秋田県能代市檜山越王下。
参道。
あれ?右にも並行して参道が見えます。
どうも右に見えていた参道が表参道のようです。
最初の鳥居をくぐると下の写真のように手前に道(赤い矢印)がありますが、奥(黄色い矢印)が表参道のようです。どちらでも変わりなく社殿正面に着きますが。
ってことで改めまして表参道。
檜山はかつて檜山御町・檜山町村とも記しました。北流して米代川に注ぐ檜山川中流域に位置。三岳には縄文前期の遺跡があります。檜山町は戦国期から見える町名で出羽国檜山郡のうち。湊合戦に関する天正17年の合戦覚書に「檜山」とあるのが初見となります。天正19年の村高は中屋敷村と合わせて738石余。町の東南部にある檜山城は秋田郡・檜山郡を支配した安東氏の本拠。方1kmを超える山城で空濠と郭が分散、上館・茶臼館・赤館・古城などの小字名を残します。築城の時期は不明ですが、安東政季、嘉吉の頃当地方に入部したといいます。しかしながら安東氏の男鹿半島定着が鎌倉後期であることから推して、それ以前から同地方を領有していたことが推測されます。中世後期から原初的城下町を形成。町は秋田郡・比内郡を結ぶ北羽の主街道沿線を軸に存立、交通上の要衝をなします。町の端に多宝院、城の北麓に浄明寺・観音堂が現存。観音堂付近から南北朝期五輪塔の頭部が出土。浄明寺は安東氏と深い関係を持つといいます。多宝院・観音堂も中世からの由緒を持っており近世に新しい由緒を加えています。
江戸期以降の檜山町は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。正保国絵図で本田当高496石余、享保黒印高帳で村高833石余・当高657石余(うち本田363・本田並78・新田216)、寛政村附帳で当高669石余(うち蔵分669・給分なし)、秋田風土記で高657石余、天保郷帳で657石余。家数及び枝郷は享保期138軒以上で、新町・亀堂町・赤館町・田町・足軽町・陪臣下町・高町・愛宕町・大町・馬口労町などの町名あり、軒数記載は愛宕町16・馬口労町14・渇(濁の誤記)川村10・今泉8・新田11、寛政期枝郷は新屋敷・今泉・濁川、文化期家数は120軒(うち枝郷今泉8・新田11を含む)。各町内及び村の推移は、愛宕町は延宝7年檜山町よりの移住で始まり、馬口労町は万治2年檜山町よりの移住で始まります。また、濁川村は寛文4年秋田郡比内より移住で始まり、新田村は万治2年檜山町よりの移住で始まります。所預多賀谷下総は知行高4,000石・家士100戸・人数200、他に組下給人17戸・人数30、更に松野茂右衛門組下70戸・人数120。多賀谷系は下町、松野組は赤館町・亀堂町・田町居住。寺社は檜山惣鎮守霊亀山古四王社、別当修験正行寺。他に巳ノ宮・神明社・観音堂・多賀谷氏菩提所禅宗多宝院足田村能持院末・禅宗楞厳院・鎮守稲荷社・修験喜楽院・修験常見院・一向宗浄明寺。明治22年に周辺枝郷を合わせて山本郡檜山村の大字となります。檜山町・母体村・大森村・中沢村・田床内村の5ヶ村が合併して成立。大字は旧村名を継承、5大字を編成。崇徳小学校は藩校明徳館の郷校として寛文年間創立の崇徳書院に始まり、明治7年霧山学校創立に引き継がれ、同30年校名を崇徳と改称。昭和30年能代市に合併、5大字は同市の大字に継承。合併前の人口3,014(農2,615・林115・商工77・その他207)。
檜山神社は明治時代に愛宕神社や越王(胡四王)神社などの周辺諸社が合祀されてできた神社です。愛宕神社は秋田城之介(安東愛季)公建立。慶長15年に多賀谷佐兵衛宣家が中仙北白岩からこの地に移り再建。旧鎮座地が檜山城の麓(跡地には現在霧山天神宮が鎮座)であったことから檜山城の鎮守社、または安東氏の崇敬社だったと考えられます。慶長20年(1615)の一国一城令により檜山城は廃城となるも愛宕神社は維持され、多賀谷氏の崇敬社として社殿の再建が行われています。