岩手県盛岡市津志田中央1丁目1。
並行・隣接して境内には八坂神社も鎮座。八坂神社には津志田町内会館が隣接。
大國神社一之鳥居神額(玉澤徳一郎書)
社号標(昭和12年9月9日藤澤作十郎建之)
石灯籠一対。
う~ん…文化かな…頑張れば読み取れます。
二之鳥居(大正6年2月15日建之)
大國神社二之鳥居神額。
石灯籠一対(文化8辛未年)
盛岡市指定有形文化財(歴史資料)平成6年3月盛岡市教育委員会…『【名称】大国神社の献額【所在地】盛岡市津志田二十地割三十九番地【指定年月日】昭和48年7月20日【説明】大国神社は文化7年(1810)盛岡藩主第三十六代利敬公が津志田の地の総鎮守として創建したもので、御祭神は大穴牟遅之命。境内には八坂社があり、素戔鳴尊を祭る。当時津軽町と称したこの地は遊廓が繁盛し、両社の中には遊女や楼主がおさめた諸願成就祈願の絵画献額(絵馬)や奥州俳諧四天王のひとり小野素郷筆の「俳諧之発句」などが奉納されている。この内、絵画献額十二枚及び俳句献額三面が遊廓で賑わった当時の面影を残す歴史資料として有形文化財の指定を受けている。絵画献額は一枚の紙画の他は全て板画に極彩色豊かに描かれており、当時の雰囲気をよく伝えている。また、境内には祭具、手水鉢、石灯籠など貴重な史料も数多く残っている。【所有者】盛岡市津志田二十地割三十九番地大国神社』
大國神社大鳥居奉納者名碑(平成11年9月吉日)。名字がほぼ「吉田」「熊谷」でした。
石碑。
馬頭観世音菩薩(昭和53戊午年10月吉日、福泉寺沙門宥然拝書、オワキイタコド石太郎、山道隆)
かっこいい馬が彫られており、「巌峰」とありました。
裏面「農耕馬文化におされすがたなし、昭和53年午年髙畑コウジロー、盛岡市本宮大宮石材田村守男」
吉田松陰遊歴之地…『嘉永五年(1852)に東北漫遊の旅に出た吉田松陰(長州の志士)は、宮部鼎蔵(肥後の志士)とともに盛岡を訪れた。平成27年6月吉日吉田五郎二建之』…吉田だらけ
参道。
手水石。
狛犬一対(都南村津志田、吉田豊治)
津志田についてです。北上川の右岸に細長く立地し全域が平坦地。中央を奥州街道(現国道4号)が通じています。地名の由来は、津は船舶の泊まる所、志田は接尾語で、津志田は渡りしなまたは渡る間という意味があり、北上川の渡迫よりでた地名といいます。江戸期以降の津志田村は紫波郡のうち。盛岡藩領。向中野通に属します。古くは津軽町村と2ヶ村でしたが、後に津軽町村を併合して津志田村一村になったといいます。この併合の時期については諸説あり、増補行程記には「寛文五年十一月之頃津軽町ヲ津志田町と改る、津軽町を津志田町と可申旨被仰出よし」とあり寛文5年のことですが、管轄地誌・都南村誌では文化5年、紫波郡誌では同6年とし、また、津志田・津軽町聞き書では、津軽町遊郭が文化7年に設けられましたが、藩では津軽の名を嫌って津志田村と合併させ、津軽町を津志田町に、その他を津志田村とし、合わせて津志田町村として一村としたとあります。なお、郷帳類では津志田村のみしか見えず、邦内郷村志・本枝村付並位付では津志田村と津軽町村の2ヶ村に分記されています。津軽町の地名の由来については、「利直公の時、津軽者の帰化せしを置かれしと云」(盛岡砂子)とあり、天正年間に津軽の人々が南部氏を頼りに移って来たので当地に居住させたところから名付けられたといいます。村高は正保郷村帳113石余(田39石余・畑73石余)、貞享高辻帳133石余、邦内郷村志540石余(うち給地5石余)、他に津軽町村として140石余、天保郷帳680石余、安政高辻帳545石余、旧高旧領851石余。邦内郷村志では津志田村の家数20、集落別内訳は野田5・小舛沢6、馬71、津軽町村は家数52、馬31。