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岩手県紫波郡矢巾町西徳田。
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矢巾町歴史民俗資料館。資料館の主な展示物は昭和58年9月20日開館。国指定史跡徳丹城跡出土遺物、藤沢狄森古墳群出土遺物、町内遺跡群出土遺物等考古史料。
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矢巾町歴史民俗資料館パンフレットより…『【国指定史跡徳丹城跡】徳丹城は、西暦812年(弘仁3年)の3月頃、時の征夷将軍文室綿麻呂によって造られた律令制最後の城柵である。雫石川の水害で被害を受けた志波城(盛岡市太田)を解体し、遷し建てられたもので、造営工事には2,000人もの鎮兵が動員された。遺跡の形状は、概ね正方形を示し、その大きさは一辺約350mある。北辺を除く東・西・南の三辺は丸太が並び立つ柵列であったが、北辺のみは築地と呼ばれる土塀であった。この柵列・築地を総じて外郭線と呼ぶ。その内外には溝が廻り、城の外周を区画している。外郭線四辺の中央部には三間一戸の八脚門が建つ。この東・西・南・北門を中心に推定17棟の櫓が70m程の間隔で外郭線を跨ぎ取り付く。一方、遺跡の中心部には、正殿や東・西の脇殿が配置された政庁(内郭)があり、役所の中枢としての格式を保っている。内郭の周辺には、いくつかの官衙(役所)群が存在するが、現在、その実態は詳らかではない。9世紀の中頃に至って、徳丹城は衰退したと考えられている。【藤沢狄森古墳群】この古墳群が世に知られたのは古く、遠く藩政時代に遡る。西暦1751年(寛延4年)、江戸は日本橋から盛岡城下まで街道筋を描いた清水秋全の俯瞰絵図「増補行程記」には、「昔此辺にて 夷のすミ伝るよし ゑぞが森 なる有」とあり、複数の墳丘が描かれている。また、ご城下の御棚の若旦那衆は、遊ぶ金欲しさに勾玉を掘り出し、遊女と一夜を過ごした旨の逸話も残る。近年の発掘調査では、60基を越す古墳が確認されており、全体では300基は降らない数の古墳が存在するであろうと推定される。構造は、遺体を納める主体部と周りを囲む溝(湟)とからなり、規模は大きいもので直径約13m、小さいもので3m程度のものがある。主体部には石敷きのものと穴だけのものがあり、また、溝には主体部の南側で切れるものと切れないものとがある。さらには、溝のない穴だけのものもあり、それらが大・中・小・種々組み合って小群が形成され、いくつかの小群が集まって古墳群が成立していると観られる。出土遺物には、玉類・鉄器類・銅器類・土器類・漆器類があり、種類・質・量共に他に例を観ない豊富さである。中でも、ガラス玉(トンボ玉や蜜柑玉)や鍍金した直刀の刀装具などは、特に目を見張るものがある。造営年代は、7世紀中葉頃を中心としており、8世紀に降るものは観られない。完全な墳丘を遺す1号墳は県の史跡に指定されている。』
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徳丹城跡散策。
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かなり広いので一部のみの紹介です。天気がよろしくなかったので。
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平安初期に志波城を移転して築いた城柵跡。国史跡。初見は「日本後紀」弘仁5年11月17日で「陸奥国言う、胆沢・徳丹二城、遠く国府を去り、孤り塞表に居る」とあります。しかしながら築造は弘仁4年頃と考えられています(陸奥国徳丹城建置年代考)。「日本後紀」弘仁2年閏12月11日条によりますと、志波城がしばしば水害を被るため、翌3年から4年頃にかけて適地に移転され、これが徳丹城であり、志波城がもった最北前衛基地としての機能をそのまま継承したものと考えられます。弘仁6年8月23日条によりますと、胆沢城・徳丹城相並んで各500の鎮兵で守備していましたが、この時一般兵士守備制度に改まっています。遺跡は紫波郡矢巾町大字東徳田字梅木前ほかにあり低位段丘の微高地に立地。国道4号が遺跡の西部を縦貫しており、遺跡内には徳田小学校もあります。水田の下から丸太材の柵木列が発見されており、梅木の地名も埋木に由来すると考えられています。昭和21年に第一次調査があり、昭和57年まででも22次の調査がなされているそうです。構造は外郭と内郭の二重構造で、平面形はともに正方形ですが、外郭の南東端は弧を描きます。規模は外郭が一辺約350m(方三町)、内郭は南北約80m・東西約70m。共に丸太材を埋め込んだ柵列。外郭には60~80m間隔で櫓があり、外側には幅約3mの濠があります。門は八脚門の南門ほか西・北門が確認されています。内郭は中央からやや北寄りにあります。南門は四脚門で、西脇に建物があります。外郭南門まで150m。内郭の中央に桁行5間・梁行2間の東西棟の掘立柱建物があり正殿。正殿の南東と南西に南北棟の脇殿。東脇殿は2期に分けられ、掘立柱建物から礎石建物に変遷。内郭の外側にも複数の掘立柱建物があり、官衙ブロックを構成するものと考えられます。出土遺物は土器・石製品・金属製品の他、僅かながら瓦もあります。日本古代国家が北辺に最終的に整備した官衙跡として貴重なものです。
