岩手県岩手郡雫石町御明神多賀。社号標「多賀神社」(宮司木村茂妻ミネ謹書)
社号標「村社多賀神社」(昭和9年4月9日)
『大東亜戦敗戦となるや進駐軍の神道指令に依り全国の官国弊社を始め府県郷村社に■■社格を抹消せらる。当社も村社なるが故に撤去せざるを得ず。然れども奉献者の心情偲び難く社格の上に旧と入れ、そのまゝ再建するもの也。昭和三十六年九月宮司』
石灯籠一対(昭和10年9月9日)
御明神についてです。御明神は雫石盆地南西部の赤沢川流域に位置。西方は奥羽山脈の分水嶺。地名の由来は、承元年間木村太郎三郎が当地に来住し、近江国の多賀大神と神剣を祀る社を建立したことから近江明神村と称えたことによると伝えます(奥々風土記)。縄文時代と中世の複合遺跡である高見館遺跡があります。鎌倉期には戸沢氏が当地を領し隠明寺とも称したといいます。
江戸期以降の御明神村は岩手郡のうち、盛岡藩領、雫石通に属します。村高は寛文11年の検地では732石余、正徳6年は900石余、邦内郷村志で903石余(うち給地758石余)、文化7年は903石余(うち給所高467石余・蔵入高285石余・寺社高149石余、天保8年は919石余(うち給所高621石余・蔵入高292石余・御免地高5石余、慶応2年の検見では田667石余・畑126石余で、年貢高は田125石余・畑21石余、旧高旧領1,487石余。正保郷村帳・貞享高辻帳・天保郷帳・安政高辻帳には当村名が見えず、仮名付帳において上野村の枝村として見えます。天保10年の給人は9名で、他に盛岡城下の永福寺129石余があります。江戸期を通じて上野村肝入の管下にありました。盛岡から秋田へと通じる秋田街道が当村を横断しており、地内赤淵には盛岡より七里目の一里塚がありました。邦内郷村志では家数105、集落別では御明神11・小赤沢12・安柄3・赤淵4・山津田2・滝之沢13・上野13・曲谷地9・中屋敷14・赤沢4・黒沢20、馬293。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数126。集落別内訳は本村61・小赤沢14・安柄4・赤淵3・山津田2・赤沢5・中屋敷14・黒沢23。集落構成の変化は農業経営の変化を反映するものであり、慶応2年の検地までに一戸平均生産力が飛躍的に伸びており雫石通では最高となっています。特産品として志戸前砥石・籬野の黄連・木材があります。山林には志戸前御山があり、御山守によって管理されました。慶応2年の藩校作人館の設立に伴い当村にも学田の割り当てがありましたが詳細は不明。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年南岩手郡に属します。同13年上野村戸長役場の管下、同17年には雫石戸長役場の管下となりました。明治4年士族によって地内籬野の開拓がなされましたが失敗しています。多賀神社は村社になり、明治5年の氏子は219戸でしたが翌年184戸に減少しており、これは籬野開拓の失敗によるものであると推測。雫石街道は県道一等の秋田街道となりました。明治9年に御明神学校が設立。明治12年の村の幅員は東西約2里16町・南北約2里21町、税地は田175町余・畑120町余・宅地25町余・荒地43町余・鍬下29町余など計391町余、戸数224・人口1,154(男607・女547)。明信学校の生徒数28(男23・女5)、職業別戸数は農業219・商業2、物産は馬・猿・鮎・鱒や米・雑穀のほか箸・串・下駄など。地内には宝暦元年発見の砥石鉱があります。
同22年御明神村の大字となります。はじめ南岩手郡で明治30年からは岩手郡所属。御明神村・上野村・橋場村が合併して成立しました。旧村名を継承した三大字を編成。明治22年の面積1,273町余、戸数364・人口2,231。雫石・西山村と組合役場を作りましたが、明治30年に解散して上野字春木場に役場を設置。同33年の戸数370で、うち専業農家276戸で一戸平均の耕作面積は田8反8畝余・畑6反7畝余。耕地の約96%が自作地でした。世帯数・人口は大正12年479・3,115、昭和20年578・3,908。昭和22年の自作農277戸・4,075反、自小作農62戸・668反、小自作農55戸・512反、小作農52戸・425反。秋田街道が横断し、橋場は国見峠を越えるための継立場となっていました。大正11年に盛岡~橋場間の鉄道が完成。昭和19年に橋場線の雫石~橋場間は運休となりレールは撤去されて釜石線に転用。大正10年に腸チフスが大流行しており患者70余名。原因は自然の流水を飲料水等に利用していたため。日露戦争後に炭の生産が本格化し、大正12年58万8,000貫を生産。昭和9年の馬数548・飼育戸数253で、雑種・洋種馬を飼育。