本枝村付並位付によりますと、津志田村の位付は上の中、家数17、集落別内訳は野田6・小升沢4・樋ノ口3・生畔4、津軽町村の位付は上の中、家数56、集落別内訳は津軽町45・沖1・堰合9・高畑1。寛政9年の史料には産物として茄子・芋ノ子・百合根が記されていますが、平地でありながら耕地が田と畑とほぼ同じで、盛岡城下の近郊農村としての特色がうかがえます。地内には奥州街道が通り、津軽町を中心に町場が形成されていました。明暦4年藩主重直が江戸からの帰途、郡山から歩いて津志田に来ましたが、領内の街道は曲がっているところが多くて悪いため、日光街道の様に整備せよとの命令が出されました。のち街道は改修され、両側に松並木が植えられました。藩主利敬は津志田町を再建し、文化7年に初めて津志田に遊女屋が建てられました。盛岡砂子によりますと、藩主利敬は町場の町名を桃町と改称し、大国堂を建立。地内には桃桜の植樹、池の造成、藤棚の構築がなされ、大国堂の脇畑には居宅が建造され、祭日は4月9日と決められました。町内では茶屋商売が命じられて盛岡町から新屋・亀屋・鶴屋・玉屋・常盤屋・生田屋・深川屋・松葉屋・浜屋などが引越し、二階造りの茶屋が普請され、遊女は宮古鍬ケ崎から呼び寄せられました。遊客は次第に増加し、駕籠舁・見番などの活動に支えられて昼夜とも大繁盛となりました。酒・小間物・ろうそく・油・肴・青物などの商店も建ち並び、特に大国祭礼の4月8~9日は高い仮屋が設けられ長唄・常盤津節で踊りに興じ、参詣・見物の老若男女が群集しました。文政6年には藩から茶屋・遊女屋の撤去を命じられましたが、人心の荒廃は改まらず、同9年風紀一新の誓紙議定書が作成されました。しかし、嘉永3年松並木敷地に再び二階造の家屋が20余軒建てられ、藩は撤去の勧告を再三下しています。吉田松陰は「東北遊日記」嘉永5年の条で、道樹を倒し、良田を潰し、遊女屋数十軒を建てるとは南部の政治は誠に惜しいことだと批判しています。町の入口には柵門が設けられ、その外に雷電社があります。天明8年から天保9年の古人先立控帳には、津軽町御制札として強訴徒党停止・切支丹停止・捨馬停止が掲げられていたと記録されています。盛岡城下から南方一里の地点にあたる川久保(字地)の奥州街道には一里塚が築かれていました。川久保は志和稲荷街道の分岐点でもありました。盛岡の名物になっている「舟っこ流し」は当地が発祥の地といいます。文化年間に遊郭松前屋の遊女小時が、増水の北上川を小舟で渡り激流にのまれて没し、それ以来亡霊が出て人々を悩ますので、それを生きて津志田に帰れなかった小時の亡霊に違いないと思った関係者達が川施餓鬼をすることになったことに由来。そして盆の16日、読経の中、美しく飾られた舟が北上川に繰りだされ、「舟っこ流し」の行事が行われるようになったといいます。近郷近在から何千人という見物客が押しかけ、新山河原は人で埋まったといいます。それ以来、小時の亡霊の話もなくなり、津志田遊郭もまた一層賑わいをみせたといいます。慶応2年津志田の中央、津志田橋近くの西裏から出火、折からの烈風にあおられて33軒あるいは36軒が焼け出され、遊郭はほとんど失われました。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て同5年に岩手県所属。同10年公立小学校が開校。同10年の村の幅員は東西15町・南北16町、税地は田95町余・畑98町余・宅地12町余など計207町余、戸数96・人口545(男275・女270)、馬82、人力車1、神社1(大国神社)、職業別戸数は農業84・工業2・商業6・雑業1・神官1・士族2、物産は馬・鶏・鶏卵・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・黍・蘿菔・胡麻・胡瓜・茄子・芋・粒荏・馬沓、地味は赤・黒土で中位に属しますが北東隅は肥壌、南西隅は旱魃に苦しみ瘠悪、街道の沼地は水害の患があるといいます。