岩手県盛岡市北山2丁目。臨済宗妙心寺派大光山聖寿禅寺。御本尊釈迦如来。盛岡観音三十三箇所第17番札所。南部家菩提所。
榊山稲荷神社に隣接。
なお、参道沿いに七福堂・聖壽寺別院があります。※七福堂(公式HP「盛岡三十三観音第十七番札所聖観世音菩薩像」より)…『もと盛岡市梨木町(現在の長田町―河北小学校敷地内)にあった葛巻家の菩提寺である円通山明宜庵に祀られていた仏像である。昭和二十二年廃寺となったため聖寿寺別院の七福堂へ移された。寄木造りの漆箔であり、右手には説法印を結び、左手には未敷蓮華を持っている。極めて緻密な彫刻が施されており、藤原様式をもとにした室町期のものと考えられている。観世音菩薩像を安置している七福堂は戦後に建立されたお堂で、明宜庵に合祀されていた七福神を祀っていたためこの名がついた。恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の七尊像が 一堂に会しているのは全国でも珍しい。生き生きとして表情豊かな彫刻は、江戸時代の仏師の作によるものといわれている。御開帳は、正月は松の内の期間。』
Wikipedia「聖寿寺」…『聖寿寺(しょうじゅじ)は、岩手県盛岡市北山二丁目にある臨済宗妙心寺派の寺院。盛岡藩主南部家の国元の菩提寺である。瑞鳩峰山報恩寺、大宝山東禅寺、宝珠盛岡山永福寺、雍護山教浄寺とともに盛岡五山(盛岡五個寺とも)の一つである。また現在の盛岡観音三十三箇所第17番札所でもある。山号は大光山。本尊は釈迦如来。等級は等外。正式名称は聖寿禅寺であるが、通称の聖寿寺で言及されることが多い。【歴史】開山は三光国斎国師。当初は三戸郡小向村(現在の青森県南部町小向)にあり、三光庵という名称であった。以後衰退していたが、三戸城主である南部信直が松島の瑞巌寺の僧侶である実堂の弟子石門を招いて中興した。盛岡城およびその城下町が建設されると、上田門前町の高源寺旧地に移転して諸堂や庫裏が建設される。元和4年(1618年)には寺領500石を拝領され、元禄年中に伽藍が再興される。文化6年(1809年)から2年間かけて江戸の感応寺(現在の天王寺)の五重塔を模倣して五重塔が建設される。なおこの五重塔は、現在は初層部分しか残っていない。藩主家菩提寺として繁栄したが、明治維新以降は寺領を失い衰退し、後に復興した。第二次世界大戦後に末寺で盛岡観音三十三箇所第17番札所の明宜庵が廃寺となったので、盛岡観音三十三箇所第17番の聖観音を引き継いで盛岡観音三十三箇所第17番札所となる。』
北山(旧桜山)案内図…『この北山一帯は古くから旧桜山とも呼ばれ、南部家菩提所として歴代の藩主のお墓があり、高松風致地区にも指定されております。聖寿禅寺は、2代実光公が南部家初代三郎光行公菩提のために青森県三戸郡に建立し、慶長4年(1599年)26代信直が三戸から盛岡に居城を定めた時に現在地に移されました。寺領五百石盛岡五山第一として、境内には36代藩主利敬が文化2年(1805年)に祖先の精霊供養のため建立した五重塔の一部が残っております。またこの境内には、明治維新の折、奥羽同盟に加盟し戊辰戦役に加わり朝敵と見なされ敗れ、その責任をとって切腹を命ぜられた家老楢山佐渡や日露戦役の烈士横川省三の墓もあります。』
地図抜粋。
檀家であり、画家として活躍された盛岡出身の勝又國男・深澤紅子の展示絵画があります。
なお、当寺関連人物(三光国師・南部光行・南部重直・楢山佐渡・横川省三・勝又國雄・深澤紅子)等については公式HPを参照ください。
聖壽寺公式HP『大光山聖壽寺』