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国指定史跡徳丹城跡…『徳丹城は今から約1200年前の西暦812年(平安時代)に征夷将軍文室綿麻呂が建てた城柵です。当時、この地方に住んでいた蝦夷と呼ばれていた人々と朝廷が30年以上争っていました。徳丹城以前の城柵は朝廷の勢力を拡大するための拠点として建てられましたが、徳丹城は蝦夷との和平を目指して建てられた、今の時代で言えば役場の機能をもった施設でした。』
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外郭西門跡と工房施設建物跡群…『西門跡は、徳丹城の西辺を区画する西外郭線(丸太材木塀)の中央に取り付く門である。第5次(1967)及び第63次(2005)の2度の調査により、間口3間(3間1戸)の掘立柱式の八脚門であることが判明している。柱間寸法は間口中央が3.6m(12尺)あり、両脇は2.7m(9尺)である。奥行は、2.4m(8尺)等間である。現存する柱は太いもので直径60cmあり、クリ材とケヤキ材を使用している。建て替えの有無は不明である。「由北角柱」や「西門」カと刻字された柱脚が出土している。また、西門跡の南東部で現在の国道4号西側に当たる湿地環境下から工房施設の建物群が確認されている。第65次(2006)調査では、これらの建物群の間から小さな井戸跡が発見され、井戸の底から水桶に転用された「木製冑」と井戸枠板に転用された「琴天板」が出土している。特に木製冑は、我が国の武具の歴史を知る上で重要な資料であり、平成25年11月に、琴天板とともに岩手県の有形文化財の指定を受けている。』
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木製冑左側面(樹種:トチの木)
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琴天板(上:表/下:裏、樹種:モミの木)
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木製冑の出土状況。
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南西官衙…『徳丹城を支える役所としての役割や機能をもつ施設を「官衙(かんが)」と呼びますが、当地区は政庁の南西に位置することから、便宜的に「南西官衙」と呼んでいます。南廂をもつ主舎(中心建物)の北側に東西に長い後殿を配置し、これらの東側に1棟、西側には3棟の南北に長い副舎(北西建物・西建物・南西建物)を建て並べています。建物配置の全体形は逆L字形となり、南東側に広場が広がります。これら6棟の建物群と広場は、東西53m、南北56mの塀で囲まれています。塀の東辺と西辺の中央部には門があり、東門から入ると、正面と右手(北側)の視線を遮る目隠塀があり、外から内へ入る者を官衙南東部の広場へと誘導します。このように外周を塀で囲み、その内部に整然と建物を配置した官衙は他の城柵遺跡では類例がなく、徳丹城跡では政庁に次ぐ格式の高い官衙と考えられます。このうち北西建物は東西2.3m、南北2.5mの規模で、徳丹城跡で発見されている建物としては最も小さな建物です。実用的には小さすぎることと、南西官衙の北西(戌亥の方角)隅に位置することから、宗教的な機能をもつ建物※と推測されます。現在地は、南西官衙を囲む塀の北西角付近です。官衙の主要部は国道4号の真下から東側に展開しています。国道4号の東側にコ字形に植栽しているツゲの木の列がありますが、これは板塀を表現しています。令和4年1月矢巾町』※胆沢城跡(奥州市)の政庁の北西隅から出土した木簡(木札)に「内神にお仕えする射手」と記されていたことから戌亥(北西)隅に設けられた神殿であると想定されています。
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徳丹城跡遺構全体概念図。
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南西官衙推定概念図。
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南西官衙地区(西から)
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北西官衙地区…『徳丹城跡の城内は、政庁の東西南北の門から外郭の門へと通じる城内道路によって、大きく四つの空間に分割されていたことが発掘調査によって判明しています。それぞれの空間には、徳丹城の役所としての役割や機能を支える部署がコンパクトに整備されていました。その部署を「官衙」と呼んでいますが、当地区が政庁の北西に位置していることから、便宜的に「北西官衙」と呼んでいます。北西官衙は、南に廂をもつ東西に長い建物を主舎(中心建物)として、その東と西に南北に長い副舎3棟(東舎・西舎北建物・西舎南建物)を配置しています。北西官衙を囲う施設は発見されていませんが、これらの建物群のすぐ南側には城内西道路があり、この道路地割が北西官衙の南限と推定されます。なお、北西官衙の具体的な役割や機能は不明です。徳丹城跡は、北上川の氾濫などによる浸食で形成された段丘の上に立地しています。徳丹城跡の東側は2~3mの高低差がある地形ですが、徳丹城跡の西側は徐々に標高が下がって湿地帯となります。公園整備では、この地形の境目を園路で表現しています。』
