ステージ。
西見前についてです。箱ケ森東部、北上川右岸に位置しており、南境を支流の見前川が東流して同川に注ぎます。地内に見前館跡があります。150m×250m。中央を直角に曲がる道路が貫き、四面に堀田と称する水田があります。また、大館・大手先・搦手・観音堂・鎌倉道などの地名を残します。江戸期以降の西見前村は紫波郡のうち。盛岡藩領。見前通に属します。村高は延宝5年検地名寄帳1,171石余(田1,039石余・畑132石余)、邦内郷村志1,256石余(うち給地41石余)、旧高旧領1,856石余、明治8年1,930石余。貞享年間頃に見前村が当村と東見前村とに分村して成立し、更に同年頃当村から永井村が分かれたともいいますが、貞享高辻帳・元禄郷帳・天保郷帳・安政高辻帳には当村の名は見えず見前村一村として記されています。邦内郷村志では家数89、集落別内訳は大宮崎24・高屋敷8・上野19・久保屋敷12、馬100。本枝村付並位付によりますと位付は上の中。奥州街道沿いにあって街道を境として西に位置。西見前・東見前の両村からなる街道沿いの町場は見前町と通称されます。文化年間見前町酒屋が郡山からの戻馬継立問屋を願上げましたが、郡山からの助伝馬を継ぎ立て他所抜けの馬を継ぎ立てませんでした。凶作以来、酒屋が潰れて問屋を止めたといいます。盛岡城下から約2里隔てた当地には伝馬中継所が置かれ、宿場町でした。町の出入口には柵があり、盛岡側の柵外に一里塚があります。町の中程に御制札場があり、キリシタン宗門禁止・捨馬禁止(御領分高札集)や百姓一揆厳禁(宮崎家文書)の高札が掲げられました。江戸後期には盛岡5代官のうち、向中野通と見前通の2通を管轄する代官所が当地に置かれました。文化10年南部利敬は見前町に恵比須堂を建立して神楽あるいは津志田町稽者踊を行い、その賑わいは2日に及びました。神社としては永正年間修験宗頼光院が創建し、正徳5年・享保14年再建の棟札がある北野神社があります。寺院は盛岡大慈寺末感通庵、胆沢永徳寺末の曹洞宗清水寺がありました。村は街道を隔てて北上川で東境となりますが、北上川には船渡があります。奥州街道に沿った平坦地で山林をもたない村であるため、炊料・秣草・刈敷など自由に使用できるよう確保する必要がありました。そこで寛文年間に鳥居宗豊の知行地内地竹(簗川村川目地竹)87町歩の山林を入会地として永代に買受け、自由に採取利用してきました。しかし明治13年入会紛争となりましたが勝訴。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同6年字宮崎の旧家を仮用して公立小学校が開校しており生徒127(男120・女7)。同10年の村の幅員は東西16町・南北16町、税地は田189町余・畑17町余・宅地25町余など計232町余、戸数141・人口806(男416・女390)、馬121、人力車15、寺1(清水寺)、社1(北野神社)、会所1(第5大区2番扱所)、公立小学見前学校の生徒は男34、職業別戸数は農業135・商業2・雑業1・僧侶1・神官1・士族1、物産は馬・鶏・鶏卵・米・大豆・大麦・小麦・粟・稗・黍・大角豆・蕎麦・蘿菔・茄子・胡瓜・蕃椒・百合根・馬沓、地味は東部が黒土で肥壌、北西部は瘠悪。明治22年見前村の大字となります。昭和30年には都南村、平成4年からは盛岡市の大字。明治22年の戸数152・人口621。鹿妻堰の本流の分岐点浅子溜の水利紛争は明治19年に端を発し、更に同44年旱魃のため田植不能を訴え下流の白沢・高水寺・北郡山・間野々・東徳田などの農民400~500名が浅子溜用水を要求して来襲。大正4年北野神社境内に宮崎求馬が私立図書館宮崎文庫を設立。蔵書数7,960冊。また、同境内の神木宮崎の大杉は「紫波郡誌」に天然記念物として掲載されていますが、昭和57年の大風にて根こそぎ倒れて伐採されています。
