岩手県紫波郡矢巾町西徳田。徳丹城跡に鎮座。
社号標「徳田神社」(昭和9年8月25日)
参道。
徳田についてです。北上川右岸、同川支流岩崎川左岸に位置。地名の由来は古代徳丹城があったことによります。戦国期の徳田は戦国武士徳田氏の本拠地。斯波郡のうち。徳田掃部は郡主斯波氏の家臣。東徳田(矢巾町五百刈田)の古館(徳田館)は館畑とも称されます。畑地・宅地となっており遺構は残されていません。江戸期以降の徳田村は紫波郡のうち。盛岡藩領。徳田通に属します。村高は正保郷村帳404石余(田348石余・畑55石余)、貞享高辻帳475石余、天保郷帳1,484石余、安政高辻帳1,190石余。貞享年間頃、当村が東徳田村と西徳田村とに分村したといわれ、邦内郷村志、本枝村付並位付、旧高旧領などには東西2ヶ村に分かれて記されています。盛岡藩領内では江戸中期から東西2ヶ村として把握されていましたが、幕府に対しては徳田村一村として届けられていたと考えられます。明治22年以降の徳田村は紫波郡の自治体名で、東徳田・西徳田・間野々・北郡山・土橋・高田・藤沢の7ヶ村と高水寺村の一部(字三枚橋)が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。明治22年の戸数489・人口3,239、面積1,072町余。県町村誌によりますと大正12年の戸数546・人口3,691(男1,840・女1,851)、職業別戸数は農業458・水産業3・工業13・商業23・交通業1・公務自由業18・その他31。物産は米18,471石・大麦2,142石・大豆1,361石・馬鈴薯7,200貫・大根27,500貫・牧草113,000貫など、家畜の頭数は馬488・鶏1,418。昭和12年の統計によりますと全戸数632で、うち農業551・商業30・工業12、総生産額は783,000円で、農産物75万円・藁製品2万円・鶏卵4,000円など。農産物内訳は米62万円・蔬菜類6万6,000円(馬鈴薯・ブドウ各6,000円が最も目立ちます)・麦2万8,000円・大豆1万円・リンゴ7,000円を主とします。1人当たりの年産額平均は約186円で、この額は当県の農村として最多額でした。これは農家551戸に対し802町の水田という恵まれた状況によると考えられます。同29年の世帯数727・人口4,923。同30年矢巾村の一部となり8大字は同村の大字に継承。昭和43年徳丹城跡が国史跡に指定。
社号標「徳田神社」(文部大臣岡田良平書)
両部鳥居。
灯籠一対。
巨木。
二之鳥居(昭和7年4月8日)
手水石二基(内一基は安政4丁巳年7月22日)
参道。
狛犬一対
紀年銘等は…う~ん…頑張れば読み取れます。頑張りません。
社殿向かって右に行けば橋があり…
道路を挟んで義勇奉公之碑があります。別記事にしております。
こちらは橋の名前かな…
篆書体苦手!昭和15年とあります。
こちらも読み取れず。
「史跡徳丹城跡南門跡」(昭和45年)の碑もあります。
御祭神は大名牟遅命、少毘古那命。例祭日8月25日。
由緒…『由緒詳かでないが口碑によれば、陸奥守藤原秀衡がこの地に弥陀仏を祀り、その族俊衡・秀衡堂宇を建立したと伝えられたるも、その後頽廃し、仏像もその所在を審らかにせず。後年に至り嘉永3年(1850)社殿改築に際し、屋根裏より三、四寸の銅仏を発見したという。数百年の間胡四王社と称したが、元和初年(1615)西徳田字田高より薬師社を合祀してより薬師神社と改称し、更に明治2年(1869)天満宮を合祀して天満宮と称したが、大正13年(1924)地名を冠して現在の徳田神社に改めた。』
社務所。
幣殿・本殿。
向拝蟇股等。
拝殿向拝神額。
公爵岩倉具榮敬書。
「奉納徳田神社」(昭和48年12月25日、西徳田、斎藤捨三)
こちらはかつての御神木でしょうか。
出羽三山(慶應4戊辰歳4月8日)
天神
猿田彦大神・大己貴神・少彦名神(安政6己未歳4月廿日當村講中)
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