能代市二ツ井町仁鮒鬼神前田。近くの内川には小掛地区と鬼神地区を結ぶ「鬼っこ橋」があります。普通の橋でしたがネーミングが可愛いです。
仁鮒はかつて「にふな」「にふね」とも呼び、二鮒・荷舟とも書きました。米代川と内川の合流点東南部に位置。東南方の欝蒼たる秋田杉の山林地帯は古代末期から国郡の境界を画してきました。地名の由来については、木のある場所というアイヌ語の「ニフニ」から転化したという説や、その木を荷舟で川下りした地だからという説などがあります。「日本書紀」斉明天皇5年条、阿倍比羅夫北進の際の記事に見える「問(とびう)蝦夷」の穂名(うおな)を当地の族長とする説もあります。
仁鮒村は戦国期から見える村名で出羽国檜山郡のうち。村名の初見史料は天正19年正月17日豊臣秀吉朱印安堵状写。「とひ禰村・にふな村」678石余とあり、秋田実季の当知行地。このうち465~495石程度が飛根村分なので、当村は200石前後の村と推定。文禄元年秋田家分限帳写では、秋田氏家臣大高甚助が当村内50石余を代官所給地として認められ、慶長6年秋田家分限帳では、このうち17石を甚助配下の鑓衆清六に扶持し、残り33石余が甚助の代官所給地となっています。
江戸期以降の仁鮒村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。檜山ルートの羽州街道に対し、当村は濁川・房住山・落合・長面・森岳を通り久保田へ至る間道の起点となっています。豊富な美林地帯は藩有の御直山として特別材木郷の檜山郷に編成。直山管理の山守は2~3人扶持の特別待遇で肝煎が兼務しますが、山林資源の村民への恩恵は薄く、例えば享保15年御留山の堂ケ沢・銀子沢・大沢の3沢が、山守立会で地焼きを許可される程度でした。過伐のため美林が漸減した林政改革時の文化8年には「仁鮒・小掛惣て木立も相応に相見得、仙北筋に比すれば格別よろしく候えども、先年に比べ一体大材もこれもこれなく大いに衰え候」の状態でした(下筋木山巡山日記)。一方で田地では元和3年藩士某に宛てた仁鮒村開発の指紙があり(小笠原家文書)新田開発も進みました。正保国絵図では仁鮒新田村200石、元禄7郡絵図でも仁鮒新田村246石余と図示。宝永年間以後に新田の字をとり仁鮒村として享保黒印高帳では村高281石余・当高239石余(うち本田95・本田並51・新田93)、寛政村附帳で当高259石余(うち蔵分238・給分21)と認定。親郷荷上場村の寄郷。天保郷帳239石余。享保郡邑記では鬼神・四ツ屋(元禄年中潰滅)の枝郷2ヶ村を擁し、71軒(うち鬼神村10)、秋田風土記では家数75軒と記載。村鎮守五社堂(銀杏山神社)は真澄遊覧記でも阿弥陀・薬師・観音・勢至・地蔵の神とも仏とも崇め祀っていると記します。他に太平山社・鬼神社及び修験南流山南覚院があります。明治6年の戸数153軒。同10年仁鮒学校創立。同16年仁鮒事業区は山林事務所大館林部派出所管轄となり、更に同19年には秋田大林区署小掛派出所に移管。同22年山本郡響村の大字となり、昭和30年からは二ツ井町の大字となります。
鳥居。
地図を見る限りで鎮座地は鬱蒼とした場所かと想像していましたが、綺麗に整備されていました。
參道完成記念(昭和37年12月、寄贈者畠山重藏)
畠山重藏様ありがとう。
このような感じで右手に社殿が見えてきます。
参道を振り返るの図。
御神木のカツラ。
これとは別に沢沿いも巨木のカツラが見えます。
不動様の千本桂です。
樹高約18m、目通り幹囲約8.0m、推定樹齢不明。
能代の古木・名木「不動様の千本桂」(平成31年3月建之)…『カツラは樹木の中でも特に水分を好むといわれているとおり、「不動の滝」からの流れの水際に無数のひこばえに囲まれながら伸びている。幹には注連縄が張られ、御神木として崇敬され保護されている。』
社殿に戻ります。
社殿。
拝殿から本殿までの段差の造りが面白いですね。
拝殿向拝蟇股等。
梵鐘がありました。
所謂鬼神を祀る神社かと思うかも知れませんが、鬼神は地域名であり、不動神社です。向拝には「鬼神不動山」とあります。
拝殿内。
鬼!?…じゃないみたい。
参道改良工事(昭和62年9月吉日)寄付者御芳名の札には「鬼神不動山神社」とありました。これが正式名称なんでしょうね。
鬼神名の由来…『菅江真澄は、享保2年(1802年)5月5日当地を訪れ当時の状況を菅江真澄全集第三巻に次のように記してある。皆仁鮒といふ村に舟にて渡る。尚深う行ば子懸(小掛)といふ。鬼神といふ村の不動尊の堂にのほる。滝あれど水の枯れてさらに音せす。此の山かげに、いばへの沢という山のふところあり、世にいふ小栗判官ののれる鬼鹿毛はここに産れたり。その馬の霊を神にいはひて鬼神という。「よりやがて村の名ともなりけるや」ある人いにしへよりいではみちのおくはよき馬のむかしよりいづなど語る。治承の軍に伊豆守仲紹のものたる木の下鹿毛の駒は宮城の都よりいで源九郎義経のり給ひし太夫黒といふは津刈の郡立野の牧にて生れている。(以下略す)昭和49年3月28日。記事提供:畑山敏雄。奉納者:62才畠山幸之焏、42才畠山隆、42才畠山義春、42才畠山■治郎、42才田中■郎(※以下破けて読み取れず)』
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