明治の神仏分離令により仏式が廃され、明治6年に村社に列し、大正6年に越王(胡四王)神社と合祀し、桧山字茶臼館に移転鎮座し檜山神社と社号改称。大正13年に社殿が焼失するも、大正14年に現在地に遷座し社殿造営。越王(胡四王)神社の創建は不詳ですが、伝承によりますと桓武天皇の御代(781~806)、坂上田村麻呂が蝦夷討伐で戦勝を祈願し建立。檜山惣鎮守として歴代領主から崇敬され、檜山城城主安東家の庇護となり元亀3年(1572)に阿部愛季公が社殿を再建しています。江戸時代に入り、檜山所預として当地に赴任してきた多賀谷佐兵衛氏が庇護し寛文5年(1665)に社殿再建。古より神仏習合し、別当寺院として正行寺(霊亀山、檜山惣鎮守、別当修験正行寺、開基田村丸)が祭祀を司ってきましたが、明治の神仏分離令により仏式が廃されました。
石灯籠二対(昭和10年12月吉日、能代湊材木町、鈴木重治・同アサ、天保13壬寅7月日)
狛犬一対。年代不明。
社殿。
神社庁「檜山神社」より…『【御祭神】大彦命、加遇突智神、天照皇大神、受持大神、少名彦神、 海神、息長足志姫命、菅原大神、大名持神、豊受姫神、羽宇志別神、水波売大神【例祭】9月8日【境内神社】神明社【由緒】元愛宕神社、先年秋田城之介愛季公建立の由、申し伝えあり。のち慶長年中仙北白岩より多賀谷佐兵衛宣家当所に引移り再建する。明治6年村社に列し、明治40年12月5反5畝28歩境内編入許可。元越王神社、弘仁50代桓武天皇御宇田村将軍東夷征伐の為、下向の節勧請草創の申し伝えあり、のち元亀3年中阿部愛季公再建の由代々申し伝えられる。明治41年1反7畝23歩境内編入許可。両神社大正6年に合祀、桧山字茶臼館に移転鎮座、同時に社名を桧山神社と改称する。大正13年5月野火で社殿焼失、大正14年11月現在番地に移転再建現在に至っている。』
拝殿向拝神額「檜山神社」(昭和2年、平川來助・平川順治)
拝殿内。
境内社の神明社。
神宮大麻がありました。
石塔などがある建物。
中央の碑は金毘羅…と見えます。紀年銘は微妙に読み取れず。
両脇に石碑と石殿。
そしてこのような額がありましたがよく見えず。龍かな。
古四王と大杉へ。
古四王神社の千年杉と呼ばれ、昭和53年に能代市の天然記念物に指定されています。
千年杉は、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に手植えしたものと伝えます。また、千年杉の根元から湧き出る清水は「亀井の水」と言われ、眼病に効くとされています。
古四王神社の杉(市指定天然記念物【指定年月日】昭和53年4月26日【所在地】能代市檜山字越王下21番地)…『通称「古四王神社の千年杉」。幹の太さは胸高周囲640センチ、樹高は15メートル超、推定樹齢は1300年とも。坂上田村麻呂が大内田・柏子所の蝦夷を討つ際に戦勝を祈願して神社を建立し、この杉を手植えしたと伝えられる。古四王は、越王、胡四王、高志王等、様々な標記で北陸・東北地方に広く分布し、阿倍比羅夫や坂上田村麻呂といった蝦夷征伐を社伝とするものが多い。なお、古四王神社は明治末期に周辺諸村の神社と合祀され、今は檜山神社となっている。根本付近から湧き出る清水は「亀井の水」と称し、眼病に効くという。能代市教育委員会』・『通称を古四王神社の千年杉といいます。伝承では坂上田村麻呂が大内田・柏子所の蝦夷を討ったときに、戦勝を祈願して神社を建て、この杉を手植えしたものといいます。田村麻呂の蝦夷討伐の話は事実ではありませんが、越王という地名からも、古代中央政権の影響がこの辺まで及んでいたということにがうかがえます。この杉の幹の太さは胸高周囲で640cm、樹高は15mを越えています。推定年齢ですが1300年くらいかと思われます。根元付近から湧き出る清水は亀井の水と称し、眼病に効くといわれています。古四王神社は明治末期に周辺諸社と合祀されて、檜山神社となりました。能代市教育委員会』
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