明治22年見前村の大字となり、昭和30年都南村、平成4年からは盛岡市の大字。明治22年の戸数99・人口621。同25年津志田駐在所設置。明治23年日本鉄道(国鉄東北本線)が盛岡まで開通、大正3年汽車の飛火で字野田に火災が発生し2戸全焼。昭和5年県立盛岡農学校(県立盛岡第四高校)落成。同20年津志田分教場を陸軍兵器庫に貸与のため6月から分教場の児童を本校(見前小学校)に収容、第二次大戦により分教場を復帰しますが同44年閉校し、本校の見前小学校に統合。急激な人口増により、同54年見前小学校から分離して津志田小学校(児童数600)新設。昭和28年見前中学校開校。同43年盛岡中央卸売市場を当地に開設。都市化の波により国道4号沿いは商店・工場群に、田畑は住宅地に一変しました。
拝殿。
本殿。
旧村社。御祭神は大穴牟遅命。文化7年、時の盛岡藩主36代南部利敬は風俗取締まりのため、盛岡城下の遊郭を全面閉鎖して郊外の津志田に移しました。それと同時に総鎮守として当社を建立。津志田遊郭は繁栄、衰退、営業停止、復活と歴史を辿りながら、安政元年盛岡城下八幡町に移されるまでの45年間続きました。明治4年村社に列せられます。例祭は9月9日。社殿には大小20余枚の奉納絵馬・献額があり、海中昇日図・大尽遊図・七福神図・男女道行図・美人図・俳句の献額など遊郭全盛時代の文化年間の秀でたものが多いです。
拝殿向拝神額「大國神社」(戦歿者慰霊奉納、昭和16年度壮丁者一同※12年かも)
拝殿内。
神社庁より…『【御祭神】大穴牟遅之命【例祭日】9月9日【由緒】文化7年(1810)の創社。藩主南部利敬公の恩立である。神祇動では当時最も重要地位を占めていた植村近江が祀職に任ぜられている。現在の祭登などから華美を尽した当時のさまが偲ばれ、多数の奉納額面は文芸の洲叢の観がある。この点決して他社の追随を許さない。桃の木を植え桃の宮とも称した。後年、遊女町がなくなってから請うて村の鎮守として修験大法院の祭祀に属した。昭和49年(1974)6月、村指定の重要文化財として額十二面、俳句額三面指定される。』
百万遍供羪塔(文化4丁卯天3月15日)
金毘羅大神。
出羽三山。
岩手三山(岩鷲山・姫神山・早池峰山)
岩手三山(岩鷲山・姫神山・早池峰山)津志田大國神社講中一同、発起人髙畑髙次郎・イタコド石太郎・西健・山道隆・惣助分家二次郎、長浜堂倉治87才書、昭和53年7月吉日、石工大宮石材
出羽三山(昭和51年辰極月、津志田講中一同、石工田山)
出羽三山石碑建立協賛者芳名碑(昭和51年辰極月、津志田講中一同、「三山の思いが実るやしろ前」髙二郎)
神楽殿。
すぐ隣の八坂神社へ。
境内玉垣は昭和46年9月9日建立。
鳥居(昭和12年11月9日)
八坂神社鳥居神額(昭和36年9月9日、別当吉田正司・政吉ほか2名)
手水石(文化7庚午年3月吉日)
石灯籠一対(昭和13年9月9日)
令和改元記念碑(令和元年5月1日建立、奉献者代表役員宮司田村勝則、責任役員吉田五郎二、吉田實、藤沢勲、鈴木芳蔵)
平成御大典記念碑(即位の禮當日、平成2年11月12日建立)
不明の石。
向かって右から大國神社社殿、八坂神社社殿、津志田町内会館。
八坂神社。
狛犬一対(昭和47年12月16日)
御祭神は素戔鳴尊。
拝殿向拝神額「八坂社」
拝殿内。
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yuki
がしました