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岩手県盛岡市永井24地割。都南中央公園の一画。
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公園の片隅にあった石塔(昭和54年9月2日、小笠原弘高、小笠原信一、小笠原秋巳、岩田甚一、小笠原要市、小笠原美紀)
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下永井村についてです。江戸期は紫波郡のうち。北上川右岸に位置。盛岡藩領。向中野通に属します。村高は邦内郷村志658石余(うち給地51石余)。江戸中期までに永井村が当村と上永井村とに分村して成立したとみられ、正保郷村帳、貞享高辻帳には当村の名は見えず永井村一村として記されています。また、分村後も幕府に対しては永井村一村として届けられていたとみられ、天保郷帳、安政高辻帳にも当村名が見えず永井村一村として記されています。邦内郷村志では家数63、集落別内訳は古屋敷5・荒屋7・北畑8・下宿9、馬74。本枝村付並位付によりますと位付は上の中、家数54、集落別内訳は神田5・百目木5・古屋敷4・荒屋9・長沼4・検断地5・西谷地2・平村3・下宿6・北畑6・留場3・高櫓2。
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天明6年の書上によりますと永井喜平治51石余と見えます。永井氏は先祖庄左衛門吉次が延宝年間に赤林・永井郷中で野竿新田を宛行われ、子孫が開発に尽力した結果、宝永2年に当村内において55石余の給地を確立したといいます。天保6年、藩主利済の命により稲荷街道の整備が行われ、普請世話方として功労のあった当村藤兵衛以下に1貫文が下賜されました。地内の多賀神社は藩士阿野兵部左衛門が給地を提供して創建されたといいます。阿野氏は近江の出身で元禄年間頃から当村に居住した縁で近江の多賀社を勧請したと伝えます。明和4年・嘉永2年の棟札を残します。御祭神は伊弉諾命・伊弉冊命・宇迦御魂命・牟陀和気命、例祭9月2日。明治4年頃再び永井村の一部となっています。
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社号標「多賀神社」(皇紀2600年9月2日建之)
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境内案内板「多賀神社」(平成18年9月2日多賀神社維持運営委員会)…『【所在地】盛岡市永井第二四地割高櫓第一八番三ほか【祭神】伊邪那岐命、伊邪那美命、宇迦御魂命、品牟陀和気命【例祭】9月2日【社殿】本殿4坪、幣殿4坪、拝殿11.5坪、神楽殿8坪、舞踏殿8坪【境内】2,163坪63(神社所有)【御利益】国家安泰、子孫繁栄、五穀豊饒、家内安全、交通安全、受検祈願【由緒】多賀神社は、盛岡藩士、阿野兵部左衛門が知行地のうち百間四方を寄進して創建されたと伝えられている。文久年間に編纂された『参考諸家系図』によると、阿野氏の祖は近江国滋賀郡阿野(穴太)村の人である。多賀神の信仰は地方では珍しいとされるが、当地における多賀神社の存在も阿野氏の祖先以来の信仰と深い関わりがあったことを物語っている。古くは、宝暦10年(1760)頃に作成された盛岡藩内の寺社堂を収録した『御領分社堂』に、「永井村 一 多賀大明神 三尺四面板葺 鞘堂二間四面葛葺 俗別当清九郎」という記事が見られ、明和4年(1767)7月10日及び文久4年(1864)3月、嘉永2年(1849)7月20日再建の棟札も存在する。また内陣には、嘉永7年(1854)下永井村若者中、文久2年(1862)上永井村若者中がそれぞれ奉納した納札、さらに拝殿内には「多賀社」と記された扁額や、繁飾馬図、繁馬図の絵馬なども奉納され、広く永井村一円の信仰をあつめてきたことがうかがわれる。明治に入ると当社の地位は重要視され、明治3年(1870)11月、当時の盛岡県庁は神職界の重鎮であった原田氏を当神社神主の職に任じ、翌4年10月、郷社定則が発布されると十番区郷社に定められ、区内の数社が付属の村社として設けられた。明治5年行政区改正の際は郷社数の変更によって村社(旧飯岡村)に定められ、戦後は社格廃止とともに無格となり今日に及んでいる。』
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鳥居(大正12年9月建之、永井出身鐵道省職員、大志田三四郎・兼平民次郎ほか)
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鳥居額束神額。
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参道。
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石灯籠二対(御大典紀念、大正4年11月)・(文久2壬戌年7月)
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御神木。
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御神木(巨木)跡。
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祭礼では永井のさんさ踊り、永井の大念仏剣舞、下永井の獅子踊り等が奉納されるようです。永井の大念仏剣舞については公式HPもあったので詳細はそちらをご覧ください。
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盛岡市HP「永井(ながい)の大念仏剣舞(だいねんぶつけんばい)」より一部抜粋…『昭和46年11月11日選択:記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財、昭和55年1月28日指定:国指定重要無形民俗文化財。保存団体名:永井大念仏剣舞保存会。永井地区に伝承される回向(えこう)踊りで、音頭は「南無阿弥陀仏」を基本にした歌である。寛政年間(1789~1801)に、現在の庭元の祖先が南日詰(現在の紫波郡紫波町)から養嗣子にきた時に巻物とともにこの踊りを持ってきたのが始まりとされ、代々この地で踊り継がれている。念仏剣舞は大笠(だいがさ)を振って踊るのが特徴だが、巻物には明治31年(1898)に永井村太夫小笠原三右エ門に大念仏の大笠が伝授されたとあり、以前は大笠がない踊りであったことが推測される。踊りは道行きから始まり、入羽(いりは)・中羽(なかは)・引羽(ひきは)と続き、中入りの後に大笠(だいがさ)振り・廻り胴と進み、最後に礼踊りで終わる。踊り子は花のついた妻折笠を被り、腰には五色の帯を垂らし、手には太刀・扇・唐団扇などそれぞれ違う彩物を持って踊る。円形の台の上に三階の仏塔を乗せた笠は阿弥陀堂を表しており、この大笠を頭に被り、大きく振りながら踊る笠振りは印象的である。』
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石灯籠一基(家内安全、兼平六太郎、平成元年9月吉日)
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手水石。
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この手水石もかっこいいのですが…
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こちらの龍の手水石が素敵でした。
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こちらは普通の手水石(文政3庚辰歳8月吉日、奉納永井村講中)
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狛犬一対(文久2年7月建立)
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社殿。
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拝殿。
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幣殿・本殿覆屋。
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神社庁より…『【御祭神】伊邪那岐命、伊邪那美命、宇迦御魂命、品牟陀和気命【例祭日】9月2日【由緒】年代は判明しないが、藩士阿野兵部左衛門の創祀と伝えている。地方には鎮祭が稀な神であるから、阿野氏の祖先の信仰と交渉をもったものであろう。宝暦年代(1751)には社運が勃興して徳田の光照、見前の北野、煙山の諏訪諸神と相並んで規模の最も整備した社であった。早くから永井村一郷の産土神として尊信をあつめてきたことは、内陣内の祈祷札の記載に明らかである。明治4年(1871)10月、郷社定則の発布されるや十番区の郷社に列し、翌年行政区の改正で村社に加列した。』
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25.5
拝殿向拝神額「多賀社」(龍山謹書)
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井戸。
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神楽殿、舞踏殿。
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28.4
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石塔群。
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こちらはまったくわからず。
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大黒天(寛政7乙卯天9月16日、永井連中)
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庚申供養塔(明和9辰天7月26日※下部見えず)
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庚申供養塔(安永4未天■月15日※上部欠損)
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観世音百番供養塔(寛政8丙辰天3月17日)
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