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青森県青森市浪岡大字下石川岡田。下石川ふれあいセンターの隣に下石川共同墓地があります。『新撰陸奥国誌』によりますと「境内二百五十坪 村中にあり 黒石法眼寺の末庵なり 享保三年無源と云る僧の開山なり 庵東西二間半南北四間東向なり 本尊は釈迦」とあります。現在は建物は取り壊されており、共同墓地内の地蔵堂に本尊等が安置されています。
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江戸期以降の下石川村についてです。津軽郡田舎庄のうち。はじめ石沢村と称しており、貞享2年より改称。享保12年に改めたとも伝えますが、元禄郷帳には既に下石川村と見えます。弘前藩領。村高は正保高帳51石余、貞享4年検地水帳218石余(田146石余・畑屋敷71石余)、寛保高辻帳51石余、天保郷帳259石余、旧高旧領330石余。天和3年の御代官所村家人数之帳に下ノ切御代官所支配の新田村として石河村漆新田の名が見えますが漆木植付を目的に当村から派立した村と考えられ、後に当村に含まれることになったと考えられます。貞享4年検地水帳によりますと、当村は小字に平野・岡田があり、反別は田19町余・畑屋敷24町余(うち屋敷1町余)、漆木73本、他に見取場25町余、開発可能地(田畑)2町余、池床10ヶ所・1町余、熊野堂地6畝余があります。元禄3年には飯詰組に属して村位は下。明治4年弘前県を経て青森県所属。同11年北津軽郡に属します。同16年同郡第11組役場、同17年原子村外六ヶ村戸長役場の管轄となります。明治初年の戸数は56で、村況は「土地美ならす熟作少し、村居は平坦、田畑多く耕耘を専業とし余産なし」とあります(国誌)。地内の熊野宮は明治6年高野村の広峰神社に合祀されていますが同8年に復社し同9年村社。また、貞享年間に既に存在したとされる村中抱えの稲荷宮が見えます。寺院としては八宗兼学の下石川庵があります。同12年の宗派別戸数は浄土宗15・曹洞宗12・日蓮宗10・浄土真宗3・黄檗宗1・神道1。同22年七和村の大字。
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石澤村(下石川村)の玄宗庵(現在は廃寺。共同墓地の隣に鎮座)は、享保3年に無源という黄檗僧が開いた庵です。黄檗派の本山である黄檗山万福寺第五代住持高泉筆の小振りの対聯が残されているそうです。『飯詰組下石川村図』(享保12年以後)には「法眼寺末庵玄智庵」とあり、なぜ名称が異なるのかは不明。下石川共同墓地に「大安通心禅人」と刻まれた墓石があります。この僧侶の墓石から嘉永5年2月8日に亡くなっていることがわかり、また本寺の法眼寺(黒石市山形町)の合祀位牌(「玄宗大安通心禅座二月八日」)から玄宗庵主であり黄檗僧であることがわかります。しかしながら下石川共同墓地地蔵堂内に「津軽浪岡西光庵什物 良住運碩代」と刻まれた木魚があり、西光院境内の世代墓石によりますと、常蓮社良住上人運碩和尚の示寂は文政5年9月24日とあり、木魚がいつ玄宗庵にもたらされたのかは不明であるものの、浄土宗系の僧侶が住んでいた可能性もあるため、庵主を黄檗僧が幕末まで連綿と勤めていたのかどうかについては疑問が残るところとなっています。
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地蔵堂内。
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5.4
5.8
「萬里迷途縣慧月 無辺苦海泛慈舟」と刻まれた小振りの聯が一対あり、題したのは高泉性潡(黄檗山萬福寺第五代住持・中国僧1633-1695)。また、上記の木魚が現存。
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元玄宗庵本尊。
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唐牛氏本家、唐牛忠藏・唐牛たそ子碑と刻む碑と石灯籠一対。
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8.5
たそ子でいいのかな?!上部には「中興之祖」とありました。
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背面碑文…『姉小笠原をみ子行年二十一歳没後三十六年、長男唐牛俊一仝十九歳仝三年、母仝たそ子仝七十歳仝二十二年、父仝忠藏仝六十八歳二十七回忌ニ際シ 昭和十三年旧十月十三日五所川原町醫師唐牛義孝 謹建行年五十才』
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観音像。
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観世音菩薩(昭和13年旧10月、五所川原町、唐牛とみ子)
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ケヤキの老木。
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二基の墓石。
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「玄宗大安通心禅人塔」、右側面「嘉永五壬子二月八日去」、背面「防州■■真建焉」。※周防国から来た方と推測。
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15.2
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「太巌玄乘首座」、右側面「明治廿(丗かも)一年旧三月五日」、左側面「山形県最上郡桝形村龍雲院 卍孝和尚弟子」、背面「須田クラ建之」※龍雲院は曹洞宗の寺院。
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16.2
16.4
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百萬遍塔(弘化三丙午年四月廿一日講中、高さ81.5cm・幅66cm・厚12.5cm)
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