公式HP「聖寿寺縁起」を参照一部抜粋…『建長6年(1254)、南部家第2代南部実光公により初代光行公の菩提を弔うため、現在の青森県三戸郡南部町に創建されたことに始まる。開山は三光国師(孤峰覚妙1271~1361)、本尊は釈迦如来。かつてその一帯は南部氏の居城になっており本三戸城と呼ばれていたが、後世になって聖寿寺館とも呼ばれるようになった。慶長3年(1598)第26代南部信直公は現在の盛岡に築城を開始した。その子第27代利直公を経て、盛岡城が竣工したのは寛永10年(1633)第28代藩主重直公の時である。築城にともなって諸寺院が北山周辺に集められ、三戸にあった聖寿寺も移転し、山号を「大光山」寺号を「聖壽萬年禅寺」と改めた。末寺は同市の長松院、遠野の瑞應院、三戸郡南部町の三光寺、十和田の浄圓寺など十ヶ寺を数えた。盛岡城下に移転してきた寺院の中でも南部家に所縁のある「盛岡五ヶ寺」は藩から特別な待遇を受けた。寛永11年(1634)の「寺社待遇」には、藩の祈祷寺であった真言宗永福寺の寺禄が八百石、ついで臨済宗聖寿寺が五百石、同じく臨済宗東禅寺と時宗教浄寺がが二百石、曹洞宗法恩寺が百八十八石が与えられていたことが記載されている。聖寿寺は七堂伽藍を備え、絶えず30名以上の弟子がいた。中興開山である第18世大道和尚(入寺1671-1700)の代には全盛期を迎え、全国から80余名の門人が集まって修行をしていたという。明治時代になると幕藩体制が崩壊し、南部藩は戊辰戦争で敗れて朝敵とされたことにより、宮城県白石へ転封となる。藩は多額の上納金を支払って再帰できたが、激しい時勢の変化により藩からの寺禄を失ってしまった聖寿寺は衰退の一途を辿る。さらに神仏判然令の逆風によって寺院の形をとどめないほど荒廃していった。明治8年(1875)になると、聖寿寺の広い境内地に桜山神社が移転した。神社は幕末まで盛岡城内に祀られていたものであった。そのため聖寿寺は境内の片隅で如意庵という仮本堂に移され、正規の住職もいない被兼務寺院となってしまった。明治33年(1900)、桜山神社が現在の盛岡城跡に移転することになったが、ついに寺院が再建されることはなかった。広い跡地には芝生が植えられ、周囲には百本もの桜の木がうえられており、春になると大勢の花見客でにぎわった。また少年たちの野球場や町内会の催し物が開かれる憩の広場となっていた。現在でもこの地を「旧桜山」と呼ぶことがあるが、明治時代の20数年間、「桜山神社」が鎮座していたことによるものである。昭和5年になるとこの地に正面に神明鳥居を配した南部家の霊廟が建立された。同年1月に亡くなった第43代利淳公の遺骨が最初に納められたが、その後の当主の遺骨はここに納められる。「質素なるも壮麗な内部」と当時の新聞に報じられた。明治・大正と長い低迷期を経て、聖寿寺が現代に江戸時代のたたずまいを残しているのは、かつて五重の塔であった千体地蔵堂だけとなってしまったが、戦後になってようやく寺院の復興の兆しがみえはじめる。本堂は昭和34年に建立されたもので、元東京女子医大学長をつとめた久慈直太朗氏の寄進による。本堂が八角形なのは、聖寿寺の再興を願って、聖徳太子偲んで建てられた奈良県法隆寺の夢殿を模したものである。昭和51年には山梨南部町の南部ライオンズクラブと盛岡中津川ライオンズクラブによる南部家墓所の石段の大改修が行われた。また、平成11年には庫裡が完成している。』
盛岡市指定有形文化財(工芸)…『【名称】マリア観音像(厨子付)一体【所在地】盛岡市北山二丁目十二番十五号【指定年月日】平成元年4月10日【説明】本像は合掌印の観音形のマリア像で極めて精巧な青銅鋳造の小像である。二代藩主南部利直の正室となった蒲生氏郷の養妹である於武(おたけ)の方が持参したものと伝えられ、南部家の御下賜品で秘像とされたものである。この像を納めている厨子は青銅円筒形で天蓋(てんがい)が上に開くように蝶番(ちょうつがい)で止められ、前面もアーチ形の扉が蝶番で開閉できるようになっている。内側はすべて鍍金(ときん)され、天蓋の上部にNDEDの文字が三冠文の中に刻まれている。「マリア観音像」及び「厨子」は、ともに桃山時代におけるキリスト教関係資料として貴重な文化財である。マリア観音像:像高2.4cm、厨子:高さ3.5cm、底部径2.0cm【所有者】聖寿禅寺』平成14年3月、盛岡市教育委員会