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北西官衙推定概念図。
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北西官衙(西舎北建物・西舎南建物)…『北西官衙の西側を構成する南北にならぶ2棟の副舎です。いずれも南北5間(推定)、東西2間の建物で、柱の中心間はいずれも10尺(3m前後)とみられます。廂等はないものの、東側を正面とした建物です。西側の湿地帯に接して建つため、建物の周囲には雨落溝(排水溝)がめぐっています。この2棟の副舎は南北棟であることから南廂をもつ東西棟の主舎より格下の建物になります。主舎と副舎で囲まれた広場は儀式のための空間として重要な役割がありました。』
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北西官衙地区の遺構配置(西から)
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西舎南・北建物跡から歩道橋へ。
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歩道橋上から見た徳丹城跡の一部。
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遠くに見える建物は佐々木家曲家と矢巾町歴史民俗資料館。
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政庁方向へ。
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東舎付近。
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国指定史跡徳丹城跡の碑(昭和52年3月18日矢巾町教育委員会)
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案内板「国指定史跡徳丹城跡」…『徳丹城は、今より1200年前の弘仁3(812)年3月頃、征夷将軍文室綿麻呂によって築かれた律令国家最後の城柵である。「日本後紀」(弘仁2年閏12月)によれば「それ志波城は河浜に近く、しばしば水害を被る。すべからくはその所を去りて、便地に遷立すべし」と記される。志波城はこれを最後に歴史の舞台から姿を消し、その3年後の弘仁5年に初めて徳丹城の名が登場することから、徳丹城は志波城を移遷した城であると考えられている。志波城の廃止に関しては、近年、陸奥国全体の軍制改革に伴う廃止であり、水害だけが理由ではなかったことが唱えられている。徳丹城跡の発掘調査は、昭和22年から始まり、遺跡の位置が確定した昭和44年には国の史跡として指定された。平成19年には一部が追加指定され、現在に至っている。遺跡は、岩手県紫波郡矢巾町西徳田地内にある。北上川右岸の低位段丘上に立地し、周囲は沖積地である。近年、この段丘下で運河跡が発見されている。外郭線は、築地と丸太材木塀の併用で、規模は概ね355mある。各辺中央部には八脚門が付き、中間には推定17棟の櫓が取り付く。また、外郭線の内外には溝が巡る。政庁には、正殿を中心に東西の脇殿が「品字形」に配置され、周囲には北東・南東・南西の各官衙が配置されている。発掘調査の結果、九世紀中葉頃(前半代)には、廃絶したとみられる。なお、外郭東門付近では一辺150mの平行四辺形の溝で区画された徳丹城に先行する官衙が新規に発見されている。出土遺物には、本邦最北端の古代琴や「別将」銘墨書土器、三方に透かし窓を開ける高盤(大皿)など、現在、他の遺跡にはない貴重な資料の出土が相次いでいる。特に、第65次調査(2006)では、全国初の木製冑が出土している。わが国の武具の研究史上の空白期とされてきた奈良~平安時代の実態を残す唯一の「木鉢」としてその価値は高い。』
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政庁へ。
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徳田小学校。
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徳田神社方面。
