『八坂神社(紫波町東長岡)』からの続きです。前回、西側(国道456号側)の表参道石段上(上の写真)まで紹介しましたが、改めまして南側の天王川沿いの南参道からスタート。
社号標「八坂神社」(平成11年8月1日富士登山記念、平成16年7月吉日建立、山口篁・北田秀孝・北田嘉一郎・藤原春雄・北田照義)
南参道一之鳥居(平成19年7月吉日、東長岡西葛・西長岡嶋田建立)
狛犬一対(平成19年7月吉日、猿子英夫建立、施工㈲紫波石材)
参道。
八坂神社のナラカシワ。
『ブナ科に属する落葉高木、本種の分布は本州(各部)、四国、九州のほか、海外では朝鮮半島、中国東北部、インドシナ半島、インド東北部と分布域が広い。本州では岩手県、秋田県以南に見られる。県内では南から一関、平泉町、奥州市、金ケ崎町、北上市、遠野市、花巻市、紫波町に確認されており、紫波町長岡地区は天然分布の北限である。なお、県内の分布地区を概観すると、北上川低地帯に限られ、かつ神社、仏閣、庭園に限られるほか、独立樹として点在し、いずれも大木として知られている。花巻市「北笹間のならかしわ」は県指定天然記念物となっている。紫波町教育委員会』
眺望。
鳥居(平成6年7月吉日二葉運送株式会社、額寄進施工有限会社紫波石材)。西側の表参道の石段上にある鳥居になります。
灯籠一対。
八坂神社改築整備資金奉納者芳名碑。※八坂神社改築整備事業(平成6年7月着工、平成7年6月完工。事業概要:古木伐採植樹、幣殿移設増築、参集殿新築、神輿殿新築、境内拡張造成、本殿拝殿移設、神楽殿新設、旧社務所移設)
手水舎。
参道。
狛犬一対(平成6年7月吉日改築記念、東長岡西葛弘、施工㈲紫波石材)
石灯籠一対(文政5壬午年6月15日)
神楽殿。
社殿。
神社庁より…『【御祭神】素盞鳴尊【例祭日】旧6月14日(現在は7月の「海の日」を中日に前後3日間)【由緒】八坂神社は人皇第五十代桓武天皇延暦年中(782-806)坂上田村麻呂将軍勅命を奉じ、征東に際し当地に下向。折しも東奥の霧ヶ山嶽(現在の岩手山)に大猛という凶賊が巣をなし住み、住民を悩まし、あまつさえ法に叛き、仇さえなく有様で、将軍この聖山に素盞雄命を勧請し、武運長久、討伐成就を祈願したるに、彼の大猛凶賊も難なく征伐した。その後、文安年中(1444-1446)奥州の国郡山比爪城(現在の城山)の斯波陸奥州義兼、同族の斯波孫三郎詮直と代々崇敬厚く神領を寄進し、また社殿の修補あり。天正年中(1573-1592)斯波氏に代わり南部氏が当地を領するに、藩主南部信直公をはじめ歴代の藩主崇敬厚く、寛永9年(1632)藩主利直公当社に牛頭天王社の尊称を給わり、共に玄米十五駄ずつ永代寄進の証文附置下さる。元禄年中(1688-1703)藩主重信公社殿御造営寄進、宝永4年(1775)藩主行信公玄米十五駄ずつ永代寄進の証文附置下さる。享保6年(1721)藩主利幹公社殿修復。宝暦5年(1755)藩主利雄公社殿修復。寛政5年(1793)及び文化5年(1808)藩主利敬公社殿修復。文政10年(1827)、天保10年(1839)、文久2年(1862)いずれも藩主利済公社殿修復崇敬されしも、貞享年中(1684-1687)に野火のため社殿類焼し、古器または神社記など失ったが、明治6年(1873)3月、郷社に取据えられる。平成6年境内地整備に着手。参集殿・神楽殿・お札授与所を新築、平成12年拝殿屋根銅板葺き流れ造りに改築、末社相馬社新築、平成16年神輿庫新築、参道石段改修並びに参道をカラー舗装等10年をかけ境内地整備がほぼ完了する。』
紫波町観光交流協会HP「八坂神社(東長岡)/ナラカシワ(町指定文化財)」より…『【祭神】素戔鳴尊(すさのおのみこと)【祭日】例祭旧6月15日、年越祭12月17日【由緒】延暦年中(782~805)、坂上田村麻呂が素戔鳴(すさのおの)尊(みこと)を勧請と称すれども信ずるべき資料がありません。この社古くは朝日森神社あるいは牛頭(ごず)天王(てんのう)と称し、斯波御所及び南部盛岡藩主の崇敬厚く、社領の寄進社殿の改築等を加えられた事があります。貞享年中(1684~1687)野火のために類焼して古器及び社記等を失った。毎年の例祭には、盛岡藩より賽銭が届けられた記録が「家老席日記盛岡藩雑書」に記載されています。明治6年(1873)3月郷社に取り据えられました。【境内社】相馬社【氏子数】160戸【崇敬者数】50人【崇敬者団体】八坂奉賛会(昭和50年(1975)7月20日設立)会員15人【神職】宮司【役員】代表役員・責任役員6人・総代6人』
拝殿向拝。
拝殿内。
境内。
恐らく旧社務所。
手水石。
神輿殿。
御神輿。
参集殿・社務所。
コメント