「戊辰の碑・佐渡の墓」案内板。
かつて南部家江戸屋敷にあった蹲。
由来…『此の蹲は江戸時代、南部家江戸屋敷にあったものを、平成元年五月昭憲皇太后(明治天皇皇后)ゆかりの、北向地蔵尊共に、南部家四十五代利昭氏によって東京から移して、当寺に寄進されたものです。平成13年8月当山38世恵関祖秦代』
千体地蔵堂へ。
千体地蔵堂…『文化5年(1808)第十一代藩主利敬(としたか)公代に蝦夷地(北海道)警護の功績により10万石から20万石に加増されたのを祝って創建された。高さは約三十五メートル、総工費五千両ともいわれ江戸中谷の五重の塔を模して造られた。明治になると版籍奉還、神仏分離令などで寺は寺禄を失って衰退。境内にある多くの建造物や什物が破却あるいは売却されてしまったが、塔の一階部分だけは、藩校「日新堂」の創設者の一人であった旧藩医八角高遠(やすみたかとう)が私財を投じて購入して寺へ寄進、かろうじて残った。その後も荒廃したままであったが、大正十一年篤志家木村栄次郎氏が発起人となって、お堂の内部に千体の地蔵を奉納する運動をおこし、地蔵供養の布施をお堂の維持費用にあてた。地蔵堂の北面に「千体佛奉安記」の額が掲げられている。内部中央に本尊として、南部家ゆかりの子安地蔵尊(亀子大明神)を安置している。』
狛犬一対。
千体地蔵堂(旧五重塔・子安地蔵尊)…『聖寿寺(しょうじゅじ)は、南部家の菩提寺である。江戸時代は、七堂伽藍を備え、寺禄五百石を賜る盛岡藩の筆頭寺院であった。このお堂は、文化5(1808)年盛岡藩が十万石から二十万石に加増された折、十一代藩主利敬(としたか)公が五千両を費やして建立した五重塔だった建造物である。明治になると、神仏分離令の影響を受けて聖寿寺が荒廃し、五重塔は上部から解体、売却されていったが、旧藩医の八角高遠(やすみたかとう)が私財を投じて購入、寺に寄進して一階の解体だけが免れた。大正11(1922)年、篤志家木村栄次郎はじめ地元有志の人々によって地蔵堂として改修され、千体の地蔵をお祀りして現在に至る。正面の額の題字は南部家第四十三代利淳(としあつ)公の揮毫によるもの。お堂中央の須弥壇いは、安産成就の亀子地蔵尊が祀られている。聖寿寺』
楢山佐渡・戊辰の碑(旧櫻山の由来)…『江戸時代末期まで、このあたり一帯は聖寿寺の境内地であったが、神仏分離令の煽りを受け、明治8年、寺は廃寺同然の扱いとなり、坂の下へと移され、代わりに歴代藩主をご祭神とする櫻山神社が建てられた。この辺一帯が旧櫻山といわれるのは、現在盛岡城跡にある櫻山神社がかつてこの地にあったからである。右側に建つ碑は、その当時櫻山神社に建立された記念碑である。戊辰戦死の碑は、明治14年に建立されたものであり、裏側には戦死した盛岡藩の士卒たちの名前が刻まれている。戊辰戦争に敗れた南部藩は、賊軍という厳しい扱いになった。その戦争の責任を一身に受け、斬首された筆頭家老の楢山佐渡がいる。佐渡の碑は、明治22年、朝廷から家門の再興を許されたときに建立されたものである。櫻山神社がこの地に鎮座していた期間は、明治8年から明治33年まで、26年間であった。聖寿寺』
石碑がたくさんあります。
南部岩手民謡碑(岩手県知事中村直書)
横川省三墓所入口。
