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秋田県能代市機織轌ノ目。鳥居(寄附者与治兵エ、嗣子藤田与市)
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社号標(昭和8年舊8月15日建設)
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手水舎。
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灯籠一対(機織神明社氏子会、平成12年5月吉日)
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5.5
参集殿。
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御祭神は天照大御神、八幡大神、水波能売命、大広目命。例祭9月15日
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狛犬一対(平成16年9月15日)
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米代川に近い機織という村は、秋田城之介が領主の時に、都の方から流れてきた機織りにたけた女性を岸辺に住まわせて絹布を織らせたということから名付けられた土地の名であるといいます。江戸期の機織村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。村名の初見は「享保黒印高帳」。天正19年秀吉朱印状写、「正保国絵図」に記載なし。高は「享保黒印高帳」で村高590石余・当高363石余(うち本田0・本田並172・新田191)、「寛政村附帳」で当高475石余(うち蔵分48・給分427)、「秋田風土記」で高363石余、「天保郷帳」で520石余。免は文化期に3.8。家数及び枝郷は享保期60軒(うち枝郷谷地中5・鵜野沢村4)、寛政期枝郷は田屋、文化期家数は70軒(うちに枝郷谷地中、鵜の沢を含む)。生業は漁猟が主。寺社は八幡社・神明社。明治9年山本郡三合村を経て明治10年榊村の一部となります。現在は小字の機織轌の目。
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「能代まちなかブログ」様より一部抜粋…『東能代地区に関わる伝説を紹介します。医師会病院の西、檜山字新田沢(しんでんざわ)の小安沼(おともぬま)の北方に、布晒沼(ぬのさらしぬま)と称する小沼があります。沼とはいっても現在は水面いっぱいに葦が繁茂して、田んぼの中の葦原といった感じです。ところで、JR東能代駅の駅名は昭和18年までは機織駅でした。またずっとさかのぼって明治9年に誕生した榊村は、旧大内田村、二井田村、機織村の3つが合併したものです。これらに見える「機織」という地名の起こりが、実はこの布晒沼の伝説にあるのです。この伝説は故浅野虎太氏が著した「榊史話」の中で、二井田の旧家佐々木甚清の編集になる「二井田古跡遺伝記録」(文化12年=1815年)に記されていた話として紹介しています。原文は次のとおりです。「二井田村の郷(さと)は遠く延暦(えんれき)のむかしを探(さぐ)れば、繁栄名におう姫の津とかや。エゾの船人も袖を引きつどいし里と聞きはべる・・・小安堤(おともづつみ)東山崎下に布さらしと云沼あり。此(この)沼のぬし美女なり。往古に外に出て布さらし居たるとなり。又天気よく静なる時沼の辺(へ)に立ち聞けば、沼の底にて機(はた)おる音聞えしとなり。此(この)由来にてや、機織村と云(いう)新村開く云々」「二井田古跡遺伝記録」の原本は未発見です。編者の子孫が先年まで仁井田の倫勝寺門前に往んでいたそうですが、現在の消息は不明ですので探索もできません。「榊史話」には、故秋元利吉氏がその著書で述べたという布晒沼伝説のことも記しています。それには昔この付近に一向館(いっこうだて)という館(たて)があって、その館主の美しい姫君が日に幾反と織る織物を小沼で晒し丘に広げて干(ほ)したところから、機織村の名が起こったとしています。』
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神社庁より…『元は宮の構えも宏壮でなかったが、旧藩主佐竹家の重臣梅津与左衛門が、機織切り開きの砌り当社祈誓をなし、成功の後報賽として社宇を造立してこれを祀られ、爾来梅津家より社領米及び神燈並びに額面等の寄進あり、特に神燈紋形を免許された。』
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拝殿内。
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幣殿・本殿。
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御輿収納庫。
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紅葉が綺麗でした。
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境内神社参道。神社庁によりますと、境内神社として太平山神社、金刃比羅神社、豊受姫神社、相染神社、唐松神社を記載しています。
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狛犬一対(安政2年卯3月吉日)
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下の台座は大正10年9月15日。
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鳥居(平成9年6月1日建立)
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境内神社。一つひとつに説明もありましたが、当社・当碑に関わるものというより一般的な説明です。
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向かって右から唐松神社(古文書に出る物部氏の守る母子の守護神の古社)、庚申塚(庚申さまは神社では猿田彦命で庚申の日に体内の三尸虫を体外に出るのを遮り鎮めたのが塚)、相染大神(農耕作と馬の守護神、努力と精力の神様)、相染大神移転記念碑(講中:藤田哲太郎、武田辰之助、武田清治、武田竹雄、田村千代見、藤田長治、藤田養治、武田辰治、武田金四郎、児玉春治・昭和57年4月19日)、豊受姫大神(お稲荷さまとも言われる衣食住と井戸水脈の神様)、金刀毘羅神社(説明省略)、太平山神社(説明省略)
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