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政庁…『政庁は、城内中央部のやや北側に位置している。一辺約77mの一本柱列を支柱とする板塀を方形に廻し、各辺中央部には門がある。南門は四脚門で、北門と西門は棟門である。東門は未確認。門の外側には目隠し塀がある。南門の両翼には建物が併設される。内部中央には、正殿が、その南側の東と西には脇殿が「品字形」に配置される。掘立柱建物から礎石建物への建替えが行われ、二時期変遷が確認される。正殿は(桁行き5間、梁間2間)の東西棟で四面に縁を廻す。一方、両脇殿は(同5間、同2間)の南北棟で、向かい合う正面の中三間だけに縁を持つ。脇殿には床束柱があることから床張り建物であった。正殿も縁を廻すことから床張りの建物と推定される。第66・68次発掘調査では、徳丹城以前の「官道」が確認されている。官道は幅員34尺から20尺への改修がみられるが、その詳細な時期は不明である。また、造営段階の掘立柱建物と小鍛冶工房を抱える竪穴建物も確認されている。これらは、徳丹城竣工後は撤去された。令和2年3月矢巾町教育委員会』
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パンフレット「律令国家最後の城柵徳丹城」より…『徳丹城は、今から遡ることおよそ1200年前の弘仁3(西暦812)年頃、征夷将軍文室綿麻呂によって築かれた律令国家最後の城柵です。桓武天皇が推し進めた征夷政策は、延暦21(西暦802)年に胆沢城(奥州市)を、翌延暦22には志波城(盛岡市)を造営し、日本国の北への版図拡大が行われました。ところが、延暦24年には「軍事と新都造営」という莫大な経費がかかる二大事業が中止される決定がなされ、陸奥・出羽両国の段階的な軍事の縮小が行われました。おりしも、志波城は度重なる水害に苛まれ、弘仁2年閏12月には便利のよい土地への移転が行われ、その後の歴史から姿を消します。この志波城に替って造られたのが「徳丹城」だったのです。【先行する官衙】一辺150mの溝で囲まれた平行四辺形の役所跡です。内部には大型の建物跡や工房を抱えた竪穴住居跡が配置されています。徳丹城に先行する役所で、徳丹城の完成とともに撤去されてしまうことから、志波城移転と徳丹城造営に深く関わった役所ではないか?と考えられます。遺物として三方透かし高盤や「別将」銘墨書土器があります。【徳丹城跡】一辺約355mの正方形の城柵です。外側の区画は、築地と丸太材木塀を併用しています。中央には一辺約76mの板塀で囲まれた政庁があり、正殿や東・西脇殿が配置されています。城内には、実務的な役所があり、西側湿地帯の工房施設内の井戸から、水桶に転用された木製の冑が出土しました。代表する遺物…木製冑(トチノキ、前後径24.5cm、左右径20.0cm、高さ16.8cm、厚さ2.0cm)、琴天板(東面最下段、モミノキ、現長85.3cm、幅14.7cm)【運河】北上川へ向かって三角形に突き出す低位段丘の下から、旧北上川?河道へ向かって約400m、人工的な水路(運河)が弓なりに掘削されています。おそらく自然の小河川を改修した運河だったと考えられます。運河の幅は約3m、深さ0.3mほどですが、段丘の下では幅15m、深さ1mとなります。』
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Wikipedia「徳丹城」より一部抜粋…『徳丹城(とくたんじょう/とくたんのき)は、現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田にあった日本の古代城柵。1969年(昭和44年)8月5日に国の史跡に指定されている。【概要】「徳丹城」は、もともとあった志波城(盛岡市)を、水害を理由に弘仁2年(811年)、文室綿麻呂の建議により、翌弘仁3年(812年)の3月頃約10キロメートル南方に移転・造営したものである。沖積平野の微高地(低台地)に立地し、約350メートル四方の規模である。材木列で周囲を囲み、70メートル - 80メートルの間隔で櫓を建てていた。内部には官衙建物群があり、志波城の政治機能を引き継いだものと考えられる。しかし志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかない。さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。志波城の移転・徳丹城の造営・徳丹城の廃止の一連の流れは、この時期の律令国家の強硬政策の転換として、熊谷公男や鈴木拓也らが取り上げている。2006年(平成18年)7月31日に徳丹城跡内の井戸跡で、国内初となる木製の兜が発見されていたことが9月13日に矢巾町教育委員会から報道機関に公表された。過去の文献には木製兜の存在が記されており、その数も非常に多いと推定されていたものの、木材は腐食しやすく出土した例が無かった。また、1971年頃に徳田小学校旧校舎を取り壊した際、建築廃材(コンクリート片)がそのまま徳丹城跡に埋められ、史跡が385平方メートル(2007年7月26日現在判明分)に渡って損傷していたことも明らかになった。敷地内に、矢巾町歴史民俗資料館、南部曲り家を併設し、史跡公園として現在整備が進められている。【名称】城名は、元来「トクタン」ではなく「トコタン」と呼ばれていたが、後に「徳丹」の漢字が当てられることによって「トクタン」として定着したと見られる。史跡の所在地である「徳田」も、この「徳丹」と同義であろう。 「トコタン」の語はアイヌ語に由来すると言う説があり、アイヌ語では「元の村」、「滅んだ村」の意味になるが、安易にアイヌ語に由来を求めて解釈することには賛否ある。』
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