横川省三…『横川省三は、慶応元年4月、南部藩士三田村勝衛の二男として、盛岡、上米内に生まれた。初め勇治と称し、青年期に山田を姓としたが、のち和賀郡十二鏑(かぶら)村(東和町)の横川家に入籍、名も省三と改めた。若くして雄心勃勃(ゆうしんぼつぼつ)、明治17年、上京して、自由民権運動に加わったが、次いで東京朝日に入社。郡司大尉の千島探検には特派員、日清戦争には従軍記者として参加し、万難を排して、よくその取材報道に縦横の筆を揮(ふる)った。明治29年、社を辞して渡米、暫く移民事業に携ったが、東亜の風雲漸く急を告げるに及び、意を決して満蒙(まんもう)に入り、日露戦争勃発するや、沖禎介等同志と共に、露軍の後方撹乱を企て、嫩江(のんこう)大鉄橋を爆破せんとして捕われ、ハルピンに於いて銃殺の刑に処せられた。享年40歳。至誠豪宕、真に国を思う烈士であったが、友情濃(こまや)かに、キリスト教の信仰篤く、死に臨んで500両(テール)を露国赤十字社に贈った美挙の如きその博大なヒューマニズムの発露というべきであろう。』
盛岡藩士卒戊辰戰死之碑(明治14年5月、南部利剛建之併書)
楢山佐渡之碑(篆額正四位南部利剛君書)※省略しますが碑文は読み取れる状態です。盛岡市HP「楢山佐渡(1831年~1869年)悲運の盛岡藩家老」より…『楢山佐渡(ならやまさど)(本名:隆至(たかし)、隆吉)は楢山帯刀(たてわき)(隆冀(たかくに))の長男として生まれた。楢山家は南部一門として代々家老を勤めた家柄で、佐渡も弱冠23歳にして家老職に就き、後には主席家老として藩政の改革に奔走した。佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆をおさめるために働き、そんな佐渡を藩主利剛(としひさ)も厚く信頼した。1868年(慶応4年)2月、旧幕府側と薩長側に揺れる藩の行く末を決めるべく、佐渡は主席家老として京都へ赴く。しかしそこで佐渡が見たものは、権勢を得て横暴な態度をとる薩長の武士の姿だった。そのため佐渡は、薩長の標的とされた会津藩と庄内藩への穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)への参加を決意する。奥羽越列藩同盟に従った盛岡藩は、同盟を脱退した秋田藩を攻めるも官軍の援助を得た秋田勢に敗れ、同年9月に降伏謝罪の手続をする。主席家老として佐渡はその戦争の責任を一身に受ける形となり、翌年の1869年(明治2年)6月23日、故郷盛岡にて切腹の形をもって処刑された。後に原敬は「戊辰戦争殉難者五十年祭」中で、“戊辰戦争は即ちただ政見の異同のみ”と祭文を読み上げ、当時の盛岡藩及び楢山佐渡の立場を語った。』
照井一宅先生遺範碑。盛岡市HP「照井一宅(1819年~1881年)漢学者」より…『照井一宅(本名:全都、通称:小作)は1819年(文政2年)、盛岡にて盛岡藩士照井小兵衛全秀の子として生まれた。一宅は号であり、その他にも蟷螂斎(とうろうさい)を名乗っている。天保年間、父小兵衛は主君南部利済(としただ)の怒りにより、録を取り上げられ山野に家居する。この間一宅は、父の病気の看病と農業を営みながら、家に残っていた四書に親しんだ。後年古沢温斎の門に入って勉学し、藩校作人館助教に任ぜられた。作人館には那珂梧楼(なかごろう)がいたが、“定見の確かさは金城鉄壁の如く抜くべからざる者がある”と一宅について嘆賞している。1869年(明治2年)、東次郎の盛岡藩大参事就任とともに少参事となり、その新政を助けた。一宅は漢学者であり、五経、左氏、国語、孟子、荀子、荘子の研究に及び、その中でも荀子に最も長じていた。その学は必ずも広くなく、遺著も『論語解』、『孟子解』、『大学中庸解』などしかなかったが、清代の漢学者章炳麟(しょうへいりん)は“全都ハ千四百紀以後ニ生マレ、独リ能ク高励長駕ス、ソノ微綸ヲ引キ既ニ沈マントスル九鼎ヲ釣リ而シテ之ヲ絶淵ニ出ス云々”と一宅の学問を礼讃している。“古書を学ぶにはたとえば、餅を作るように反覆(はんぷく)こねまぜて一点のかたまりもなくするようにして始めて得るところがある”と一宅は述べており、その学問における姿勢は注釈ではなく本文を熟思することを重視していた。』
こちらは…湍水伊藤長有之碑!?