鳥居(氏子小字館一同謹建之、大正4年11月10日)
神楽殿。
参道。
石灯籠一対(文久二壬戌年)
狛犬一対(昭和39年9月吉日建之、都南村津志田、吉田豊治)
手水石(文化2乙丑年12月吉日)
社殿。
御祭神は日本武之命、少那彦名命、中筒男之命。例祭日9月8日。
由緒…『修験に属した最初の祀職頼光院は永正2年(1505)に亡くなり、正徳及び享保年度(1716)の社殿改築が村中の人々によりなされたと載っている。宝暦年度(1752)の書類から見ても、早くから氏子心の培養をされてきた。南部利直公の寄進に係る神具と伝えて社蔵の御紋章神鏡、同じく幕、同じく高帳が修理を要する都度、必ず許を得てきた。毎祭礼後藩主並びに代官所に守札を進めていた。内陣に収むる木彫の立像三身は古拙な作と伝えている。藩政時代は鵜戸神と天神が相殿であった。』
向拝神額。
拝殿内。
御神木の宮崎杉前にある今上天皇御即位大典記念玉垣。
かつて天然記念物とされていた宮崎の大杉。昭和57年の台風にて根こそぎ倒木。
東西見前鎮守(昭和9年9月8日、藤川重右衛門・家内一同奉建)
馬頭観世音。
石塔群。
奉讀誦観音経一万三千巻供…(下部見えず)、安永五丙申歳三月十七日、壽命長久祈所、五穀成就、願主見前村観音…(下部見えず)
出羽三山。
庚申供養塔(寛政元己酉年3月吉祥日、施主…(下部見えず))
■■供養塔。読めそうで読めない…
大黒天。
宮﨑求馬君彰徳碑(利淳題、大正4年11月10日)
碑文省略(状態は良好、碑文は新渡戸仙岳によるもの)。
となん歴民だよりvol.43(平成27年6月26日発行)「宮崎求馬と宮崎文庫」(盛岡市都南歴史民俗資料館学芸調査員河野聡美)より…『盛岡市の先人といえば、米内光政や原敬、新渡戸稲造と多くの先人を思い浮かべます。しかし、その中で都南地域の先人は誰かと聞かれて、すぐに思い浮かぶという人は少ないかもしれません。市内西見前の北野神社には、大正4年(1915)に建てられた「宮崎求馬君彰徳碑」があります。碑文は新渡戸仙岳(盛岡市先人記念館顕彰)によるもので、内容は宮崎求馬の経歴と人物について記されています。宮崎求馬は嘉永5年(1852)祐道の長男として生まれ、藩校作人館で学んだのち太田代恒徳らに就きます。明治6年(1873)、自宅を見前小学校の校舎にあて自らも教鞭をとり、以降大正3年(1914)に同校を退職するまで多くの生徒を教えました。また、読書家でもあった求馬は退職後、多くの蔵書を活かして私立図書館「宮崎文庫」を設立します。「私立図書館宮崎文庫仮図書目録」(岩手県立図書館所蔵)には、宮崎文庫が設立された大正4年(1915)から大正14年(1925)までの仮蔵書目録が記されており、貴重な蔵書を地域に役立てていたことが分かります。また、明治32年(1899)の「見前高等小学校建築寄附金帳」(当館蔵)には寄付金者氏名に求馬の名があり、長く教員を勤めた同校へも多方面で尽力しています。数千点にも及び蔵書「宮崎文庫」は、岩手大学に所蔵されています。現在、宮崎求馬および宮崎文庫について当館と岩手大学が調査を行っており、地域に貢献した先人として多くの人に宮崎求馬を知ってもらえるよう引き続き調査を行っていきます。』
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