰の本流の分岐点浅子溜の水利紛争は明治19年に端を発し、更に同44年旱魃のため田植不能を訴え下流の白沢・高水寺・北郡山・間野々・東徳田などの農民400~500名が浅子溜用水を要求して来襲。大正4年北野神社境内に宮崎求馬が私立図書館宮崎文庫を設立。蔵書数7,960冊。また、同境内の神木宮崎の大杉は「紫波郡誌」に天然記念物として掲載されていますが、昭和57年の大風にて根こそぎ倒れて伐採されています。
5
拝殿向拝神額「稲荷神社」(奉納者:小林舜二、武藤久)
6
棟札らしきものがありましたが本殿内にてよく見えず。
7
馬頭観世音(昭和11年丙子)
8
8.5
盛岡市南部に位置する西見前村は、近郊農村として馬の飼育が盛んな地域であり、明治10年の馬帳によりますと村内131戸のうち125頭の馬が飼育されていることから、ほとんどの家で馬が飼われていたことがわかります。
9
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