明治38年に盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)付属演習林が赤沢川の水源地帯に設けられており経済農場も併置。昭和8年同農場に拓務省第一拓殖訓練所が開設され、満蒙開拓の厳しい訓練がなされました。同14年御明神郵便局が開設されましたが、無集配の特定局でした。同16年上野尋常高等小学校が御明神分教場を統合して御明神尋常高等小学校と改称。橋場尋常小学校は明治41年から同校の分校でしたが昭和28年再び橋場小学校として独立。また、昭和21年引揚者26戸が上野字上野沢に入植し、同28年御明神小学校上野沢分校開校。昭和22年御明神中学校が御明神小学校に併設して開校、同25年字高八卦に校舎新築。同29年西山村西根の一部を地内に編入。同30年の世帯数722・人口4,472、同年雫石町の一部となり村制時の三大字は同町の大字に継承しました。昭和39年国鉄田沢湖線赤淵駅開業、同41年赤淵~秋田県生保内(現田沢湖)間が開通。字高八卦の御明神中学校は同44年雫石中学校に統合。地内に岩手大学の御明神演習林があります。
舞殿。
参道。
手水石。
工事に関連するものでしょうが、盃状穴のようにも見える石(昭和7年12月25日竣功奉納、大柳河川工事記念)
石灯籠一対(昭和8年4月9日)
神札・お守り授与所。
亀の甲石(昭和21年6月平渡宅に納められていたものを、昭和62年正月9日に滝沢長生会により神社に奉納されたってことかな)
一瞬オオジャコガイに見えました。
多賀神社の姥木(スギ)
雫石町指定天然記念物(平成6年7月1日指定)。目通周囲770cm、高さ約40m、推定樹齢1,540年(いずれも平成6年頃調査時)。『多賀神社の創建は承元元年(1207)と言われ、古文書によると、この時大杉の下に杜をつくったとあるので、木の豊富な時代にあって目立つ程その時すでに大木であったことが想像される。』
社殿。向拝柱に使用されている巨木が存在感あります。
神社庁より…『【御祭神】伊邪那岐大神、伊邪那美大神【例祭日】9月9日【由緒】古書に曰く「清和源氏の子孫佐々木三郎盛綱、近江の国を領し、常に多賀大社の神劔を奉じ戦いの都度功を奏せり。頼朝、義経と仲不和となるや義経に心よせたる盛綱一族木村太郎三郎に多賀神社の神劔を託し秘かに奥州に下向せしむ。と御明神の昔を語るもの多賀神社なり。けだし往昔木村太郎三郎近江明神の神劔を負うて来たり。承元元年(1207)祠を建て納めたるもの此の神社なり」と。・・・しかして御明神は、即ち近江明神の訛りなりとか、傍らにそびゆる老杉の齢幾何なるかわからねど、亭々天を摩するの状、自らその老木たるを知る。けだし県内の老木なりとか、遠くこれをながむれば雄壮神威自ら人を圧するを覚ゆ。然れども景はむしろ初秋時雨の時期を以て最も佳とす。縷の如き細雨斜に枝を払う時、厳然更に微動だにせず、群鴉低飛して宿をもとむる静寂仰ぎては雨脚枝より降らんかと怪ましめ、伏しては濠中唯一箇の破簑を見るのみ。』
狛犬一対(昭和50年10月13日(旧9月9日)建之)
多賀神社(パンフレットより)…『【ご由緒】鎌倉時代、承元元年丁卯(1207~1210)の頃、宇多源氏の武将佐々木三郎盛綱の家臣木村太郎三郎と称する者が、日頃信仰する近江國(滋賀県)多賀神社(多賀大社)の神剣を奉じ諸国修行に旅立ち、出羽路を経て国見峠(仙岩峠)を超え、滴石を訪れる途中、平渡にて竜川を下ろうとした際、折からの出水に押し流され漸く溺死は免れたるも神剣を失ってしまった。やむなくそこに住んでいた左近(後・名を改め丹波)に救いを求め、同家に滞在して神剣の行方を探すことにした。丹波方の屋敷の西の方角に竜川の深い淵があり、そこから昼夜の別なく光明を放ち、いとも不思議に思いその淵底を突き探したところ、流失せし神剣を発見することができた。太郎三郎は、神剣がこの川底から発見されたことに深く御神慮を悟り、老杉の下に珠垣をめぐらしほこらを建て神剣を納めて、"明神"として祀った。それからは人家も増して田畑も開け、一つの村落となり、これを"近江明神"と呼び村の名を御明神村と呼ぶようになったと伝えられる。多賀神社の由来は、そのまま木村家(清兵衛)の由緒を伝えるものである。清兵衛はこの丹波を祖とし、神剣を奉持して来た木村太郎三郎が、明神創建を縁に丹波の一人娘と結婚して、名も右京と改め二代目となった。その後、三代・四代と明神社を守りながら滴石氏の部将となり、御明神の地頭として勢力を持っていたものと推測される。【鎮座地】岩手県岩手郡雫石町御明神多賀四四【ご祭神】伊弉諾尊、伊弉冉尊【御神体】剱【例祭】9月9日』
拝殿横にある境内社。
その付近に安置されていた石。
鳥海山・出羽三山。
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