と読んだけど、盛岡観光コンベンション協会のHPによりますと伊藤満水之碑とのこと。碑文は相当頑張れば読み取れます。
東巖川上先生碑銘。川上東巖は盛岡藩の儒者。※省略しますが碑文は読み取れる状態です。
その他、馬頭観世音等。
南部家霊廟入口。
立入禁止でした。むしろ榊山稲荷神社境内からの方が拝めます。
鳥居。
千体地蔵堂の脇にある歴代南部藩主の墓地へ続く石段。
墓地を抜けると高松の池や愛宕方面へ向かう散策路コースへ合流できます。
石段沿いには地蔵尊が立ち並んでいます。
手水石。
第29代南部重信公。
第30代南部行信公。
第38代南部利済公。
第38代南部利済公側室光雲院殿。
案内板も一応ありますが、周囲には他にも墓碑がたくさんあるので迷います。よって一部のみの紹介となります。
石段。
第33代南部利視公。
案内板「第三十三代南部利視公・第四十代南部利剛公二男英麿殿」
石段。
第40代南部利剛公・第36代南部利敬公。
案内板「初代南部光行公・第九代南部祐政公・第十一代南部信長公・第十二代南部政行公・第三十六代南部利敬公・第四十代南部利剛公」
石段。
第28代南部重直公・第32代南部利幹公・第34代南部利雄公。
案内板「第28代南部重直公・第32代南部利幹公・第34代南部利雄公」
大雑把ですいません。是非現地で案内板に従って拝んでください。
戻ります。
石段から見た千体地蔵堂。
聖寿禅寺墓地(旧桜山霊園)楢山佐渡墓所案内板。
國老楢山佐渡守墓所標柱。
石段。
楢山佐渡墓所。
楢山佐渡の墓…『楢山佐渡は名は隆吉、はじめは五左衛門と称した。家は南部氏の分流で、盛岡藩士中の名門、高知(1207石)であった。佐渡は、15歳で藩主に近侍し、23歳で国老の執政に累進、困難な内外情勢に対処し、稀有の人傑として敬慕されていた。佐渡は一藩代表で再度上京、御所の守衛を勤めたが、維新政争の際、東征軍出勤の挙に反対し、帰国して薩長勢抑制運動に参加し、佐竹領秋田に進撃したが、奥羽北越同盟軍の敗退と共に敗れた。よって南部氏は陸奥十ヶ郡(和賀、稗貫、紫波、岩手、閉伊、九戸、三戸、北二戸、鹿角)等20万石の領地を没収され、佐渡は戦犯罪として、翌明治2年6月23日、盛岡で処刑された。時に39歳、家名断絶となった。明治22年4月、楢山佐渡家の家名再興が許されたので、墓碑も立てられるに至った。』・BURIAL PLACE OF SADO NARAYAMA…『Sado Narayama was born the son of a principal retainer of the Morioka Nanbu Clan and became a highly respected principal retainer himself.He went to Kyoto and joined the Oshu Clans'Alliance,accused the Satsuma and Choshu Clans of fighting for selfish reasons,and attacked Akita.But he was beaten by the Imperial Army and was executed in 1869(Meiji 2),when he was 39 years old,as the person responsible for the actions of the Morioka Nanbu Clan in the war.The use of his family name was forbidden from then until 1889(Meiji 22),when the family name of Sado Narayama was restored and his tombstone was erected.』
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yuki
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